世界に届く風船
水の中を泳ぐ感覚。それは、浮力を使い人間が生存できない場所に行っている感覚。それとは違い、もっと私を支えてくれるなにかを感じている。でも左右上下の感覚は崩壊し、どこまでも行けそうな気がする。Z軸の奥へ奥へと進んでも、何も見ることはできない。そもそも目は機能しているのだろうか。きちんと見えているのだろうか。ただ単に目を瞑っていて、暗闇にしか感じていないだけなのかもしれない。
目を覚ますと、四畳半の和室に何もない天井を見ながら寝転がっていた。ここは、どこだろう。私の知っている場所ではない。狭いその部屋には、何も飾っているものがなく、ここがどこなのかは全く想像がつかない。窓の外には、見覚えない町が広がっている。しかし、不思議なことに、あまり恐怖は感じなかった。その部屋には、窓の反対側にドアの無い出口があった。私は、ゆっくりと出口から外を覗くと廊下がありその向こうに人の気配を感じた。出口には私の靴が並べて置いてあり、誰かが私を連れてきたにしては、随分と丁寧な誘拐犯だ。私にはそもそも靴を並べる習慣がない。他人の家や公共の場以外では靴は並べない性質なのだから。私は、靴を履いて廊下を抜けた。そこには、おじさんが一人椅子に座り、帳面のようなものをつけていた。
「お、起きたか。」
おじさんは、こっちをみてにっこりとほほ笑んだ。
「だ、誰ですか。あなたは。」
「俺は、ここの所員だよ。蔵三っていうんだ。みんなは蔵三さんって呼ぶよ。あんた、名前は?」
「私の名前は木原由奈です。」
「キハラユナ、ね。」おじさんは名前を帳面につけた。
「そんで、あんた何覚えちょる?」
「え、何って……」
私は、何か言おうとしたが、分からなくなってしまった。私は何故ここに、いつ、その前は何をしていた?私は名前以外の記憶が欠落してしまったようだった。
「いいよいいよ、無理に思い出さんで。ここは、死者再出発所ってところだ。信じ難いかもしれんが、あんたは死んでしもうたんだ。でも、ここにやってきた。生きちょるわけじゃねぇが、ここで過ごすことになる。」
死んだ……。思い出した。私は先輩に殺されたことを。確か――。
「俺が、あんたに言えることは一つだけ。『出会う人に出会え』。」
「それってどういう意味ですか。」
「さあさあ、早く行っちょくれ。」
おじさんは私の肩をつかむと、建物から外を出した。外は明るく、空はよく見えない。温度は適温で、暑くもなく寒くもない。おじさんはそのまま、建物の中に入ってしまった。
「どうしよう……」
そう呟きながら、とりあえず歩き始めた。風景は、ちょっと田舎の住宅街や店もある街並み。誰もいないし、出会う人に出会え、ってそんなこと言われても意味が分からない。そして、どうやら私は本当に死んでしまったみたいだった。最後の記憶は、先輩という名の人物に腹部を刺され自宅のリビングで倒れていたこと。それ以外は何も思い出せず、もどかしい気持ちがこみ上げた。私は何をして殺されたんだろう。何者だったんだろう。これだけの記憶の断片しか持ち合わせていないというのに、心は落ち着き、穏やかな光の世界で、ゆっくりと歩いている。右手に八百屋が見えてきた。店先には野菜が並んでいるが、値札は貼っておらず、店員もいない。
「すみません。」
返事はない。勝手に入るのも気がとがめたので、また、元の道を進み始めた。一本道で曲道が見えない。逆の道が正解だったのだろうか、再出発所まで戻ろうか、そう思っていたら、人が歩いてくるのが見えた。随分、壁際を歩いている。自動車も何もないのに。私は、その人に向かって走って行った。彼女は白いステッキを使いながら、壁際を叩きながら歩いていた。
「あの、すみません。」私は声をかけた。
「はい。なんでしょう?」彼女はゆったりとした口調で答えた。
「あの、私さっきここに来たみたいで、誰もいなくて、それで……」
「はい、分かりました。ああ、こういう風に出会うんですね。嬉しいわ。私は立山希美子っていうの。歳は24。ここへは3か月前に来たの。」
「あの、聞きたいことが山ほどあるんですけど。」私は疑問だらけだった。
「大丈夫ですよ。分かりました。こっちに来てください。」
彼女は杖をカタンカタンと当てながら、左に曲がった。さっきには曲がり角など見えてなかった。振り返ると右折する道もある。自分は十字路に立っていた。
「ここってもしかして、道変わったりします?」私は恐る恐る尋ねた。
「そうみたいね。私は見た通り、目が見えないのだけれど、最初は一本道だった気がするのに、気が付いたら曲がる道があったの。不思議よね。」
そういいながら、彼女は歩いていき、一軒の平屋に着いた。彼女は鍵も開けずに、カラカラと扉を引き、玄関に座り靴を脱いだ。
