10
郷原は真っ白な部屋のベッドで目が覚めた。
――ここはどこだ?
真っ赤っかの世界とのギャップで余計白っぽさを強く感じた。ベッドから起き上がると、身体が妙に軽かった。時間がゆっくりと心地よく流れているような感じがした。
突然ドアがノックされ黒装束の男が現れた。カスミ草と、小脇に本を抱えていた。目と目が合って驚いた。
「死神!」
忘れもしない。あの日天国の入口で、自分の魂を渡した男が目の前に現れたのだ。
「ヒィー。ダ、ダ、旦那! 何でここに……」
吉田の見舞いにホスピタルを訪れた死神がのけ反った。
「こっちが聞きたいわい。やい、死神。お前オレの代わりに修業やってたんじゃねーのかよ」
「まあ……その節は。お世話になりまして……」
「なんだよ、死神の分際でカスミ草に黒服かよ。それに聖書なんか持ちやがって、テメーいつから牧師になったんだ? それにしてもここは何処なんだ?」
あの日、魂を受け取ると、一目散に天国の入口をくぐっていった狡猾な死神とは似ても似つかぬ姿に頭が混乱した。
「見ての通り天国ですよ」
「天国だと! そんなわけない。オレはさっきまで玉藻池で水浴びしてたんだ。そこに吉田が現れて、気がついたらここにいるんだよ」
ベッドの横を見ると、死神が持っているのと色違いの聖書と腕時計が置いてあった。
「もしかして……」
死神の表情が変わった。
死神は自分の魂を、と言っても、もとは郷原の魂を胸から取り出し、聖書の上に載せた。
「おいおい、なに始めんだよ」
郷原の問いかけを無視しながら、何やら呟きだした。
「アマチャン・アマチャン・アマテラス」
魂に両手をかざして上下左右に動かした。
「おい、てめえ、いつから占い師になったんだ。オレは死神の占いなんか信じんぞ」
死神は長い爪で魂を覆い、怪しげな呪文を繰り返した。
何かが浮かんできた。魂に浮かぶ場面を見ながら、更に両手を上下左右に動かした。突然、死神姿の吉田が現れた。
「おー吉田。お前、そんなところで何やってんだ!」
魂に映る吉田に向かって叫んでいた。
「やっぱり……。吉田はん、旦那の代わりに死神になったんですわ」
「何だって!」
郷原の表情が一変した。
「吉田はん、旦那に自分の魂を預けて、何か言ってませんでしたか?」
「言ってたよ。さっきお前が言ってた、アマチャン・アマチャン・ナントカカンとかいうやつ」
「やっぱりそうだ。吉田はん、旦那を天国に連れてくるために、代わりに死神になったんですよ」
「何だと! どういうことだよ?」
死神が言ってることがさっぱりわからない。
「吉田はん、きっとこうやって、魂に現世を映して見てたんです。そこに旦那が映ったものだから、あわてて呪文を唱えて現世に行ったんですよ。そこに天国時計が置きっぱなしです。現世に戻るとき、必ずつけないといけないものです。それも忘れて、慌てて呪文を唱える姿が目に浮かびます……」
「じゃあ、ここが天国なのか!」
似合わない死神姿の吉田が、閻魔大王に呼び出されている場面が映っていた。自分に課されたノルマがそのまま吉田のノルマになっていた。煮えたぎる釜の前で途方に暮れる吉田がいた。
「これはオレのノルマだ。奴には無理だ。会社のノルマだって一度も達成したことがないんだぞ。あんなんじゃ閻魔の野郎に釜茹でにされちまう」
課長としての本能が働いた。部下に理不尽な指示が飛んだとき、迷わず部下を守ってきた。
「今すぐオレを戻してくれ」
反射的に口に出た。
「戻せと言われても……。そんな簡単なもんじゃありまへん。吉田はんを連れ戻すには、魂が必要です」
「この魂を吉田に返すんだ!」
「そんなことをしたら、旦那が戻れなくなってしまいます」
「そんなことは百も承知だ!」
――何でそんなにしてまで助けたいのだろう?
