第1話 須田ユーシと四組目 その1
「ねえ、須田くん」
いつものように、いつもの声で。教室で振る舞うかの如く、倉科キョーコはその柔らかそうな唇からユーシの名をこぼす。
「なんだ、倉科」
対するユーシの返答は素っ気ないもので、顔を合わせようとすらしない。窓の外、遠くに見える新幹線が消えて行くのを見ていた。
「アンタが風紀委員になってそろそろ三ヶ月が経つけどさ、もう慣れた?」
聞き取りやすい、澄んだ声。耳ではなく、直接脳に語りかけるかのような、万人受けする声音。そんなものがこの世にあるのだということを、ユーシはつい最近になって初めて知った。具体的には、倉科キョーコと関わることが増えてからだ。
容姿端麗、頭脳明晰……ではない。友人は数知れず。振りまく笑顔は誰もが認める『かわいい女の子』であり、きっと言い寄られてしまえば、男子であれば勘違いは避けられまい。かく言うユーシもまた、人と話すのが苦手な割には変な壁を感じることなく接することができていた。
しかし、それがどこか不気味に思えてしまう。
ユーシははっきり言って、コミュ障と呼ばれる類の人間だ。人と話すのは嫌いではないが得意でもない。目を合わせることはできるが、自分から声をかけることがままならない。これはひとえに、これまで他者と関わることが殆どなかったことによるものであり、言ってしまえばブランクのようなもの。その空白も、風紀委員会に属することである程度は解消されていた。……解消されすぎていた。精神的な問題であるため、、その尺度を図ることは難しい。だが、たった三ヶ月で、否、もっと短い。少なくとも二ヶ月前、つまるところ、風紀委員となってから一ヶ月が経つ頃には既に多少の改善が見られていた。おそらく、それは倉科キョーコのおかげで、だ。
誰かが言っていた。倉科キョーコはコミュニケーションの化物だ、と。なるほど、言い得て妙だ。化物という表現も場合によっては褒め言葉になりうるのだと、これもまた新たな発見であった。褒め言葉として使ったのかどうかは、また別の話として。
そういった事情を踏まえた上で、ユーシはようやく倉科キョーコの問いに答えた。
「慣れるわけがないだろ、嫌味か?」
もうすぐ夏休みがやってくる。そうなればユーシは、この風紀委員に逃げ込んだそもそもの理由である幼馴染とも自然に距離を置くことができる、とかなり前から待ちわびていたのだが、最近ではそこに新たな理由が付随されることとなった。
倉科キョーコと距離を置きたい。
この女子と一緒にいることも、話すことも、笑い合うことすらも苦痛ではない。しかしそこには必ずと言っていいほど、ユーシが一方的に感じている気味の悪さというものを意識してしまう。
「嫌味だなんてそんな、単なる世間話だってば。最近はめっきり暇だしさー。なら、」
一拍置いて、倉科キョーコはこれまで何度も見てきた、万人受けする笑顔を浮かべつつ言う。
「同僚? と交友を深めるために時間を使うのも自然だと思わない?」
「思わない。暇を暇だと一刀両断する暇があるなら、もっと暇を暇として楽しむだけの心の余裕、つまりは心の暇を持つことを勧めるよ」
たとえば今、ユーシがしているように、数十分に一本の頻度で窓の外を通る新幹線を眺めるなんてどうだろう。穏やかな時間だ。ここ最近が慌ただしかったのもあってか、こういった時間が以前よりも貴重になってしまった。その原因はだいたい、倉科キョーコであるのだが、当の本人はそんなことを考えもしないだろう。
「え、なに? なんて言ったの?」
「なんでもない。……俺と話すくらいなら、教室に行ってクラスメイトと楽しくお喋りでもしてこいよ。時間を無駄にしたくないって言うなら、そっちの方がもっと建設的だと思うけど?」
「なんだ須田くん。男の子のツンはあんまり需要ないぞ。でもまあ、それも大変魅力的な案ですので、採用したいと思います。というわけで須田くん、レッツゴー」
「え、なんで」
「え? 行かないの? 今ならもう飯野さんと北原くん、いないんじゃない?」
「…………」
それなら、と一瞬だけ考えてしまったが、よくよく考えてそんなことをする意味も理由も、ましてや快諾するだけの納得も得られなかった。
「行かない。だいたい、俺は居場所が無くて、居場所が欲しくてこの委員会に入ったんだ。居場所が無いっていうのは教室もそうだ。あそこは息が詰まるんだよ」
みすずやひでりがいなくたって、友人未満のクラスメイトしかいない教室になぞ行きたくない。しかも倉科キョーコと一緒にだなんてどんな拷問だろうか。最近、一緒にいるところを見られすぎて今更、なんて思ったりもするが、問題はそこではない。