「あなたも入ってね。」と言って立ち上がり、隣の部屋へ移動した。
「私の部屋なの。特に何もないんだけど、必要なものだけ。」
確かに、置いてあるものは机としわの無いベッド。壁には時計も何もなく、一見すれば使ってない部屋と言われても分からないくらいだった。私は、聞きたいことがあった。口を開こうとすると、彼女のほうから尋ねてきた。
「あなたのお名前は?」
そういえば名乗っていなかった。「木原由奈です。歳は23。」
「じゃあ歳がとっても近いわね!由奈さんは、蔵三さんには会って来たのかしら?」
「はい。でも、イマイチここの世界について分かってなくて。とりあえず、私は死んだみたいなんですけど。立山さんもそんな感じですか?」
「希美子でいいわよ。私も死んだの。交通事故で。そのときドナー登録して、目だけは綺麗に残っていたから、両目は誰かのために使われたみたいね。だから私は目が見えないの。」
彼女の目は両目ともに閉じているが、普通の人のように眼球の動きはなかった。自分は今のところ、特に体の不自由さはない。ドナー登録はしていなかったということだろうか。
「蔵三さんからはどんなメッセージをもらったの?」
「メッセージですか。私が言われたのは、『出会う人に出会え』と。意味は全く分からないんですが、それだけ言われて建物から出されちゃいました。」
希美子さんはにっこり笑った。
「素敵なメッセージね。意味はまだ分からないけれど、私もメッセージを言われたの。私のは『見えるものを探せ』だったわ。今のところ見えるものは何もないのだけれど、意味が分かるときには、この世界を離れるそうよ。そう聞いたの。」
この世界を離れる……。この世界に来たばかりだけど、この世界のことはまだまだ分からないことだらけだけど、急に何かをしなければならない使命感に襲われた。
「ここは天国なんですか。」私は直球で尋ねた。
希美子さんは少し困った表情で答えた。
「天国、ではないと私は思ってる。天国に行けなかった人が来る場所だっていう人もいたわ。ここはね、自分の意志で死ねなかった人ばかりが集められた世界なの。」
「自分の意志で死ねなかった?」
「そう。病気とかで死ぬのを受け入れた人とかではなくて、私のように死ぬと思ってなかった人、自分の意志で死んでない人が来る場所なの。あなたもそうだと思うわ。」
私もそうだ。殺人という、予想もしていなかったであろうことで死んでいる。
「私はここで何をしたらいいんでしょう。」私は尋ねた。
「そうね……私の知り合いの古書店が店員を探していたから、そこで働くなんていうのはどう?」
「古書店ですか……。」
この世界に来て1週間が経った。この世界に来て少し分かったことがある。まず、「この世界には夜がない」ということ。24時間ずっと、世界が明るくまるで白夜のよう。太陽というものは存在せず、空もない。しかし、天は白く明るい。太陽の代わりに、町のどこからでも見える位置に、24時間時計の塔がある。これで、時間が分かり、カレンダーは希美子さんからもらった。24時間に体がついていくのかという疑問については、次「人々は眠らない」ということ。かなり驚くべきことだが、全く眠気というものがないのだ。24時間、体を動かし続けることができる。気分的に横になりたいときにベッドを使うが、ほとんど使っていない。ベッドはほぼ飾り状態だ。そして「この世界はどこまでなのか誰も知らない」。この世界というのは、希美子さんは天国に行けなかった人たちの場所と言っていたが、おそらくその通りなのだろう。ただ、世界地図のようなものは無く、また、町の地図もない。それは、人によって町が変わるからだということらしい。私自身も、この世界に来た当初に体験したことだが、一本道だと思っていた道は、十字路だったということに関係している。そんな私は、希美子さんの家に居候して、近くの古書店で働いている。しかし、賃金が発生しているわけではない。ここには貨幣通貨そのものがなく、人々は欲しいものをお店から頂いて帰るというシステムなのだ。ただ、食事関しても、眠気と同じで食欲そのものがなく、食事は楽しみたいときにするものらしい。私が働いている古書店でも、本は売り物ではない。
「そっち、並べ替えてくれた?」店主の川上さんは本を10冊ほど抱えながら聞いた。
「はい。作者順でいいんですよね?あ~た、まで出来ました。」
店主の川上さんはこの世界に3年ほどいるらしい。川上さんのメッセージは何か分からないが、川上さんのモットーは「古本は一期一会」だそうだ。私は、ここで働きだして取り戻した記憶がある。それは、本には疎いということ。こんなことを思い出しても仕方がないのだが、本は触れていても気持ちがよく、たくさんの人の人生が詰まっている古書店は、素晴らしい場所だと思っている。
