12
郷原の元に研修の案内が届いた。本来なら、吉田や武ちゃん、ヒトミと一緒に受けるはずだったが、三か月遅れで通知が来た。
スーツ姿の女が現れた。
「あら、久しぶりね」
「プラットフォームでレクチャーしてくれた、白装束の……」
「そうよ。あたしのことは丸ちゃんでいいわ。あなたのことはメガネ坊やから聞いているから自己紹介無しでOKよ」
彼女はプラットフォームで会ったときより、生き生きしているように見えた。
郷原にとって、一週間研修はたやすいものだった。魂の操作や呪文など、実際に使っていたからだ。ただコース選択だけは最後まで決めかねた。なんとなく公務員コースを選択したい気持ちがあったが、本当にそれでいいのか迷いもあった。悩んだ末、丸ちゃんに相談することにした。
三階の控室に行くと丸ちゃんはひとりだった。
「どいつもこいつも甘いのよ。あんた、公務員をなめてんのよ。今のことしか考えてない。先のこと考えていないのよ。公務員選んだら永久よ――えいきゅう(・・・・・)――。あんた、この意味わかってんの?」
ものすごい剣幕だった。
「これは現世ではありえない定義なの。だから勘違いするのよ。最初はみんな、永久イコール一生ぐらいだと思って公務員コースを選ぼうとするのよ。でもね、一生っていうのは、いつかは死ねるの。死ねるってことは、終わりがあるの。でも永久っていうのはね、死ねないの。終わりがないってことなの。まるっきり違うのよ」
丸ちゃんは公務員コースを否定した。
「現世にいるとき、永遠の命があったらいいのになあ‥‥。なんて、たわけたこと言う奴がいたけど、永久に生き続ける怖さを、まるでわかっちゃいないのよ」
「じゃあ丸ちゃんはなんで公務員を選んだの?」
一瞬言葉に詰まった丸ちゃんが、
「飲まなきゃやってられないわね。ター坊、ちょっと付き合いな」
いつの間にか三十過ぎの中年男がター坊になっていた。丸ちゃんは、奥の納戸からワイン二本とグラスを持ってきた。
「あたしだって深く考えてなかったのよ。自棄よ。現世でいろいろあって……。それに、あたしの指導教官も、この選択は君たちの自由意思だ。とか言って、特に相談に乗ってくれなかったしね。あまり深く考えないで決めちゃったのよ」
丸ちゃんのように、酒を飲んで本音で相談に乗ってくれる教官の方が珍しいということか。
「最初は自分の選択は正しかったと思ったわ。教官の仕事も楽しかったしね。でもね、永久の怖さを少しずつ感じてきたの。今更って感じだったけどね……。
――あたし、この後、どうなっちゃうの?
――いつまで繰り返せば終わりが来るの?
そうすると、最初達成感があった仕事も怖くなってくるの。しまいには、どうすることも出来なくなって、パニックになって……、それで思いっきり後悔したの。こんなコース選ばなければよかったって……」
丸ちゃんは立て続けにグラスを空けて、早くも二本目のボトルを開けていた。
「そんなとき、武ちゃんに会ったのよ。あ、武ちゃんて言うのはね、野球が大好きなの。ホント好きなのよ」
「知ってます。天国ロードを昇ってくるとき、後ろにいましたから」
「そうそう、その武ちゃんがね、野球で活躍して、有名になって、歓声浴びたりするのも好きなんだけど、そんなこと以前に、野球やるっていうこと自体が何よりも好きなのよ。プロもアマも関係ない。草野球でもいい。少年野球の監督でもいい。純粋に野球が好きなの。そして、ちょっとでも上手くなりたいって言うのよ。どーよ、ター坊」
「どうといわれても……」
よくわからない武ちゃん話を聞いてもピンとこない。
「そんでね、大好きな野球がここで一生できるなんて、夢みたいだって言うのよ。しかも齢はとらないし練習時間は永久にあるから、どんどん上手くなるってね。こんないいことないって言うのよ。しまいにゃ、どこまで上手くなるか、自分で自分が怖くなるとか言って大笑いするもんだから、こっちまでおかしくなっちゃって二人で大笑いよ。キャハッ」