コミュ障が改善されつつあるが、それで調子に乗ってホイホイと倉科キョーコについていったとしよう。この女はコミュニケーションの化物とすら揶揄されるのだ。誰とでも、いくらでも話が弾むだろう。その間、ユーシは何をしていればいい? 一人寂しく窓の外を見るのだ。そんなのは耐えられない。行くはずもない。
「そっかー。んじゃいいや」
倉科キョーコはあっさり引き下がった。別に、一人で行けば良いだろうに。こうやってユーシを誘い、断られたらそこで終わってしまうのだ。前に聞いたことがあるが、曰く、
「それじゃ意味ないじゃん」
とのこと。よくわからなかったが、倉科キョーコには倉科キョーコなりのルールのようなものがあるのだろう、という認識でいる。
そうしていつもと同じ……多少の違いはあれど、概ねいつもどおりの雑談の最中、それはやってきた。
「やあ、二人とも。夏休みももうすぐだと言うのに、今日も律儀に集合するとは。根っからの仕事人間かよ」
風紀委員会室の扉をガラッと開け放ち、尊大な面持ちで、カラカラと笑いながら悪態をつく女子生徒。彼女の名は氷室久遠、風紀委員会のトップ、委員長様その人である。
「集まれって言ったのはそっちでしょ」
「まあ、その通り。しかしそうでなくても、キミたちはここに来たんだろう?」
まるで見透かすように言う。だがそれを、ユーシとキョーコは否定する。
「いえ別に……今日の授業、そんなに難しいところ無かったんで久々に予習を、と思ってたし」
「アタシもー。みーちゃん、しーちゃんと一緒にカラオケ行く予定すっぽかす羽目になっちゃった」
「……そ、そう。でもなぁ、仕事は仕事だし、なんだかんだ言って来てくれるキミたちがワタシは大好きだ!」
冷や汗垂らしつつ言うそのご尊顔も、もう何度目だろうか。
――仕事。当然、風紀委員のそれだ。しかしこの風紀委員は少々特殊で、通常の高校における風紀委員のような仕事などは知った事かというスタンスを取っている。そんな前時代的なものが現代の高校でどう成果を出せるのだ、というのは氷室委員長の言である。この委員会の戸を叩く前、ユーシが風紀委員の存在を知ったとき、つまりは部活勧誘の最中、風紀委員のビラを受け取ったときにキョーコは言っていた。あまり目立つような仕事ではない、と。その実態を知ったときは、そのあまりに身勝手過ぎる風紀の整え方に軽く目眩がしたものだが、それも慣れてしまった。慣れるべきでは、ないのだろうが。
「アタシはそんなにセンパイのこと好きじゃないですけど。で、今回は誰なんです?」
「ワタシのことは別に嫌いでも構わないが……いや、結構悲しいな? ま、それは置いといて。そうだな、今回のターゲットの名を告げるとしよう」
ターゲット。およそ風紀委員の仕事のうちとして使われるに似つかわしくない言葉だ。しかしこの学校の風紀委員の仕事としてはあまりにもピッタリ過ぎるその言葉に、ユーシは深くため息をつく。
では改めて。須田ユーシが逃げ場とし、しかし後悔することとなった北浜高校風紀委員会の活動内容を提示しよう。
「御田葛と森宮明。夏休みを前にして昂ぶったんだか、単純に遊ぶ相手が欲しかったんだか知らないが、二人は交際を始めた。というわけで、」
活動内容はとてもシンプルにたった一つだけ。人道に背かなかれば、法律に引っかからなければ、どんな手段を用いても構わない。だから、
「このカップルの仲を、引き裂いてこい」
――風紀を乱す、害虫を駆除しろ。
◆
「例のごとく、詳細はサトウさんから聞いてくれ」
そう言い残して委員長はそそくさと去ってしまった。彼女も三年生。受験で忙しいのだろう。秋には完全に引退すると言っていたが、今でさえそんな余裕はあるのだろうか。
「人の心配してる場合? 須田くん」
「あ?」
またも二人きりになった委員会室。先程までの、ユーシをからかっていたときのような朗らかさを損なわぬままにキョーコは問う。
「これで四組目。さすがに慣れてきたとは思うけどさ、またカップルが別れるところを目にするわけだ。アンタは大丈夫なのかねー、と」
「……まだ別れると決まったわけじゃないだろ。一組目は失敗したんだし。後の三組は上手く行ったけれど、今回こそまた失敗するかもしれない」
「へえ、アンタは失敗を望むんだ。悪い風紀委員だなぁ」
「……ほっとけ。それより、そっちこそ平気なのかよ」
「なにが?」
「なにって……いや、なんでもない」
「あはは、変なの」
平気なのか。そう問うたユーシの意図は、正直なところ自分にもわからない。平気だと問う意味は? そんなもの、この三ヶ月で嫌ほどわかっていただろうに。この女はそういう女だと。
表では誰にも好かれる人気者。しかしその裏では、こうして他人の仲を引き裂くことに協力的な姿勢を見せる悪い女だ。
……本当に?