「すまんが、本を買いたいんだが。」
帽子をかぶった老人がやってきた。茶色い帽子が実によく似合っている。
「はい。どんな本をお探しでしょうか。」
「そうだね、明日が明るくなるような本はありますかな。」
私は、張り切って接客した割には困ってしまった。明日が明るくなるような本なんて、本の内容が分からなければ薦めることができない。
「えーっと……」
「おじいさん、この本はいかがでしょう?これは傷ついた親子愛を描いた作品です。」
川上さんがすっと助けてくれた。
「ではそれにしよう。ありがとう。」老人は去って行った。
「川上さん、さっきの人に何の本を薦めたんですか。」
「あれはね、実に不思議なんだけど、離れ離れだった父子がある日法廷で出会って、共通の趣味があることが分かり愛を取り戻すお話だよ。普通、そんなことないっていう奇跡が起きるのが本の世界なんだ。この世界も十分不思議だけれど、本の世界はもっと不思議さ。それがいいんだ。」
川上さんは本当に本が好きだ。おそらく愛している。愛なんて、と考えた瞬間、記憶がフラッシュバックした。私は以前、愛に関する何かで殺されたのだ。何故だろう。しかしそんなことを訳もなく考えても仕方がない。ここにいるすべての人が、生前の記憶がない。その記憶を部分的に取り戻す人もいるし、取り戻さず新たに再出発している人もいる。私も、そうあるべきだ。
「由奈ちゃん、これみたことある?」川上さんが奥から声をかけてきた。
川上さんが指さしていたものは、タイプライターだった。とても古そうで、動くかどうか分からない。
「タイプライターですね。本物を見るのは初めてです。英字用みたいですけど、動くんですか。」
「うーん、やってみよう。」
川上さんは紙を一枚持ってきて、タイプライターに挟んだ。キーを押すと、カチャと心地よい音がし、きちんと印字された。その後もカチャカチャと川上さんは打った。紙を引き出すと、そこにはLOVEの文字が打たれていた。タイプライター特有の文字で、印字された文字が輝いて見えた。
「川上さん、これ私にくださいませんか。」
「いいよ。由奈ちゃん、英語できるの?」
「できると思います。学習した記憶はないですが、できる気がします。」
「本は一期一会。タイプライターも一期一会かもね。じゃあ持って帰っていいよ。」
私はそのまま、タイプライターを抱えて帰ることにした。やはり、大きさ通り少し重い。昔、観た映画にタイプライターが出てきて、心地よいチーン、ガシャンという音が好きで、その部分だけ巻き戻してよく見てたっけ。自然と思い出す記憶に、驚きながらも、家に到着し、希美子さんが迎え出てくれた。
「由奈さん、重いもの持ってる?いつもと歩き方が違うわね。」
「凄い。そうなんです。私、今、タイプライター抱えているんです。川上さんがくれたんです。」
私は、部屋の机にタイプライターを置いた。大きくて、机の半分ほどを占めてしまった。元々置くものがないから、それでも構わない。とりあえず、机に向かって、紙をセットした。川上さんからタイプライターと一緒に大量の白紙ももらってきていたのだ。打つと、カチャカチャと耳にやさしい音が体を駆け巡った。
I murdered.
文章を書くのが久しぶりのような気がして、何を書いたらいいのか分からなくなってしまった。でも、書きたいものがある。私がこの世界で、毎日出会う人を記録していきたい。毎日、古書店には様々な人がやってくる。その人たちを記録したいのだ。その人とあまり関わりがなくても、私と出会うことで、その人に少しでもいい影響を与えられたらと思い、そのことを日記にように書いていこうと思う。
「由奈さん、ちょっと話したいことがあるんだけれどいいかしら。」希美子さんが呼んだ。
「はい。大丈夫です。そっちの部屋に行きますね。」私は希美子さんの部屋に移動した。
「由奈さんは、生前の記憶ってどれくらい思い出している?私は少しだけ思い出してきているの。」
「私は、断片的にほんの少しだけ。」
「私ね、生前、恋人がいたの。その人と婚約して結婚式の準備をしていたわ。その人は背が高くて、優しくて左の頬にほくろがあったの。笑うとほくろがとてもチャーミングだったわ。でも、私が死んだからきっと結婚もなくなってると思う。そして、私はこの世界で彼に似た人を見つけたの。」
「彼は……死んでないんですよね。」私はそっと尋ねた。
「死んでないわ。ただ、彼に似た人ってだけ。背が高くて優しいの。それに左の頬にほくろがあるの。その 人と出会ったときは、顔は見えないけれど、もしかしたら、彼かもしれないって思ったわ。顔に触れるとほくろもあって、彼かもしれない、運命なのかもしれないって思った。でも、違った。彼とは少し違うの。」
