王子様のいない夏休み

ジメジメとした暑さで目が覚める。ベッドから身体を起こす。起き上がったものの、頭がまだぼんやりする。

　カーテン越しに窓を眺めると、日差が眩しい。蝉の声が小さく聞こえる。壁に掛けたカレンダーに視線をずらす。

８月３１日。

今日は夏休み最後の日で、それと同時に、世界最後の日の様にも思えた。

机の上の時計を見ると、針は１２時２０分を指していた。

「……お腹空いたな」

　頭が回らない、何か食べなくては。階段を降り、リビングに降りる、そのままキッチンに向かい冷蔵庫を開けると、ラップが掛けてある皿を見つけた。中身はオムライスだった。キッチンラップの上にメモが乗っている。

――お昼に暖めて食べてね。明日から学校でしょ？　ゲームばかりしてないで明日の準備をしなさい。

……母さんの文字だ。

今日は母さんも父さんも、仕事でいない。つまりこの家は一日、僕だけしかいない事になる。

　夏休み中ずっと感じてた寂しさが、１０パーセント増した気がした。

　オムライスとサイダーのペットボトルを取り出し、オムライスは電子レンジに放り込む。

　すぐに１分経つ。オムライスを取り出し、スプーン切り崩し口に運ぶ。その後すぐにサイダーを飲んだ。ケチャップの酸味とサイダーの炭酸で味がよく分からなくなってしまった。