「さて、それじゃあサトウさんとの会合だ。行こうか須田くん」
「また図書室か? こう、もう少しマシな場所は無いのか」
「良いじゃん。アタシはああいう雰囲気好きだけど、アンタはそうじゃないんだ?」
「好きか嫌いかで言えば……正直、嫌いじゃあない。だけどなぁ……」
「せっかくコミュ障なキミのためにってああいう手法を取ってるんだから文句言わないの。それともなんだ、コミュ障を克服しつつあるってことを言いたいわけ?」
「……いや、克服なんかできてないけど」
こうして女子と会話できているなんて奇跡に近い。
「悪かったよ文句言って。さっさとサトウさんのとこに行こう」
「うんうん。それで良いんだ」
唇を尖らせていたキョーコはようやく機嫌を直し、スキップしながら言う。
「アンタはそうでなくちゃ。……なんて会話してるうちに、はい到着。放課後になるとやっぱり校舎内も人少ないね」
それもそうだろう。この時期、用もなく放課後に校舎内をうろつく生徒なんていないはずだ。いるのはそれこそ用がある生徒。たまに外で部活に勤しんでいる生徒が涼みに来ることもあるが、やはり数は少ない。
だが、図書室となれば話は別だ。ここにいるのは用のない生徒……暇を持て余し、暇を潰すために図書室を間借りしている生徒である。部活にも所属せず、家に帰ってもすることがない、あるいは家に居辛い。バイトも無いし、かといって遊びに行く金、気力もない。そんな生徒の妥協によって、放課後の図書室は賑わっている。いいや、静まり返っている。図書室では静かに。そんな当たり前のルールを、当たり前の如く遵守している。
そんな陰湿な雰囲気を放つ図書室の一角、PCが並ぶ共有スペースに、その生徒はいた。
常にダボダボなジャージを着てズボラな印象を見せているが、よく見れば手入れされた髪に、荒れている様子もない白い肌。目の下のくまは隠しきれていないが、男のユーシでもわかる程度の軽い化粧の施された端正な顔立ちをした――男子生徒、だと、思う。それがサトウさんだった。
思う、というのも、これは別に本人の自主申告というわけではなく、ユーシが勝手に口調や振る舞い、またまな板と見紛うが如き身体的特徴からそう判断しただけだからだ。これで女子だったとしたら、これまでこのような経緯で男子だと思っていたことが知れたら、きっとユーシは一生サトウさんに嫌われるに違いない。
サトウさんはユーシ達の存在に気づくと、自分の席のPCを立ち上げた。ユーシ達もまたその隣に座り、同じようにPCを立ち上げる。そして、元々入っているチャットソフトを開いた。
サトウ『ハロー。そろそろ夏休みだというのに、仕事熱心だなお前たちは』
キョーコ『はろはろー』
ユーシ『どうも』
サ『なんだそのつまらない挨拶は。もっとこう、粋なものをだなぁ』
ユ『仕事の話をしましょう、サトウさん』
サ『あ、こら』
サ『それは僕のセリフだぞ』
知ったことか。
やはりこの会話形式は慣れない。思ったことを口にするのではなく、文に起こすという一手間が発生するせいで無機的な文章にしかならない。ユーシはわざとぶっきらぼうに見える文章を打っているのではなく、感情を文章に乗せる手段を知らないがために簡素な文章での会話となってしまうのだ。最初こそそれなりの努力はしたが、今では面倒くさくなってしまった。
サ『…まあいいや。それじゃあ改めて、仕事の話をしよう』
サ『今回のカップルは御田葛、森宮明の2人だ。プロフはメールで送っておいたから目を通しておいて』
サ『あ、』
サ『個人情報云々のお説教はナシだぜ』
メーラーを開くと、たしかにデータが送られてきていた。今どき、メッセージアプリなんていくらでもあろうに、サトウさんは『そんなの信用できないだろ馬鹿か』と一貫してメールを使い続ける。わからないでもないが、馬鹿とまで言うのは酷くないだろうか。
サ『さて、2人のことはそのデータを見てもらえば大抵のことはわかるけど、仕事の話をするためにも簡単に2人についてまとめよう』
サ『付き合い始めたのは実はそう最近のことではないらしい。少なくとも4月…ユーシくんが風紀委員に入った頃にはもう交際していた、と』