「その人とどこで出会ったんですか。」
「私が働いている文具店のお客さんとしてやってきたの。声を聴いて仲良くなった。そしてね、付き合うことなったの!」
希美子さんはとても嬉しそうに、弾んだ声で私に言った。私は驚いたが、
「おめでとうございます。この世界に来てから、恋愛なんて考えもしなかった。」
と言った。希美子さんの弾んだ声のまま、
「私もよ。恋愛なんてものがないと思っていたけど、私は彼のことが好きみたい。彼も私のことを好きって言ってくれているし。この幸せを由奈さんに話したくて。」
私も驚きはしたが、希美子さんの嬉しそうな顔を見ていると、とても幸せで満ち足りた気持ちになった。この世界でも、恋愛は可能であることが証明された。なのに、なぜか、周りで交際しているという噂はあまり聞かない。私の中の、初カップル誕生に沸き立った。今日はケーキでも食べましょうということで、ケーキ屋に希美子さんは走って行った。何かを食べるのもこの世界に来て初めてだ。私の心は浮き立った。
希美子さんが選んできたケーキは二人分なのに、ホールで10号はありそうな大きなものだった。
「大きくないですか?」私は笑った。
「そう?なんだか嬉しくって大きいものを選んじゃったわ。」希美子さんも笑っている。
ケーキの味は美味しくて、いくらでも食べられそうだったけど、胃に入っていく感じがしない。このせいで、食欲や満腹というものがないと感じることができた。二人で10号ほどのケーキを食べても全く満腹ではなかった。しかし、胸はときめきと嬉しさでいっぱいだった。希美子さんの彼氏はどんな人なんだろう。会わせてくれる日がいつか来るかな。
この5か月で、私のタイプライターで書かれた出会った人日記は非常にたくさんもの枚数になった。全部、英語で書けているのが不思議なのだが、私は実は大学が英文科だったらしい。後ほど思い出したことだが、大学時代に英語で論文を書いたら、先生の赤字が大量に書かれて返ってくるほど、英語はできなかった。なので、自分が書いているこの文章もきっと、大量の赤が入ることだろう。それでも、私にとっては毎日タイピングすることで、脳を整理でき楽しかった。希美子さんの彼氏には未だ会ってないのだが、毎日、いやというほど楽しい話を聞かせてくれる。一緒に公園に行ったこと、ソフトクリームを食べようとして頬に付けて笑われたこと、サイクリングができない代わりに庭で止まっている自転車を漕いだこと、など日常の風景の中のとりとめもないことを幸せそうに話した。
私は、そんなことを思い出しながら今日も古書店への道を歩いていた。そこへ、突然、風のように男性が現れた。
「ボンジュール!あなたを素敵にして差し上げましょう。」
男性は大げさな一礼をすると、どこからともなく椅子を取り出し、私を座らせた。
「あの、何なんですか。」私はわけがわからない。
「大丈夫大丈夫。心配ないですよー。ほほほほほほほ。」
陽気なその男性は、私にさっとケープをつけ、ハサミで私の髪を切り始めたのだ。
「ちょっと。」私の制止もきかない。
あっという間に切り終え、彼は飛ぶように去って行った。古書店に行く途中にこんなおかしなことに遭遇するとは、思ってもみなかったが、髪が伸びてきたころだし丁度よかった。
「あははは、それはゲリラ散髪だね。」川上さんは言った。
「突然やってきて、びっくりしましたよ。あんな人もいるんですね。」
「あの人はね、髪を切りたいなあと思っている人をめがけて、髪を切りに行く魔法使いだね。何人か餌食になっていた人を知っているよ。突然現れるのは、本当だったのか。もしかしたら、箒にでも乗っているかもしれないね。」川上さんは笑った。
「出来栄えが私の好みの髪形に仕上がっているのも不思議です。」
「心も読めるのかな。」川上さんは冗談めかして言った。
私はこの世界に何を求めているのだろうか。この世界では、眠らなくても、食べなくても、生きていくことができる。なのに、人々は働き、人との関わりを持ち、自分の生活を確立している。眠らなくてもいいこの日々は、あまりにも長く、あまりにも短い。食べなくてもいい日々は、誰かと食事をしていた楽しみもなく、何かに追われながら急いでしなければならない食事もない。この世界は、私になんのためにもう一度チャンスをくれたのだろう。私は、ゲリラ散髪のように誰かのために何かをしてあげることはできない。川上さんのように、その人に合った素敵な本に出会わせてあげることもできない。私は一体……
「すみません。」
古書店にやってきたお客さんは、全身をピンクでコーディネートされたおばあさんだった。ピンクの帽子までかぶっている。