女子学生のように笑っていた。郷原のグラスに勝手にワインをつぎ足し話を続けていく。
「あたし、飽きないの? って聞いたんだけど、絶対飽きないんだって。野球って、一つ一つのプレーに同じプレーって存在しないんだって。やったことないからよくわかんないけどね。武ちゃんが言うには、ピッチャーの投げる球のスピードやコース、それにタマの回転。それからバッターのスイングスピードや角度、球に当たるタイミングで打球もまるで違ってくる。内外野の守備だって、そのときの風や天候、グラウンドコンディションではイレギュラーすることもあるし……。だからファインプレーが出たり、エラーが出たり、おんなじプレーって絶対ないんだって。だから、毎日練習して、少しでも難しい球を取ったり、打ったりできるように練習するんだってさ。やることは果てしなくあって、飽きることはありえないんだって」
公務員の選択について質問したはずなのに、丸ちゃんの話はどんどんずれていく。郷原は仕方なく、ワインをチビチビ飲んでいた。
「そんで一度、武ちゃんの練習を見に行ったのよ。そしたらちょうどマネージャーを募集していて、監督の津田さんが、掛け持ちでいいからやってくれないかって言うのよ。あたしは指導教官やってるから無理だって断ったんだけど、チームの人たちが練習やってるのを見て分かったの。武ちゃんが言ってた、飽きることはあり得ないっていうことが。みんな、泥だらけになっておんなじことを繰り返しているのよ。一生懸命、飽きもせず。でもみんな楽しそうなの。生き生きしているの。そんでその場で返事してしまったの。お願いしますって」
うっすらと頬に赤みを帯びた丸ちゃんは、空のワインボトルをぬいぐるみのように抱きかかえ、夢中になって話を続けていく。
「あたし、目からうろこだったの。武ちゃんの、飽きることがあり得ないっていう話。ちょうどそのころ、五年病になってめちゃくちゃ落ち込んでいた時期だから……」
「五年病?」
「そう、現世でいう五月病みたいなものよ。公務員コース選んで五年ぐらい経つと、永久の本当の恐ろしさに気がついて、悩む人が出てくるのよ」
「なるほど、それで五年病ですか……」
「武ちゃんの話を聞いたとき、雷が落ちたみたいな衝撃受けたのよ。現世にいたときって、セコセコ出世のことしか頭にない男ばっかりだったわ。私もとにかくバリバリ仕事こなして出世する男がかっこいいって思っていたし。武ちゃんみたいな男、丸の内で働くエリート社員には絶対いないから」
――たしかに……
「だからぁ、あたし公務員については、前みたく百パーセントの反対はしないのよ」
ようやく武ちゃん話が終わり、本題に入ってくれるようだ。固唾をのんで次の言葉を待った。
「ター坊よく聞いて。まずは、永久っていう言葉の本当の怖さを理解するの。たいていの奴はここで “ハッ”って顔して、修行コースを選択するわ。でもね、永久の本当の意味を理解して、それでも公務員を選択したい。武ちゃんみたいにね。そういう志があるのなら、私は反対しない。むしろ応援する」
――永久の本当の怖さを理解したうえで、それでも公務員コースを選ぶ志か……
丸ちゃんはだいぶ酔っぱらっていたが、ふらつく足で奥から日本酒の一升瓶を抱えてきた。
「ター坊~ あたしばっか、しゃべっちゃったけど、……オェッ、あんた、なんかないの……。現世の面白い話とか聞かせてよ」
丸ちゃんは呂律が回っていなかった。三か月前からマネージャーを掛け持ちして、このところ、ツネゴンズの合宿が忙しく、ゆっくり酒を飲む暇がなかったらしい。チームは昨日から野村監督のボヤキーズとの試合で遠征し、丸ちゃんのマネージャー業務は久々のオフ。今日は羽を伸ばしたかったようだ。
「実はね、あたし達、付き合ってるの……」
予想外の告白に驚愕した。