死神には郷原の言葉が理解できなかった。
「アーアーアー、とても見てられん。オイ、死神。さっさとオレをあっちへ戻してくれ!」
魂を見ながら叫んでいた。
「いいか、オレの魂はとっくに貴様にくれてやったんだ。こっちの魂は吉田のものだ。吉田に返すのが筋だろ!」
「どうか、落ちついてくだせえ……。ここは、天国ホスピタルっていうところで、吉田はんが入院しとったところなんです」
「吉田が入院? あいつ、怪我でもしたのか?」
要領の悪い奴のことだ。天国でも何かをやらかしたのか?
「まあちょっと……、色々あったんです……」
「色々ってなんだよ、はっきり説明しろよ。さっきからじれったいな」
歯切れが悪い死神を後ろから羽交い絞めにした。
「ダ、旦那……、これ以上大きな声を出せば通報されてしまいます。場所を変えましょう」
「どこに行くんだよ」
「あっしの部屋に行きましょう。横の天国時計とヒストリーをお持ちください」
「お前の部屋か。天国でも部屋が借りられるのか?」
要領がよくわからない郷原は、ベッド脇の腕時計と聖書のような本を手に取った。
外に出ると、どこかの田舎に来たようなのどかな景色が広がっていた。
「ここが本当に天国なのか?」
死神は何も答えず歩いていく。
空には太陽があり、雲がある。風が吹き地面には花が咲く。ただ、原色系の色がなく、全体が薄っすらとしたパステル調の色彩だ。
何もない田舎のあぜ道を歩いていくと、この景色に不似合いな建物が見えてきた。
近づくと、五階建ての十棟の建物が並んでいた。
「あれがお前のアパートか?」
「修行棟です」
――修行棟?
そう言えば天国は修行の場だとか言っていた。
郷原はプラットフォームで聞いた、白装束の言葉を思い出した。
死神の部屋に案内され、卓袱台に向かい合った。
「さっきもお見せしましたが、これはヒストリーといって現世の記録が書かれた日記帳のようなものです」
「日記帳? てっきり聖書かと思ったよ」
「こうやって魂を上に載せ、両手で操作しながらさっきの呪文を唱えると、現世の様子が映ります。天国に来て最初の研修で教わりました」
「すげーな。オレにもできるんか?」
「自分の魂を外して、吉田はんのヒストリーに載せるとできるはずです。あとでやってみましょう……。その前に、ちょいと旦那に見てもらいたいものがございます」
死神は慣れた手つきで両手を上下左右に動かしていく。微妙な動きで場面が変わり、吉田が自宅に入る場面で手を止めた。
初めて目にした息子をぎこちなく抱き上げ、子供のような笑顔の吉田が映っていた。証拠の日記帳のありかを示すため、子供の手を借り百科事典を必死で動かそうとする吉田が現れた。母と妻が支店長や警察に日記を持っていくが、相手にされず悔しがる吉田がいた。伊藤と佐々木の夢の中に現れ、会社に真実を打ち明けるよう働きかける吉田が次々と現れては消えていった。
――全部吉田だよ!
不器用だけど、奴が奴なりに一生懸命やっている。これが吉田だよ!