　食べ終わった食器を片づけると、ようやく使命という名のエンジンが回り出す。

僕には、今日やらなくては行けない事があるんだ。それは宿題じゃない。

宿題に出された沢山のプリント。

「星の王子様」について書いた読書感想文。

　あの子と一緒に行くはずだったのに、結局僕だけが行った自由研究の天体観測。

夏休みの宿題は、全部とっくに終わっていた。

　僕は今日テレビゲームをする。

　このゲームは男友達とは、遊んではならない。

　僕は一人でゲームをしなければいけない。

　それは僕にとって、一番大切な、最後の宿題だったからだ。

　２階の自分の部屋に戻り、テレビゲームのスイッチを押した。まるで、早く貴方がプレイ出来る様に精一杯頑張ってますよと、アピールするみたいに機械音が聞こえる。

僕は迷わず一つのソフトを本体に差し込む。

　そのゲームは有名なＲＰＧで、最近出たタイトルの一つ前の物だった。

このゲームはどうせみんなが買うから、後で友達から借りればいいやと思い、結局買わなかったのだ。

そして僕の予想を斜めに越え、ソフトをくれる人物がいた。

名前は佐藤綾音。

僕の友達の中で、唯一の女の子だった。

　夏休みの始まりに引っ越した彼女は、僕にこのゲームを託した。彼女の声を思い出す。

　――あたしのデータを使って、翔太がクリアしてよ。

データの中には、主人公の王子の名前が【あやね】と名付けられていた。

疑問に思っていた。

どうして彼女は、自分のデータを僕にやらせるのだろう？　

彼女はもうこのゲームをプレイする訳では無いので、僕が自分のデータを作れば良い事なのだ。

　今まであれこれ理由を考えたけど、今日でやめた。

「ゲームをクリアさえすればいいや。そしたらきっと、分かるはずだ」

彼女と僕の冒険は、終盤に近づいていた。

綾音と僕は、家が隣で親同士が仲が良いのもあって、よく一緒に遊んだ。

綾音という名前は彼女の両親がおしとやかな子に育って欲しいという事で名付けたそうだが、綾音本人は上品とは真逆の方向に成長した様だ。

　短く切り揃えた髪にいつも日焼けした肌。少し男っぽい喋り方。

人形やお絵かきより、鬼ごっこやサッカー、そして何よりテレビゲームを楽しむ女の子。それが綾音だった。

綾音は人懐っこい性格で誰とでも仲良くなれた。彼女の周りは男女問わずいつも人が集まる。だけど本人はそれを全く鼻に掛けなかった。

　男子達の喧嘩があれば間に割って入り、泣いている女の子がいたら、優しく話を聞く。

　綾音は女の子だけど、僕は彼女を星の王子様に見えていたんだ。

そんな彼女が突然転校することになった。

　夏休みが始まる前に、この町を出ていってしまうらしい。

　あまりにも突然で、彼女と立てた計画は全部水の泡だった。

クラスのみんなは悲しんだ。中には泣いてしまう女の子もいた。男達も泣いていた。綾音は困った風に笑い、「男が女の子の前で泣かないの」とその子達を慰めていた。

もちろん僕も悲しかった。だけど、どうしてか涙は出なかった。結局その時は、クラスのみんなが綾音に押し寄せ、僕はほとんど言葉を交わす事が出来なかった。

翌日の朝、目玉焼きが並んだ食卓で母さんは　「今日佐藤さん達引っ越すみたいね。翔太も来なさい。綾音ちゃんに挨拶言いに行きましょう」　と言った。

「うん……」

　僕は目玉焼きにソースを掛けながら頷く。

乗り気じゃ無かった。

彼女に会ってどんな顔をすればいいのか分からなかったし、どんな言葉を掛ければいいのかも思いつかなかったからだ。

「おっす、来てくれたんだ」

　彼女はいつもの様にはにかむ。綾音の部屋はすっかり片づいてしまっていて、とても無機質な部屋に変わっていた。母さんは綾音のお母さんと外で話している。

　今日の夕方には、この街を出て行くらしい。

「最後にゲームしようぜ。協力プレイね」

「うん……」

「元気ないなぁ」　そう言って綾音は笑った。

僕たちは携帯ゲームで協力プレイをする。ゲームの中では、二人の戦士が、息の合った連携で巨大な竜と戦っている。

「翔太。MP(マジックポイント)ゼロだよ」

「わ、本当だ。回復しなくちゃ……」

　いつもはMPゲージを空にする事なんてあり得ない。綾音との最後のゲームなのに、内容がちっとも頭に入らない。

しばらくしてから、僕は話を切り出す。

「……ほんとに行っちゃうの？」

「そーだよ。――こうして翔太とゲームをするのも最後かぁ」

「綾音なら、あっちに行ってもゲーム友達はすぐに出来るよ」

「それは絶対に無理だよ」

　彼女の声が部屋に響き渡る。静かだけど、有無を言わせない口調だった。

　ゲームの中では、戦士は竜の吐いた火炎によって倒されてしまった。

　ゲームオーバーの文字が画面いっぱいに映る。

　コンテニューは、もう出来ない。

「……あーあ、負けちゃった」

　彼女は残念そうに呟いた。

「ちょっと待ってて。翔太に見せたい物があるんだ」　そう言って綾音は部屋を出て行く。

　彼女が出て行った部屋は夕日が差し込んでいた。カラスが鳴いている。もうすぐ、日が暮れる。

　「おまたせ」彼女の声が聞こえた。

　振り向いた僕は、携帯ゲーム機を落としてしまう。

　綾音は中学校の制服を着ていた。

僕らの地元の中学とは全く違う、上品なグレー色のブレザーだった。まるで映画やドラマに出てくる、そんな煌びやかな制服だった。

「どう？　似合う？　親戚のお姉さんから貰ったんだ。来年、あたしもこの制服の中学に入学するつもり。……似合う？」　そう言って綾音はくるりと回る。スカートがフワリとなびいた。

「……似合わないよ」

　僕ははっきりと告げた。なぜか彼女の制服姿を見て少し、苛立った。

「っ！　あははははは！」

　突然、綾音はお腹を抱えて笑い出した。しばらく笑ってから、今度は静かに頬笑んだ。

「だよね。　あたしもそう思うよ」

　まるでその答えが返ってくるのを知っているみたいに彼女は告げる。

「親の方針でね、これからは上品があって、おしとやかな大人になって欲しいんだって。でもね、あたしは"女の子らしい"ってのが苦手。本当は今習ってるピアノだってあまり好きじゃないの」