「そんなのありですか?」
丸ちゃんが日本酒を湯のみになみなみと注いでいた。
「もち秘密よ。こっそりよ。だれにも言っちゃだめよ」
口元に人差し指を立てて念を押した。
「みんな真剣に修業してるのに、イチャイチャできないでしょ」
――そりゃ、そうでしょ……
丸ちゃんが足を組み直し、少女のように頬を赤らめた。
「ばれたらどうなるんですか?」
「知らないわよ、そんなこと」
勝手にブドウやコメを醗酵させて浴びるように飲む丸ちゃんのことだ。何をやっても不思議ではない。
「武ちゃんの世界って、あたしの全く知らなかった世界なの。野球のことなんか、ルール自体知らなかったしね。でも、武ちゃん見てると本当に楽しそうで、この人って、永久に楽しいんだろうなぁって……。だったら、私も武ちゃんについてって、永久に楽しんじゃおうかなって思ったのよ」
テーブルの上で、両手に頬杖を付いていた。
「武ちゃんてさぁ、ズカズカ人の中に入り込んできて、最初、こいつ何者? って思ったわけ。でも結局、あたしから告っちゃったのよ。ハハ、信じられる? 丸の内でキャリアOLやってた、このあたしがだよ」
いつの間にか丸ちゃんのお惚気話になっていた。郷原は急に眠たくなった。
「おい、ター坊。ぼっとしてないで反応してよ!」
しゃべりつくした丸ちゃんも眠そうだった。
しばらく沈黙が続いた。
「結局、似てんのよね。あたしとあんた。強がっているけど孤独なのよ。だから、何かよりどころが欲しいのよね……」
丸ちゃんがぽつりとつぶやいた。
――丸ちゃんのよりどころは武ちゃんなんだろう……。オレのよりどころってなんだろう?
そのまま、丸ちゃんはすやすやと寝てしまった。
郷原は子供の様に眠る丸ちゃんに、研修所の毛布を掛けて自分の部屋に戻った。
その夜、郷原はひとり悩んだ。
オレは今まで何をしてきた?
何をしているときが楽しかった?
何をしているときが輝いていた?
これまでの記憶を一つ一つ手繰り寄せていた。
実の親のことは何も覚えていなかった。
六歳のとき、函館の三人家族の養子になった。
事情は分からない。
中二のとき、初めて自分が養子であることを知った。
それ以来、育ての親に甘えたことはなかった。
孤独だった。迷惑かけまいとしてきた。
だから無理に強がって生きてきた。
その分、弱い者の気持ちは痛いほどわかった。
誰かを助けることは好きだった。
面倒を見ることも好きだった。
もともと失うものが無かった分、上司に立てついてでも部下を守ってきた。
部下のミスは自分のミスとして、客の前で土下座もした。
でも、決して無理してやってきたことではなかった。
身寄りがなかったオレは会社が家族。
上司は親父で、部下は子供だった。
――ちゃんとやれば、ちゃんとなる。
誰かに教えてもらったわけではないが、子供のころからのポリシーだ。
これまで、自分なりのやり方でちゃんとやってきた。
やっぱりオレは、会社で働いているときが一番楽しかった。
一番輝いていた。
これは間違いない……。
郷原は確信した。
――指導教官になりたい。
現世でやり残したことを天国でやり続けたい。ちゃんとやらなければならないことは山ほど残っている。なんで気がつかなかったのだろう。
丸ちゃんは言っていた。野球のプレーに同じものは存在しない。少しでも上手くなろうと毎日練習する。やることは果てしなくあって、飽きることはありえないって。指導教官の仕事だって一緒じゃないか。同じ人間なんて存在しない。一人ひとりの個性があるからだ。指導法だって、果てしなくあって、考えれば考えるほど奥が深くて尽きることなんてありえない。そうだよ。野球も指導教官も一緒だよ!
やがて、伊藤や佐々木もくるだろう。あいつらにも、ここでしっかり指導してやりたい。
郷原は公務員コースを選んだ。二日酔いで怠そうな丸ちゃんに申請書を提出した。中身を確認した丸ちゃんは黙って頷いた。