自分のために動き回る吉田がいじらしかった。
玉藻池から消える瞬間の吉田の言葉――ぼくがやり残したこと、やらなくてはいけないことを、やらせてください――を思い出した。
――お前がやり残したことって、これだったのか……
死神は骸骨のような細い指を器用に操作し場面を変えていく。伊藤と佐々木が現れた。項垂れて下を向く二人が人事部長に真実を話していた。
郷原は救われた。
――オレが死んだって悲しむやつなんかいないのさ。所詮、オレなんて仕事だけが生きがいの悲しい人間なのよ……。
以前、吉田に言ったセリフを思い出していた。
こんなの嘘っぱちよ。強がりよ。本当は、みんなに悲しんでほしかったのよ。オレが死んだとき、みんなに思いっ切り泣いてほしかったんだよ。自己中のパワハラ課長のレッテル貼られて死んでいくなんて、たまらなかったのよ。これ、普通だろ。あたりまえだろ……
死神がさらに魂を操作した。
見慣れた会社のフロアーに、懐かしい東京支店のメンバーが揃っていた。朝礼のようだ。人事部長が新しい支店長を紹介し、郷原課長にパワハラの事実は一切なく、吉田の自殺との因果関係もなかったことを説明した。元支店長が提示したパワハラの証拠は、彼の独断で捏造されていたこと、警察の捜査にも問題があったことを説明した。会社として弁護士を立て、公正な裁判を行うことになったと説明した。
仲の良かった女子社員が鼻をすすりながら泣いていた。いつも助けてくれた、ベテランの事務社員が真面目な顔で何度も肯いていた。同期の田中の複雑な顔もあった。
――お前のおかげだよ。ありがとな……
素直に礼が言いたかった。でも、このままじゃ吉田がかわいそうだ。
「奴は一生、いや、永遠にあそこで死神なんだろ。そんなの無理だよ。あいつは抜けたところはあるけど、親思いの、妻思いの、上司思いの優しい奴なんだ。奴を死神のままにしておくことなんかできないよ。オレが死神になる。さっきの呪文を教えてくれ!」
死神の黒装束を破けんばかりに締め上げた。
「勘弁してくだせぇ……。あっしだって、吉田はんを助けたいんです。その気持ちは、旦那と変わりません」
「貴様にオレの気持ちがわかってたまるか! お前に吉田の良さがわかるんか!」
黒装束を更に締め上げた。
「あ、あっしにとっちゃ、生まれて初めてできた友達です……」
喉を締め上げられた死神から、かすれ声が漏れてきた。
「友達だと? 貴様と吉田が?」
意外な言葉に力が抜けた。
死神は、自分は「吉豊」という名で、江戸時代から首斬りを家業とする一族であったこと。吉田と同じ世襲で苦しんでいたこと。自分が郷原の代わりに天国に来たことを知った吉田が怒り、殴り合いの喧嘩をしたことなどを話した。
「吉田はんを助けに行くのはあっしの方です。もともと、あっしが旦那の魂を頂戴しちまったのが悪かったんです。あっしのやったことは、旦那をだましたことと一緒だと吉田はんに叱られました」
「死神……」
「ここでの修業はヒストリーと魂を使って現世の記録を振り返りながら行うのです。旦那から頂いた魂はとてもきれいなものでした。ヒストリーを開くと、旦那の記録が出てきます」
「お前、読んだのかよ。なんだか恥ずかしいな……」
「本来であれば、旦那が読んで魂を浄化していくのですが、あっしが読んだところで浄化しないのです。考えてみれば当然のことでした。我ら一族、百三十八年間斬首家業をやってきました。そんな輩がここに来て、他人のヒストリーを見ながら修行したところで何にもならんのです」
死神が肩を落として項垂れた。やがて思い出したように切り出した。
「お恥ずかしい話ですが、まっとうな人間になりたくて、死ぬ間際にキリスト教をかじったことがございます。きっとイエスさまが呆れ返っていたことでしょう。あっしは、最初から天国なんぞに足を踏み入れちゃあ、ダメだったんです」
「でも本気で修業したかったんだろ。修行してまっとうな人間になりたかったんだろ」
「まっとうな人間になるなんて、そんな甘いもんではないのです。少なくとも、一族百三十八年分の修行はやらんといけないでしょう。とても無理な話です。あっしがまっとうな人間になるなんて、最初から叶わぬ夢だったんです」
寂しそうに魂の上に手を置いた。