「はい。どんな本をお探しでしょうか。」私は応対した。
「表紙がピンクの本を探しているんです。ありますか。」
なんてアバウトな探し方だろうか。こういった人も古書店に来店するのを幾人か見たことがある。そして私は最近、ピンクの表紙の本を見たことを思い出した。
「はい、ありますよ。ちょっと待ってください。」私は急いで最近、整理した本棚を見直した。
「あった。これだ。」
それは、世界を旅した旅行記で、タイトルは「私の人生はピンク色」。表紙は、まごうことなきピンク色。私はその本を握りしめ、おばあさんに渡した。
「この本じゃありませんか。」
「そうそうそう。この本が欲しかったの。ありがとう。」
おばあさんは一礼すると、去って行った。
「やるじゃん。」川上さんが拍手した。
「いえ、たまたまです。」私は照れた。
「いや、本は一期一会。そのピンク色の本のことを僕は知らなかった。でも、由奈ちゃんは知っていた。これぞまさに一期一会だね。」
私は、何か今までにない感情が押し寄せた。誰かにありがとうを言われたのは初めてだったし、誰かに褒められたのも初めてだった。一瞬でも誰かに必要とされるのは、気持ちがいいものだ。ゲリラ散髪のように、押し売りの場合もあるけど、でも言えたら、ゲリラ散髪の人にありがとうを言いたい。
私はその後、本を読むようになった。ピンクのおばあさんの影響で、本に興味がわいているものの、内容は分からないので、表紙の装丁やタイトルで選んでいる。その読んだ中には、個人的な手記のようなものもあった。内容は、最初は普通の詩だったが、ある日その内容は性的なものへ変化していった。私は、読み続けて気が付いた。ここには、性的欲求がない。この世界には、ない。少なくとも私にはない。では恋人を作った希美子さんはどうなっているのか。けれど、そんな個人的なことを聞くのは憚られる。私は、このことで何日か悩んでしまった。すると、希美子さんにはすぐに気づかれてしまった。
「由奈さん、何か悩んでいるの?」
ある日、古書店から帰ると、希美子さんが待っていたかのように尋ねてきた。
「いえ、その、大したことではないんで……」私は口ごもった。
「あら、ここ何日もため息をしていたし、歩き方がゆっくりだったわ。悩んでいる証拠よ。」
言うべきか、誤魔化すか。私は意を決して口を開いた。
「あの、希美子さんたちって性的なことしてるんでしゅか!」
思いっきり言って、噛んでしまった。後悔が二重に押し寄せる。
「え、性的なこと?そういえばしてないわね。」希美子さんは冷静に言った。
「この世界には、性的な欲求がないってことを最近、私、気づいてしまって、それで、希美子さんたちのことが気になって、恋人だしそういうことって……」
「由奈さん、そんなことしなくても恋人よ。愛があれば。」
「そうですよね。すみません、変なこと聞いちゃって。忘れてください。」
希美子さんは黙っている。
「希美子さん?怒っちゃいました?」
「これだったんだわ!!『見えるものを探せ』ってこのことだったんだわ。今、私には愛が見えるの。僅かな光もない暗闇の世界だったのに、今、愛が光り輝いて見える。それにすごく温かい。」
希美子さんの目から涙がこぼれた。
「由奈さん、こんな大切なことに気づかせてくれてありがとう。もうずっと目の前にあったのに気づかなかった。愛の素晴らしさが。由奈さん、もし死ぬって分かっていたらどうする?最後にいいことできたり、誰かに愛してるって言えたりするじゃない。私は、あの日、最後に恋人に愛しているって言えなかった。由奈さんとも友情という愛ができた。だから、私には愛を……」
そのとき、ふっと希美子さんが光に包まれ、消えていった。
「こちらこそありがとうございます。希美子さん。」
私は、こんなにもあっけなく消えた希美子さんの前で、零れ落ちる涙を拭いきることができなかった。
希美子さんが消えてから、4日後。私は古書店の帰り道、回り道をして帰ってみよ
うと考えた。希美子さんと歩いた道を歩きたくないわけではなかったが、思い出すのは少し辛かった。
川上さんに、希美子さんが消えたことを話すと、それはこの世界では仕方ないことで、自分の与えられたメッセージの意味に気が付くと、消えてしまうのだと言った。また、意味に気が付くまでは、悪く言えば、この世界に捕らえられたままでどうしようもないのだと。川上さんもその一人で、どうしたらいいのか分からないまま、3年もの間、泥沼にはまり抜け出せなくなっていると。この世界に3年もいるのは長いほうだと言った。大体は数か月で消えてしまうらしい。また、希美子さんの彼氏が希美子さんに消えた件については、心が繋がっている人物同士なら、さよならを言わなくても分かるのではないかと推測した。
