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郷原は予定通り玉藻池に降り立った。地面にしっかりと足を付けた感触があった。辺りを見渡すと、木の枝にローブが、根元に大鎌が立てかけてあった。吉田はまだ水浴びをしているようだ。草むらに隠れて吉田を待った。幹線道路から離れているせいか、新宿御苑のほぼ真ん中に位置するこの池は静かだった。
二時十分を少し回り、寒そうに身体を震わせた吉田が現れた。木の枝のローブを取って羽織りかけたとき、草むらからこっそり近づいて、後ろから両手で目隠しをした。
「だぁ~れだ」
吉田がハッとして背筋を伸ばした。
「その声は……」
手を緩めると吉田が振り返った。
「課長じゃないですか~」
突然目の前に現れた郷原を見て、何が起こったか分からないようだ。
「おっと、こんなことをしている暇はない。助けにきたぞ。もうすぐここに吉豊が来る。奴はもう一つの魂を持って来るはずだ。それを持って三人で天国に戻るんだ」
郷原が早口で説明した。
「もう一つの魂って……」
「詳しいことを説明している暇はない」
吉田を草むらの陰に促して東の空を伺った。手元の天国時計では三分半が過ぎていた。
――そろそろ来る頃だが……
そのとき、東の空に吉豊らしき小さな影が現れた。
「ここだー、早く来ーい。時間がないぞー」
夏の夜空に郷原の声がこだました。
吉豊は右手に小ぶりの巾着をぶら下げていた。
「上手くいきました。言い伝え通り、涙の壺が魂になっているようです」
興奮した吉豊が降りてきた。
「現世には触れることができないものがあるから、ひょっとしたらダメかもしれないと心配しておったんですが、これはうまく持ってくることができました」
いつも表情が変わらない吉豊が、顔をしわくちゃにして、光り輝く巾着をかざして見せた。
「これで、あっしも皆さんと修行ができます」
「よくやった。計画通りだ!」
そのとき、玉藻池の周りが急にざわつきだした。コウモリの大群が池の周りから一斉に夜空に飛び立った。
――なんだ! 何が起きたんだ?
コウモリの大群の中から、三人の死神が現れた。郷原はあわてて吉田の手を取り、玉藻池の中に飛び込んだ。吉豊は素早く吉田が立てかけていた大鎌を手に取り、二人を庇うように、空中で三人の死神と対峙した。
「吉豊よ。いつの間にかいなくなったと思ったら、天国でちんたら修行なんかをやってたそうだな。情けない奴め」
「お父上!」
吉豊の実父、吉利のようだ。
「兄上、その巾着は涙の壺ではござらぬか。まさか、先祖代々の大切な宝を独り占めしようとしているわけではござらぬな」
父を真ん中に、左右に並んだ二人は弟のようだ。
「永年探しておった涙の壺がとうとう出てきたわい。貴様がどこかに隠しておったのは分かってた。お前の考えることなど、とうにお見通しじゃ。わざと泳がせてここで待っとったんじゃ」
「嵌められたのか……」
吉豊が顔をしかめた。
「さっさと壺をわたすんじゃ」
吉利が大鎌を振り上げた。
「いやじゃ。これはあっしのものじゃ。あっしが天国で修業するために使わせてもらう」
「何をたわけな。腰抜けめー」
その言葉も終わらぬうちに、吉利の大鎌が目にも止まらぬ速さで空を切った。
――うぎゃあ~~
右手首を切り落とされた吉豊が絶叫し、血しぶきが雨のように落ちてきた。
巾着を握ったままの吉豊の手首が、くるくると回って、吉利の手に落ちた。
「これは、俺が預かる。閻魔大王様への貢物だ。それと、そこにこそこそ隠れている野郎ども」
吉利が玉藻池から顔だけ出して震えている郷原と吉田に大鎌を向けた。
「貴様ら閻魔大王様のノルマを無視して、くだらんことばかりやってたそうじゃな。お前ら二人とも地獄の底で釜茹でじゃあ~」