「夢なんかじゃねーよ。諦めないで修業してけばいーんだよ。お前、見かけほど悪い奴じゃなさそうだな。おまえら百三十八年斬首やってきたんだったら、百三十八年修行するんだよ。おい、死神! じゃなくて吉豊か。お前、――ちゃんとやれば、ちゃんとなる――って言葉、知ってるか?」
――ちゃんとやれば、ちゃんとなる?――
吉豊が口元でぶつぶつ繰り返す。
「この言葉はな、魔法の言葉なんだ。オレも現世でこの言葉に何度も助けられてきた。誰だってちゃんとやれば、ちゃんとなるんだよ」
「ちゃんとやれば、ちゃんとなる……」
「そうだ、それだよ。いいか、教えてやるよ。お前の場合、ちゃんとやるってなんだ? 修行して、まっとうな人間になって現世に戻ることだろ。だったらまず、頭を空っぽにして考えるんだ。ちゃんとやるやり方を……」
教えてやると啖呵は切ったが、そんなやり方、たやすく浮かんで来るものではない。
吉豊はしばらく考え込んでいたが、
「あれが残っていれば……」
短くつぶやき、考え込むように遠くを見た。
「あれって?」
吉豊が黙って魂を操作した。東京都内の景色が映った。地下鉄の麹町駅が見えてきた。大小様々なビルが立ち並ぶオフィス街だ。
「平河町の……、確かこの辺だったかと……」
「何があるんだよ、こんなところに」
魂の映像は幹線道路から路地裏に入り、古臭い雑居ビルの一画で静止した。
八階建てのエレベータの扉には「故障中」との張り紙。郵便受けは、怪しげな風俗や得体のしれない事務所名が並んでいた。大半は投げ込みチラシが詰まり放題で、入居者はほとんどいないようだ。吉豊は手先の爪を細かく動かし、地下二階へ場面を移した。こんなビルに地下二階があること自体、意外であった。
頑丈そうな扉があった。戦争中に作られた防空壕のようにも見えた。鉄製の入口の扉に、ほこり紛れの大きな南京錠がついていた。しばらく開けられた形跡は無かった。
「なんだ、ここは」
「一族の屋敷があった場所でございます。もちろん、屋敷はとうの昔に取り壊され、ご覧の通り誰かのビルになっておりますが。ただ、この地下室。ここはあっしが作ったもので、室と呼んでいました。ここはどうやら残っていたようです」
江戸時代、徳川家お抱えの試刀家として名を成し、罪人の生き胆を薬品として売るなどして莫大な資産を蓄積した一族も、八代目、吉豊の代になると、首斬り家業は廃れ、蓄えた資産も食いつぶし、最後に残った屋敷も売り飛ばしたのだ。それにしても関東大震災や戦争で焼け野原になったこの場所も、地下数十メートルに作った室だけは無事だったということか。
「何か大事なもんでも入ってるのか?」
「それを今から確かめようと思います……」
吉豊は魂を操作した。室の壁際の棚の片隅に、暗闇の中で鈍い光を醸し出す不思議な空間があった。着物地の巾着袋のようなものが光っていた。電気も通らない真っ暗闇の地下室で、巾着だけが提灯のように、鈍く部屋の片隅を照らしていた。
「何だ、これは?」
「涙の壺です」
吉豊の目がランランと輝いた。
「なみだのつぼ?」
「旦那は罪人の首を切った後、晒し首にするのをご存知ですか?」
「そんなこと知らんわ。気色悪い……」
「腐敗を防ぐため、血抜きをし、切り口を塩漬けにします。顔をきれいに洗って髪を整えます。このとき、首斬り一族にしか知りえぬ儀式があるのです」
信じ難い話をまるで料理のレシピのように話し出す。
「儀式?」
「ええ、切り落とされた罪人の首を持ち上げると、両の目から、必ず一滴の涙が零れ落ちるのです。首が落とされる瞬間まで我慢していた無念、後悔などが一滴の涙に凝縮し、零れ落ちると云われています。それを匙ですくい、この壺に入れるのです。初代からの習わしです。あっしは八代目として、この涙の壺を父から家督と共に受け継ぎました。その後、斬首家業は廃業しましたが、この壺だけは誰にも見つからぬまま、ここに眠っていたのです」
吉豊が魂を操作し巾着に近づいた。中の壺が強い光を発しているのがわかった。
「言い伝えだと、死罪人が最後に流す涙は魂の一部だと言われています。それぞれの涙が、壺の中で固まり、本物の魂になるという言い伝えがあるのです」
「じゃあ、この中にあるのが魂なのか?」
「この壺には、吉田松陰や橋本佐内など安政の大獄の志士たちの涙も含まれています。先祖代々大切に保存してきたのです。あっしが受け継いだ時は液体で、こんな光は発していませんでした。不純物が浄化され、本物の魂になったのでしょう」