「川上さんは、希美子さんとどうやって出会ったのですか。」
「希美子さんが古書店にやってきたんだ。本の匂いにつられて来たと言っていたよ。その時に、いろいろ話をして、以前住んでいた部屋が空いているから使っていいよと言ったんだ。あとで知ったことだったんだけど、希美子さんがこの世界に来て最初に出会ったのが僕だったみたいだ。彼女が消えたのは、とても嬉しいね。」
「そうだったんですか。でも、私は寂しいです。希美子さんにはお世話になったし、いろんなことを共有しました。大切な友達です。」
「なら、もっと喜んであげるべきだよ。ここは、天国でもなんでもない世界なんだ。こんなところに捕まっているなんて、本当はだめなんだから。僕は、もうほとんどの記憶を取り戻せたと考えている。ここは、希望と絶望の挟間だよ。」
川上さんは、この世界にいるのは不条理だと思っているんだろう。私は、どうだろうか。ここに長くいればいるほど、生前の記憶は戻ってくる。私は、いろんな過去を取り戻せた。私は、会社の先輩に殺された。大学は英文科を卒業して、就職先が小さな工場だった。事務をしていて、恋人もいなかった。小さいときに、自転車を買ってもらって、風船をつけて走ったことがある。吹奏楽部にいてアルトサックスを吹いていた。楽譜は読めなかった私を、優しく教えてくれた友達がいた。これが、私の記憶のすべて。そして、ここで新たに記憶を蓄積している。むしろ、ここでの生活のほうが楽しい気はする。
「すみません、あの、ちょっと困っているのですが……」
小柄な女の子が話しかけてきた。見たことはない。歳は10代後半か?
「なんでしょうか。」
「ここにさっき来たのです。よく分からないのです。助けてください。」
ああ、初めて来た人なのか。ということは、この子の初めての人が私。少し嬉しくなった。
「私は木原由奈。23歳よ。あなたは?」
「冬に生まれた子と書いてふみこです。歳は17歳です。」
「そう。冬生子ちゃん、私の部屋に来て。部屋が空いているからそこを使うといいわ。」
私は古書店への遠回りしたことを、この子とも出会う運命だったのかなと思いながら、古書店への道をUターンして家へ戻った。その子は、服はヨレヨレで髪もどんな切り方をしたらそうなるのかと思うような雑な切り方。高校生ならもっとおしゃれに敏感でもいいはず。体も細く、かなり栄養が足りてなさそう。
「ここが私の家。と言っても借りているんだけどね。こっちの部屋を使っていいから。」
そこは以前、希美子さんが使っていた部屋。しかし、彼女が部屋に入ると、部屋の内装や家具ががらりと変わった。殺風景だった壁には、猫の写真が、ベッドの布団はピンク色になり、机は学習机に変化した。
「わあ、すごーい。こんな部屋が欲しかったんです。」
「冬生子ちゃん、ちょっと聞いてもいい?」
「はい。」彼女はにこにこと笑ってこちらを振り返った。
「冬生子ちゃんはここがどういうところか知っている?」
「蔵三さんに聞いたことと、私の記憶が正しければ、ここは死後の世界ですよね。」
「うん。正解。いやちょっと待って、記憶あるの?」私は驚いた。
「そうですね、部分的ですがあります。」
記憶があるパターンもあるのか。それはこの世界ではかなり異例のことではないか。
「そうなんだ。私は記憶がなかったの。」
私は、ここに来てからの生活や、希美子さんとの生活、古書店や川上さんのこと、そして、殺されたことを話した。彼女は静かに聞いていた。
「由奈さんの生きていた時の人生はあんまりだったのかもしれませんが、今の生活は、楽しそうですね。古書店の店員なんてちょっと憧れるなあ。由奈さんも話してくださったので、私も記憶にあることを話します。私は、死ぬ前は母の再婚相手に暴力を振るわれていました。もう何年もずっとです。学校でもいじめられていましたし、毎日の生活はかなり苦しかったです。居場所がなくておばあちゃんの家を訪ねましたが、面倒に巻き込まないでほしいと言われ門前払いされました。私が13歳のとき母の再婚相手にレイプされました。母はそれを知って私に冷たくなりました。でもレイプはずっと続いていました。母が夜に仕事に出ていたので、余計に、です。そして17歳のとき妊娠が分かりました。それまで妊娠しなかったのが奇跡かもしれません。私は、もう何もかも嫌で堕ろしたかった。でも病院に行く費用もなくて、仕方なく、母と再婚相手に伝えると、激怒され、再婚相手にかなり殴られ、蹴られて飛ばされました。そして目を覚ますとここに来ていました。死んだことを自覚すると、すごく救われた気持ちでした。もう何も悩まなくていいんだと。子供も私のお腹にいるのか分かりませんが、いない気がします。」