ユ『サトウさんはそれを知ってたんですか』
サ『いいや、知らなかったとも』
サ『知っての通り、この学校のカップルの情報を風紀委員に流しているのは僕だ。基本的に僕はリアルタイムでその情報を流しているんだけれど、つまり彼らが付き合っていることを知ったのはつい最近のことでね』
ユ『サトウさんが見逃してたってこと?』
サ『あらまぁ、随分ストレートに言うもんだ。いや、まったくもってその通り。この学校のことなら知らないことはない。知らないことがあってもすぐにその情報を手に入れる、学校一の情報通を自称する僕にあるまじき失態だとも。存分に罵ってくれ』
キ『ばーか』
キ『あほー』
キ『だっさーい』
サ『お前が罵倒するんかい』
ユ『で、なんでその情報を見逃してたんですか』
サ『ああ、それなんだけど』
サ『知らなかったらしいんだ。誰も』
ユ『?』
サ『思春期の男女だぜ? 交際を始めたら、それが何かしらの理由で隠さなきゃならなかったとしても、親しい友人にはポロっとこぼしてしまうものさ』
サ『まして、御田も森宮も友達は多い方だ。共通の友人だっていただろうに、彼らが付き合っていた事実を知っている者はいなかった』
サ『ひとりも、だ』
ユ『単純に口が硬かったって話じゃ?』
サ『あり得なくはない。というか、まあ90%くらいそれで正解だろう。だけどなぁ』
サ『そんな口の硬かった彼らが、夏休みを前に突然交際してましたって宣言して、それを言いふらして、事あるごとに惚気始めたらちょっとは疑うだろ』
ユ『そうっすか?』
キ『別によくない?』
サ『お前ら本当に北浜高の風紀委員か?』
サ『少なくとも僕はおかしいなって思ったんだよ! だから僕の認識を前提に話を勧めるけど!』
サ『さっきも言った通り、90%はお前らみたいなスタンスで良いと思うよ? でも残りの10%の話をしてる』
サ『単なる恋仲ってわけじゃないかもしれない。彼ら2人の仲を引き裂くのが風紀委員の仕事だとして、そこんところを頭に入れておいて欲しい』
サ『ま、僕はあくまで情報提供者。どんな手段を使うのかは実動隊であるお前らが考えるべきだ』
ユ『無責任な』
キ『結局、状況ややこしくするだけして放り投げるんだ』
キ『これで間違えてたら超恥ずかしいね!』
サ『やっぱり嫌いだお前! 倉科!』
◆
文章ではあれだけ感情豊かだったサトウさんも、実際にその表情を見てみれば無、無だ。笑うでもムスっとするでもなく、淡々とキーボードの上で手を滑らせる。そうして最後の一文を打ち終わったところで、今日は終わりだとばかりにユーシ達の方を向いた。
二人は立ち上がり、特に何を言うこともなく図書室を静かに去った。いつも通りに。
「結局、いつもと同じパターンってことか」
「おお、わかったようなことを言うじゃん須田くん」
「さすがに四組目となればな……ある程度の傾向も掴めてくるよ」
何も知らずに叩いた風紀委員の扉。しかしてそれはカップルの仲を引き裂く、それこそを仕事とする馬に蹴られても文句は言えないような集団だった。
だが、ただ闇雲にカップルを狙うのではない。
「俺が入ってからか、元からそうなのかは知らないけど、少なくとも俺が見てきたカップルは何かしら問題があったぞ」
「たまたまじゃない?」
「は?」
そんなはずはないのに、キョーコはのらりくらりとユーシの追求をかわす。もしかしたら、ユーシの考えは的外れだったのかと不安になってくる。
「ひとまず、委員会室に戻ろう。そこで作戦会議だ。よーし、今回も頑張るかんね!」
「…………」
そうやって明るく振る舞う姿は、まさしく教室でのそれだ。しかしユーシは知っている。彼女が、倉科キョーコがそれだけではないことを。
――キミは狡い人間だよ、須田くん。アタシと同じね。
「……何してんの? 早くしないと来ちゃうよ?」
「え、誰が」
「さっき呼んでおいたんだ」
「だから、誰を」
「新しい風紀委員」
あっけらかんと言うキョーコに対し、ユーシはついていけないと言わんばかりにため息をついた。