興奮冷めやらぬといった様子の吉豊が、いつもより早口で説明した。
「あっしの魂は、旦那にお返しします。旦那の魂は、吉田はんに戻しましょう。あっしはこの涙の壺を頂戴します。そして三人で、ここに戻って修行をしましょう」
「そんな先祖代々の貴重なもん、勝手に持ち出しできるんか? ご先祖さんの罰が当たったりしないのか?」
「涙の壺は、あっしが親父から家督と共に受け継いだものです。あっしが正真正銘の所有者です」
吉豊の目の奥が、強く光っていた。
「この壺には、我々一族が百三十八年かけて斬首した、数えきれない罪人の魂の欠片が蓄積しています。一族の穢れと彼ら全員の魂を浄化するには、少なくとも百三十八年はかかるでしょう。でもあっしは、何年かけてもいいからここで修業して、先祖代々の行いと罪人の魂を浄化します」
「すごいじゃねーか。言っただろ、ちゃんと考えればちゃんとなるんだよ。すぐ案内してくれ。涙の壺を手に入れ、三人でここに戻って修行しよう!」
満面の笑みで吉豊の肩を抱く。
「落ち着いてくだせぇ。これには綿密な計画を立てる必要がございます」
「そんな悠長なことは言ってられんぞ。まずは行動。走りながら考えるのがオレの主義だ。すぐに出発しよう」
仕事モードになった郷原が、上司のような口調で指示を出す。
「そうは言っても現世にいられる時間はわずか十分です。ここは、役割分担を決めて綿密に行動する必要がございます」
「十分? えらく短けーな。まあいいだろう。その役割分担とやらを言ってみろ」
眉間にしわを寄せた郷原は、かつての熱血課長となっていた。
「あっしが見たところ、吉田はんは、夜中の二時に新宿御苑の玉藻池で水浴びをして、だいたい十分ぐらいで出てくるようです」
「奴は昔から時間に関してはえらく几帳面なところがあったからな。しつけが厳しかったみたいで、風呂に入る時間や歯を磨く時間まできちんと決めていたようだ」
「旦那は、吉田はんが池から出てくる時間に現世に行って、吉田はんをつかまえておいてくだせぇ。あっしはそのあいだに室から涙の壺を取って玉藻池に向かいます。そこで落ち合って、一緒に天国に戻りましょう」
「よし分かった。早速今夜二時に出発だ!」
「ちょっと待ってくだせぇ。念のため、もう二、三日、吉田はんの行動を見守りましょう。それに、現世を行き来するには、旦那も呪文や魂の操作を練習しておく必要がごぜえます」
「お前、見かけによらず冷静だな」
感心して吉豊を見返した。
それから三日間、郷原は魂の操作を練習し、二人で吉田の行動を見守った。郷原は魂の操作をあっという間にマスターした。吉田は現世での性分が消えないらしく、毎晩、計ったかのように、夜中の二時に玉藻池に現れると、十分間の水浴びをこなしていた。
「奴の行動は実に分かりやすい。出発は今晩だ。吉豊、室の場所を正確に確認しておけ、カギを忘れるな!」
「カギなんぞいりません。現世では、どんな場所でも空気のように素通りできますから」
吉豊が薄く笑って郷原を見た。
二時になった。わずか十分間でこなさなければならない段取りだ。時間内に戻れないと、魂は粉々になり、彷徨幽霊になってしまうのだ。
二人は魂に、それぞれの行き先を映し出す。天国時計は魂に映る現世の時間を示していた。久しぶりのしびれる仕事に郷原は興奮した。こういう修羅場は何度もこなしてきたからだ。
「時間は十分だ。吉田が池から出てくる一分前に呪文を唱えるぞ。オレは玉藻池、お前は室に向かう!」
天国時計を見ながら指示を出す。こういうときの彼は実に頼もしい。
「ちょっと気になることが……」
突然何かを思い出した吉豊が口ごもる。
「なんだよ、ここにきて。やめましょうとか勘弁だぞ」
冗談半分で吉豊を見た。
「たいしたことではございません……。もしものことを考えて、あっしが今持っている旦那の魂と、旦那が持っている吉田はんの魂を、ここで交換しておきましょう」
「もしものことって何だよ? でも確かにそうだよな。その方が、あっちでお前だけ吉田に魂渡せば済むからな」
郷原は納得し、元々自分のものであった魂を受け取った。
天国時計が二時九分を経過した。
「よし、行くぞ!」
郷原が気合を入れた。
「アマチャン・アマチャン・イクテラス」
二人は同時に現世行きの呪文を唱えた。