私は、波乱万丈の人生をこんな小さな女の子の人生だったとは、信じきれなかった。しかし、これが真実。どう声をかけたらよいものか。
「由奈さん、これは私の終わった過去です。もう気にしていません。むしろここでの生活にワクワクしています。」
「そう。話してくれてありがとう。多分、あなたの年齢だと学校に行くはずなの。だから、古書店の川上さんに聞いてみるね。」
「で、今日から学校行っているの?」川上さんが聞いた。
「はい。高校2年生に編入ですね。制服もあるみたいで。それに、今日一緒に玄関を出ると、また会ったんです!ゲリラ散髪に!冬生子ちゃんの髪形を、前髪がアシンメトリーのベリーショートにしてました。すっごく似合ってて制服とも合っていました。やっぱりゲリラ散髪さんってすごい人なのかも。」
川上さんが高校に直接言いに行けば、学校に入らせてくれると教えてくれたため、冬生子ちゃんは意気揚々と学校に赴いて、自分で手続きをしてきたのだ。そして、本日、初登校。私は、新たな生活がスタートした。私も自分に出会えた人がいてくれてとても嬉しい。でも、どうしても聞きたいことがあった。冬生子ちゃんに会って、私は増々聞かざるを得ない気がしてならなかった。私は、並び替えている本に手を伸ばしかけて、止まった。
「川上さん、聞いてもいいですか。」
「なにかな。」
「川上さんの過去というか、生きていた時、について聞きたいんです。」
川上さんは黙った。話したくないような顔をしている。ため息を一つついた。
「いつか、誰かに話すときはやってくると思っていた。僕の過去は、まだ誰にも話してないことなんだ。話すべき時が来たら話そう、と考えていた。」
川上さんは踏み台に座っていたのを立ち上がると、本を置いている平台に浅く腰かけた。
「僕は、25歳だった。そのとき、心は荒みきっていて上手くいかない人生を嘆いていた。大学は浪人して入ったけど留年して、中退。バイト生活でどうにか毎日をつないでいた。そんなとき、大学時代の友達二人と飲んでいた時だった。認知症の老人が一人で住んでいる家があって、家に大量の現金を隠しているんだと。友達の一人が銀行員として営業で回っているお宅だったんだ。だから、3人で強盗を計画した。その時は、善悪の区別が付かなくて、お金を持っている人がいるのに、僕のようにない人間がいるのが理不尽だと思っていた。そして実行したんだ。最初は、家のおばあさんを椅子にくくりつけるだけだったが、思いの外、叫んで暴れてしまって友達が殴り殺してしまった。僕はただそれを見ていた。そのときに、自分のやっていることがいかに悪いことかを悟った。そのまま逃げようとしたが、友達に止められた。お前だけ逃げて自首でもされたら俺たちまで捕まると。僕はお金はいらないし、誰にも言わないから逃がしてほしいと言って逃げようとしたときに、後ろからバットで殴られたよ。そして、ここに来た。」
なんて、こと……私は言葉を失った。冬生子ちゃんの人生は被害者として悲惨だが、川上さんの人生は加害者であり被害者でもある。
「正しいことを知っているのにそうしないのは罪だろう。でも、僕は逃げるしかできなかった。どちらにしろ、罪だ。でも、記憶がさっぱりなくなってここに来たら、僕は善人になった。不思議だね。すべての元凶は記憶なんじゃないかな。だから、ここでは記憶がなくなることが多い。冬生子ちゃんは特別だね。僕が思うに母親だったからじゃないのかな。今もお腹に子供がいるのかいないのか、そこらへんは分からない。妊婦が来るのは僕が知る限り、初めてだからね。」
「川上さんは、悪い人だったかもしれませんが、私にとってはとってもいい人ですし、恩人です!」私は言い切った。
「ありがとう。ちなみにここまで言ったから教えるけど、僕のメッセージは『静かに神を待て』だったよ。意味は今でもさっぱり分からない。神は7日間で世界を作った。でも、この世界は8日目に作った気がするよ。ここには宗教なんてないから、古書店の店長しながら神に関する本を探した。でも、ここにはないんだよ。神や宗教に関する本が一切ない。これはどういうことだと思う?」
「宗教観の違いからくる争いを避けたかった?」
「僕もそうだと思う。でも、宗教を一つにまとめれば争いは起こらない。僕は、宗教というものに人間が頼り過ぎているから、この世界では自力で生きろということだと思っている。なのに、神を待てってどういうことかな。まあ、答えは出ないままこうして3年経っているんだけどね。」
川上さんは笑いながら、右手で頭をかいた。こうして分からないメッセージを受け取り悩んでいる人もいる。私は、今の生活を第二の人生みたいに思っているけれど、中にはむしろ、苦しんでいる人もいる。どうしたらいいのか分からないって本当にこういうことをいうんだろうな。私にも、「静かに神を待て」の意味は分からない。