「親父、涙の壺などいらん。そんなものくれてやる。でも、この二人は関係ねえ。見逃がしてくれ」
そう話す間も、吉豊の右手首からダラダラと血が流れていた。
「兄上、いつからそんな腰抜けになったんですか?」
「なにゆえ、そいつらを守るんですか?」
弟が不思議そうな顔つきで、無様な兄を見つめていた。
「あっしの友達じゃ」
「友達?」
「そうじゃ、友達じゃー。友達守って何が悪いんじゃあ~~」
吉豊がたまらず言い返す。
「しばらく見ぬ間に、面白いことをおっしゃいますなぁ。あっしらみてーな首切り一族、友達なんかいるわけのうござる」
二人の弟が顔を見合わせニタニタ笑っていた。
「首切りしか知らねーおめーらに、何がわかるんじゃ~」
身体のバランスが取れない吉豊が、片手でフラフラと大鎌を振りあげた。
「今の言葉、聞き捨てならん。貴様は先祖を侮辱した。生かしちゃおけぬ、こいつを叩き切れ~~」
殺気だった吉利が弟に命令した。
左右から大鎌が振り落とされた。激しくぶつかりあう金属音が空に反響した。左手一本で応戦していた吉豊がバランスを崩し、郷原と吉田の目の前に落ちてきた。水しぶきが上がり、玉藻池が血に染まる。
「あっしはこれまでのようじゃ」
胸元から魂を取りだすと、天国時計と共に吉田に手渡した。
「これで天国に戻ってくだせぇ~ 早く呪文を……」
苦しそうに声を絞りだす。
「吉豊はどうすんだよ」
魂を手にした吉田がガタガタ震えていた。
「ごたごた言ってねーで、さっさと呪文を唱えんかあ~」
吉豊が鬼の形相で絶叫した。
左手一本で大鎌を掲げた吉豊が、最後の力を振り絞り、再び空に飛び立った。
「旦那ぁ~ あっしがここで奴らを足止めしているうちに、吉田はんと天国に戻って下せえ~」
吉豊の声が暗い夜空にこだました。郷原が天国時計を見た。残り十秒しかない。このままだと三人ともお陀仏だ。
吉豊に何とか生き延びてくれと望みを託し、二人は池の中で早口で呪文を唱えた。
「アマチャン・アマチャン・モドテラス」
二回目の呪文を唱えているとき、吉利の声が反響した。
「裏切り者の吉豊をぶった切れ~」
二人は三回目の呪文を唱えた。涙声で最後の方がちゃんと言えたか怪しかった。現世が消えていく。大鎌がぶつかりあう音と火花で、一瞬、周りが明るくなった。
気がつくと吉豊の部屋にいた。隣を見ると吉田が死んだように眠っていた。胸のあたりに魂が輝いていた。吉豊の姿はなかった。
吉田が目を開けた。疲れきった二人はしばらく無言だった。吉豊が愛用していた卓袱台に何かがある。手紙のようだ。癖のある字で「遺書」と書かれてあった。郷原は慌てて封を切った。
『ここに戻って来られるか自信がございません。万一の場合を思い、遺書を認めました。
旦那、吉田はん。この手紙を読まれているということは、無事に戻れたのですね。良かったです。
お二人の誰かを助けたいというお気持ち。首切り一族のあっしにとっちゃ、考えたこともないものでした。でもお二人にお会いし、こんなあっしにも吉田はんを助けたい。そういう思いになりました。
涙の壺を持ち出すことは、たやすいことではございません。無謀かもしれません。一族の恐ろしさは、あっし自身が一番よく知っているからです。でも、あっしはあっしのやり方でちゃんとやろうと決めました。あっしの生涯でたった一人の友達――どうかそう呼ばせてください――、吉田はんを助けようと決めました。
旦那から教わった魔法の言葉、『ちゃんとやれば、ちゃんとなる』
宝物になりました。
あっしはちゃんとできたでしょうか?
お二人が無事に修業を終え、現世に戻られることを心よりお祈り申し上げます。
吉豊』
「ちゃんとやったよ。あたりまえだろ……」
郷原が手紙を吉田に渡した。
「友達? ふざけんなよ。お前なんかに、友達なんて……」
手紙の上に涙が滲んでいく。
「親友って言えよ……」
押し殺すようにつぶやいた。