「それなら」

　やめてしまえばいい。

そう言いかけ、口をつむぐ。　やめられないから彼女はスカートを穿き、ピアノを弾き、遠くに行ってしてしまうのだ。

「ねぇ翔太。あたしは、男の子になりたかったなぁ。翔太が羨ましい」

　綾音は頬笑む。その表情はとても大人びていて、僕の知らない顔だった。

　僕は何も言えず、綾音はその先を言わなかった。少しの間の後、綾音の方が先に口を開いた。

「これあげる」

　そう言うと、彼女は部屋にぽつんと置かれたリュックサックから一本のゲームソフトを僕に渡した。

「これ、1つ前のタイトルの……」

「うん、翔太、持ってないって言ってたよね？」

「でもこんな高価な物、受け取れないよ」

　このソフトは前作ながらどこのお店でも売り切れているほどの人気作で、僕のお小遣いじゃ買えない金額の代物だった。

「いいのいいの。あたしはもうゲームなんて出来ないからさ。そのかわりお願いがあるの」

　彼女はまっすぐ僕を見る。夕日が窓から差し込み、僕らを照らす。

「あたしの名前のデータあるから、それを途中からやって欲しいの」

「どうして？」

「うーん、なんでだろうね。途中でやめるってスッキリしないからかな」　綾音は寂しそうに笑う。

「そっか、綾音らしいね」

　僕の口元が緩む。

　彼女は昔から途中で物事をやめる事をとても嫌っていた。

　本当は転校する事だって嫌で嫌でしょうがないのだろう。

　それを顔に出さない彼女は、僕よりもずっと大人になっていた。

「わかった……。僕が代わりにクリアするよ。　それと、僕も綾音に渡したい物があるんだ」

　鞄から一冊の本を取り出す。　読書感想文を書いた、小さな王子様の本。

「ずっと前から、この本の王子は、君にとても似ていると思っていたんだ」

　綾音は驚いた様に目を丸くし、うつむいた。そして本を抱きしめる。無くした大事な物を見つけたみたいに。小さく鼻をすする音が聞こえた。

「嬉しい。翔太、あたしはこの本を宝物にする。ずっとずっと……」

　日差しで彼女の顔は見えなかったけど、　僕は涙が出そうな目をこすり、彼女をじっと見つめていた。

　男の子で、小さな王子様だった彼女の姿を、目に焼き付けておきたかったんだ。

こうして彼女がこの街からいなくなって一ヶ月が経った、僕は約束通り、彼女がくれたゲームをクリアしようと毎日プレイしている。　母さんは僕が夏休みの宿題を全部終わらせた事を告げると、長時間ゲームをプレイすること許してくれた。

ゲームの主人公は王国の王子で平仮名で【あやね】という名前が付けられていた。僕の彼女のイメージそっくりだった。

驚いた事に、物語の中盤に仲間になる魔法使いには、【しょうた】という名前が付けられていた。ほかの仲間はデフォルトの名前だった。なぜだけなのか僕なのか？　疑問に思う反面、特別な扱いに僕は嬉しくなる。

綾音と僕の冒険は最後のラスボス、魔王との戦いに到達した。何度か負けてしまい、ゲームオーバーになりながらも、死力を尽くし、ついに魔王を倒し、世界に平和を取り戻した。こうして役目を終えた仲間達は、次々と自分の故郷に戻っていく。

最後に僕も、王子【あやね】と別れる時がきた。　

　その時、僕はハッと気付いた。テレビの画面に、釘付けになる。

彼女がなぜ、僕に自分のデータをクリアさせたのかが分かった。

　王子【あやね】は魔法使い【しょうた】にこう言ったのだ。

「しょうた。ここでおわかれだ。

ぼくはちかいしょうらいこくおうになり、くにをおさめなくてはならない。

こうしてきみとぼうけんするのもさいごになるだろう。

きみとあえるのもさいごになるかもしれない。

だけどぼくはわすれない。

きみとぼくは、ずっとともだちだ」

　彼女はやっぱり、最後まで物事をやり通す女の子だった。

綾音はゲームを一度クリアしていて、このメッセージを伝えたいが為に、自分と僕の名前をキャラクターに名付けたのだ。

　僕の頬から涙がこぼれ落ちる。

僕は声を上げて泣き出す。

「ちょっと翔太、どうしたの？」

あまりに大きな声だったので、下のキッチンで夕飯のカレーを作っていた母さんが心配し様子を見に来た。

　僕が今まで涙を堪えていた理由も分かった。

　――男は人前で泣いちゃ駄目だよ

彼女が小さい子によく言っていた言葉だった。

　僕は綾音の前では、立派な男であれただろうか？

　彼女が憧れた男に……。

それから時が経ち、僕は中学生になった。地元の中学校の学ランは、少し窮屈に感じた。

　現在は中学生になって初めての夏休みを満喫中だ。僕は今、綾音に貰ったRPGをもう一度プレイしている。勿論僕が【魔法使い】で、綾音が【王子】だった。

　夏休みが終わった二学期の事を思い出す。綾音がいない教室は、まだまだ暑い日が続いたのに、やけに冷たく感じたものだ。

　インターホンの音がした。

　両親は仕事でいない。僕は階段を降りドアを開けると――。

「こんにちは、翔太君」

　ロングヘアーの女の子がいた。白いシャツに青のロングスカート。僕は驚く。おしとやかという言葉が似合う彼女はもしかして――。

「なーんてね」そう言って彼女ははにかんだ。

「おっす！　翔太。遊びにきたぜ」

「綾音……！」

　僕の一瞬の不は消え去り、嬉しさが胸一杯になる。

　綾音は女の子らしい見た目になっても綾音は王子様だった。

「久しぶり。ここまでどうやって来たの？」

　綾音はいたずらっぽく微笑んだ。「渡り鳥を使ったの」

「え？　……そっか、なるほど」 僕は彼女の言葉に気付き微笑む。

　彼女が言った言葉は、星の王子様の冒頭に出てくるシーンだ。

　綾音は笑って僕の手を引く。外に出ると青空と太陽が眩しかった。

「翔太！　あたしこの夏休みで遊びたい事がいーっぱいあるんだ！　ゲームに海に泳ぎに夏祭りに、それに天体観測！　あの夏に出来なかった事、全部しよっ！　まずはファミレスで計画立てようぜ！」

　手を引かれながら僕も笑った。

「うん！　僕も話したいことが沢山あるんだ。星座の事とかね」

「あはは、それは楽しみ！」

　僕らの手に取り戻された夏休み。もう一度、彼女との冒険を始めよう。