8
翌朝、掃除をしようと吉田の部屋に入った律子は、数冊の本が崩れ落ちているのを目にして驚いた。床に落ちた百科事典の扉が開き、見慣れぬ冊子が入っていた。
何かを予感した律子は冊子を取り出した。
――日記帳だ!
夫が日記を付けていることなど知らなかった。パラパラと斜め読みしながらページをめくっていった。
最後のページを見た瞬間、驚きで身体が凍り付いた。
「お母さま! 主人の日記が……」
興奮した律子が、日記を開いたままリビングの義母にかけ寄った。
何事かと驚いた義母が手元の老眼鏡をかけた。
「ここを読んでください」
――郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました。でも(・・)、(・)課長を(・)信じて(・・・)ついて(・・・)いきます(・・・・)!(・) 今日は(・)ありがとう(・・・・・)ございました(・・・・・・)。明日の(・)プレゼン(・・・・)、頑張って(・・・・)きます(・・・)!(・)――
「え? 律子さん、これってどういうこと? 豊ちゃんが書いているの?」
日記を手にした義母の両手が震えていた。
突然、突き付けられた事実を信じていいのか混乱しているようだ。
「私達、とんでもない誤解をしてたんです。主人が死んだのは、郷原さんのせいではないのよ。まったく逆なの。いつも、助けてもらっていたのよ。本当の原因は……。むしろ私達のせいかもしれないの……」
二人は声を出しながら日記を読んだ。
そこには、吉田が支店長に怒られるたび、郷原に助けられていたこと。それに対する感謝の気持ち。嫁と姑の喧嘩に板挟みになり、苦しんでいたこと。生まれてくる子供と四人で仲良く暮らしていきたいという切実な思いが、ひしひしと綴られていた。
「部屋に入ったとき、主人の匂いがしたんです。それに昨日の夜中、物音がしたような気がして……、それで朝、部屋に行ってみたら本棚が崩れていたんです……」
「あの子ったらこのことを教えるため、天国にも行かないで、その辺をうろうろしているんじゃないかしら……」
屋上から部屋に戻り、二人のやり取りを見ていた吉田は、霊感の強い母に見つからないよう、部屋の片隅で小さくなっていた。
「主人は郷原さんにこんなにもお世話になっていたんだわ……」
いまだにテレビや週刊誌で叩かれている誹謗中傷を思い出すと胸が締め付けられた。
――間違いない。主人はこのことを教えるために、昨日ここに来たんだわ。誤解を解かないと。
武者震いが沸き起こり、身体の芯が熱くなった。
律子は義母を連れ、丸岡商事に向かった。
突然の訪問に支店長は慌てた。
居留守を使おうかと思ったが、すでに受付を振り切ってこっちに向かったと言う。舌打ちをして電話を置いたとたん、ノックの音が響いた。
律子は吉田の日記を差し出して、郷原課長の無実を訴えた。
「今更こんなものを持ってこられても……。事件は解決したんだからいいじゃないですか」
都合の悪い支店長が、気持ち悪い猫なで声で矛を収めにかかっていた。
――腹黒い奴め!
空中を漂う吉田が、素通りと分かっていながら大鎌を支店長に向かって振り回した。
「お恥ずかしい話になりますが、息子が自殺したのは、私達がいつも喧嘩ばかりしていたことも原因なんです……」
義母が小さい背中を丸めて懺悔をするように切り出した。
「少なくとも郷原さんには何の関係もないんです。むしろ、お世話になりっぱなしなんです。これをお読みになればわかります。このままでは郷原さんに申し訳が立ちません」
律子が毅然と言い切った。
――そうだ、その通りだ!
吉田が心の中でエールを送った。
日記に目を通した支店長の顔色がみるみる変わっていった。自分が吉田を叱責している場面が何度も出てくるからだ。
しばらく考えるように腕を組み、こう切り出した。
「彼には身寄りも何もないんです。言い方は悪いのですが、彼が死んでも、悲しむものはいないんです……」
律子は支店長が何を言おうとしているのか真意が分からなかった。支店長はゆっくりと更に身体を近づけ、囁くように声を低くした。
「今更ことを大きくしなくてもいいでしょう……。なにもお二人が進んで悪者になる必要はございません。私もこのことは決して口外しませんから……。いいですか、そっとしておきましょう……」
支店長はできるだけ冷静を装い、二人を丸め込もうとしていた。この日記が世に出ると、一番困るのは支店長だ。郷原一人に責任を押し付けた張本人であるからだ。自分の画策がバレるのを危惧した支店長が、すでに終わった話を蒸し返そうとする申し出を必死に止めようとしていた。
「私は悪者になろうとかまわないんです。昨日、息子が家に来て、この日記があることを教えてくれたんです」
「ご子息が来た? まさか……、悪い冗談は止してください。お疲れで幻でも見たのでしょう」
老人を馬鹿にしたようなニュアンスが、ことばのはしはしと顔の変化に現れた。
「このままじゃ、豊ちゃんが浮かばれないんです。このことを伝えようと、天国にも行かないで、この辺りをうろうろしているんです。姿は見えなくても私にはわかるんです。支店長さん、お願いできませんかねぇ……」
涙を流した義母が、突然床に腰を下ろして両手をついた。頭を付けたままま動かない。
「お母さん、頭を上げて下さい。幻覚ですよ、間違いなく幻覚です。忘れましょう……」
支店長は動揺を隠すかのように、大声を出して笑い出した。
「警察に行ってみます」
埒が明かない支店長に言い残し、二人は会社を後にした。
二人が部屋を出るや否や、血相変えた支店長が、面識のある警察署の署長に電話を掛けた。
――今からそっちに、吉田の身内が証拠だと言って日記を持参する。いい加減で怪しいものだから、一切、相手にしないでほしい――泣きを入れている。
事件の早期解決が最優先の警察でも、支店長から受け取った郷原課長のパワハラの裏付け資料を根拠に、その後詳しい捜査もしないまま事件解決としていた。今更新しい証拠が出てきても都合が悪く、両者の利害が一致した。
そのような裏工作があるとはつゆ知らず、二人は日記を持参した。担当警察官は露骨にいやな顔をしながら、「すでに解決済の事件です」との一点張りで、全く相手にしてくれなかった。
疲れ切った二人はとぼとぼと家路についた。