「まあでもね、死に意味を見出す人もいるけれど、僕は意味はないと思うんだ。死に意味なんてない。時が来ればみんな死ぬし。でも、生きることには意味があると思うよ。こうしてここに来てる限りはね。」
川上さんは立ち上がると、元の場所に戻り仕事を再開した。
「話してくださってありがとうございます。」私は一礼した。
川上さんは手でひらひらと合図を返した。私も、本を整理しながら考えた。今日、私はあのタイプライターでこのことを書かなくてはいけない。出会った人の記録をするためにも。
冬生子ちゃんは、17時頃帰ってきていたらしい。私が家に戻ると、さっそく話し始めた。
「由奈さん、高校はすごく楽しかったです。私、学校ってあんまりいいイメージ持ってなかったですけど、誰も私のこと知らないって気持ちいいです。ちゃんと偏見を持たずに私のことを見てくれますから。友達もできました。クラスは20人くらいで少なかったです。部活も何か入りたいです。」
「そうなんだ。良かった。楽しい毎日が送れそうだね。」
「はい。これなら私へのメッセージも解決できそうです。」
「メッセージは何だったの?」
「『愛し愛されよ』でした。」
それは、つまり誰かを愛し、誰かから愛されれば解決ということなのか。きっとそんな簡単なことではない。同一人物でなくてもいいなら、あっさりできそうな課題でもある気がする。これは無垢な少女には難しい課題かもしれない。誰かから愛されるのは簡単にできる。しかし、一番難しいのは誰かを愛するということ。私は、愛するというのは、理解し、許す行為だと思っている。
「由奈さんのメッセージは何だったのですか?」
「うーん、それはまた今度言うね。今日は、私もやることあるから部屋に戻るわ。楽しい話をありがとう。」私はにっこり笑った。最後は、泣いてしまいたくない。
最後に。
私はこの世界に来て多くの人に出会いました。まずは、私を導いてくれた希美子さん、そして古書店の店長、川上さん、その書店で出会った数多くのお客さん、私が初めて人を導けたピンクのおばあさん、不思議な力を持っていそうなゲリラ散髪さん、そして、私が導くべき人物となった冬生子ちゃん。
この世界の景色はとてもとても広い。でも、私が生きた範囲はとても狭い。生前、私が生きた世界もとても狭かったです。私は人を殺しました。そして、その復讐として殺されました。私はある男性を愛そうとし、愛されるために努力を重ねました。それが水の泡になった途端、自分の何かが崩壊して殺してしまいました。殺してしまった彼に、この世界で会うことはありませんでした。つまり、出会うべきでなかったんだと解釈しています。そもそも彼と出会ったあの瞬間から、私の人生は狂ってしまいました。現世でも出会うべきでなかったのではないかと考えています。私の罪を正当化したいわけではありません。この世界に来て分かりました。人と人が出会うと必ず人生に影響を与えるということが。私は、出会った人をタイプライターで記録していました。そして、私はメッセージの意味に気づいてしまったのです。
「出会う人に出会え」それは、私が出会う人すべてに出会えということ。
私の存在が誰かの良い影響になることを願って。
冬生子ちゃん、実は世界中のいたるところにダイヤモンドは落ちていて、みんなそれを見過ごしているの。拾ってそれをダイヤモンドだと気づく人は少ないわ。探さなくてもいいの。必ずあるから。
川上さん、突然、古書店に行かなくなってびっくりされていることでしょうね。そしてここに来て、これを読む。おそらくこれを今、読んでいるのは川上さんでしょう。今まで、私にたくさんの出会いを与えてくれてありがとうございました。川上さん、私は気づいていましたよ。でも、先に行きます。今日だけは一期一会なんて言わないでくださいね。また会いたいですから。
僕は、手書きで書かれた手紙を置くと、ベッドに腰かけた。彼女がいた証は、この手紙と大量にタイプライターで書かれた英文書の束。でも、それだけじゃない。だってほら、誰が消えてもなかったことが起きているじゃないか。
これって涙っていうんだろう?
「でも、再会は……不確実だから、最後の、別れにしておこう……」
抱泥の続編として書きました。前作で友人をモデルにした木原由奈に何か救いのある話をとの友人の意見を参考に、書いてみると意外とミステリー以外も書ける!と思った私。抱泥で彼氏役だった彼には登場してもらいませんでした。登場させるか迷いましたが、木原由奈が、素直に人間味ある役柄にしたかったため、今回は不採用ということに。友人をモデルにした作品もこれからも書いていきますので、また次の作品でお会いしましょう。