愛の麻婆豆腐
「えい」
気合いを入れて、一口なめてみる。やはり強烈なアルコール臭がおそってくる。しかし、味自体に嫌な刺々しさはなく、ほのかに甘みも感じる。
「あー、味がする」
「……あたし、ほめられてる?」
「いや、これ日本酒の中ではかなり飲みやすい方よ」
本当にまずかったら容赦なく吐く。飛鳥は、正直にみーちゃんをほめた。
「でへへ、そうかあ」
「そーか、これが酒の甘みか。今までは全部アルコールの味しかしないと思ってた」
一人しんみりしている飛鳥を見て、鼓がうなずいた。
「選べば飲めるものはあるさ。まあ、みーちゃんは貴醸酒なんで、かなり甘いほうだけど」
「貴醸酒?」
飛鳥が聞き返す。
「ふつう日本酒の仕込みには水しか使わないんだけど、わざと酒を入れて作るんだよ」
ここで、横で聞いていた華が口を開いた。
「食前・食後にはおすすめですが、味が淡泊なものとはあいませんね。フォアグラとか味の濃いがっつり系にはおすすめです」
「なぜたとえがフォアグラ」
「常備していませんか?」
「あるかそんなもん」
「石油王なのに」
「違うわ」
いちいち華につっこみを入れつつ、飛鳥は日本酒の残りをちびちびなめる。単独ではやはり全部は飲み干せない。しかし、さっきの日本酒アイスならもう一回食べてもいいと思った。
それを伝えると、三体はそろって喜びの表情を浮かべる。
「これは見込みありじゃないの?」
「作戦を第二段階へ移行しよう」
「そのためには準備しないといけません」
顔をつきあわせて不審な動きをしていた三体が、そろって立ち上がる。代表して華が口を開いた。
「では、準備がありますので今日はこれで。明日またきます」
「準備ってなに。明日ってなに」
飛鳥は疲れ切った声で聞いたが、三体ともそれには答えず部屋から出て行った。取り残された飛鳥は、もう全てがどうでもよくなって、床に突っ伏した。
「また……くるの?」
今になってさっきの酒が全身にまわってきている。とても起きあがって彼女たちを追いかける気にはなれず、飛鳥はそこで意識を手放した。
☆☆☆
飛鳥が気づいた時には、すでに外は明るくなっていた。室内は静まりかえっており、昨日のうるささが嘘のようだ。やはりあれは夢だったのだろう。
飛鳥が納得したところで、置きっぱなしになっているマグカップが目に入った。
うん、あれは……幻かな? 半ば無理矢理、納得して床につく。
「おはようございます」
「おはようー!!」
「そろそろ開けてくんないと近所の視線が痛い」
まさにその瞬間、玄関の外から三人娘の声が聞こえてきた。飛鳥は飛び起き、水を顔面にたたきつけて顔を洗う。それから不機嫌を隠さずにドアを開けた。
「一発目の授業がないんで限りなくだらだらしようと思っていた朝の貴重な時間を返せバカヤロウ」
「息継ぎなしでそこまで言えれば、もう目さめてるね」
鼓が言った。
「いまいましいことにその通り」
飛鳥が眉間にしわを寄せている間に、三人娘はさっさと部屋にあがりこんだ。昨日と違って、全員両手にスーパーのビニール袋を抱えている。
「なに、行ったの? 朝一番で」
「ええ。昨日いただいたお金がだいぶ余っていましたから」
そう言われてみれば、一万円渡していたのだ。アイスを買ったくらいでなくなるはずがない。
「今日はみーちゃんの魅力、その第二弾をお届けしようかと思いまして」
「アイスだけでもそこそこおいしかったけど」
「ああやって食前食後に楽しむのもよいですがー、やはりお食事中にぐいっといけるお酒の楽しみ方も知っておきたいですよねー」
「別に知りたくない」
「ああん」
飛鳥が悪態をつくと、みーちゃんが悲しそうに下を向いた。
「今ならあったかくておいしい朝食をサービスしますよ? みんな手作りですよ……」
華が穏やかに言う。そういわれて、飛鳥は顎に手を当てて考え込んだ。正直日本酒にあまり興味はないが、大学に入ってから自分で料理をしていなかった。
部屋のコンロはほぼカップラーメンの湯をわかすためだけに存在していると言っても過言ではない。手作りのあったかい朝食、と聞くとそそられるのも事実だった。
「そういわれると、ちゃんとしたもの食べたいかも」
「はい注文入りましたアー!! 準備しな!!」
「わーい!!」
「ありがとうございます」
おまえどこの女将か、といいたくなるくらいのてきぱきした口調で鼓が指示をとばす。華とみーちゃんが、一斉に狭い台所へ駆けだした。飛鳥はため息をひとつついて、後を追う。
神通力で簡単に仕上げるのかと思いきや、華とみーちゃんは並んでまじめに包丁を握っていた。飛鳥の家になにもないことを予測して、調理用具も一緒に買ってきたらしい。その読みは見事に当たっている、と飛鳥は内心つぶやいた。
華は慣れた手つきで豆腐を四角に切り、挽き肉を取り出した。彼女の横には豆板醤のびんがおいてある。何を作ろうとしているか、料理音痴の飛鳥でもすぐに予想がついた。
「ま、麻婆豆腐?」
「そうです。意外といけるんですよ。朝からカレーとか、けっこう食べられるでしょう?」
確かに、大量に作られた母のカレーを、翌朝父と奪い合いながら食べるのは楽しかった。
「ああ、そう言われてみれば」
「でしょう? 任せてください。とびきりおいしく作りますから」
華はつぶやきながら、細い腕を曲げる。飛鳥はまあがんばって、と声をかけ、みーちゃんの方を見た。
みーちゃんは見かけに反して、器用ににらを刻んでいた。丁寧に切る華とは違い、彼女の手の中で超高速でにらがみじん切りになっていく。彼女の傍らにも、挽き肉のパックがいくつか並んでいた。
「こっちは何?」
「小籠包ですよーう。蒸し器も持ってきました」
みーちゃんはそう言いながら、挽き肉ににらと調味料を混ぜ込む。白い皮の中心にあんを置き、さらに中心にゼリー状の立方体を埋め込む。これが肉汁のもとです、とゼリーの説明をしながら、みーちゃんは手際よく皮をひねっていく。
あっという間にできあがった小籠包を蒸し器にセットし、みーちゃんは満足そうにうなずいた。彼女の形のいい小鼻が、ぴくぴく動いている。
一仕事終えたみーちゃんが、華を手伝いに行ってしまった。飛鳥は台所を離れる。
残された鼓は、せっせと飛鳥が散らかした机の上を片づけていた。ありがたいと手を合わせていたところ、鼓は無慈悲にものをゴミ袋に入れていく。
「総菜買うなとは言わないけどさ、食ったら容器くらい捨てなさいよ」
「だって生ゴミじゃないし」
「ゴミはゴミでしょうが」
切れのいい台詞をぽんぽんと吐きながら、鼓は堆積した総菜パックをゴミ袋に放り込んだ。その後、細々した消しゴムのカスやインクの出なくなったボールペン、いつか使うだろうと思ってとっておいた輪ゴムもめでたくゴミの仲間入りを果たした。
「ちょっとは整理しな」
ぶつぶつ言う鼓に向かって、飛鳥は胸を張った。
「めんどくさい」
「そうやってめんどくさいめんどくさい言ってるうちに、なにもしないまま死ぬんだよ阿呆は」
「ぬはー」
ぐうの根が出なくなった飛鳥は、その後ようやく重い腰を上げ、パソコンの埃をとったり、近くの洗濯物をたたんだりした。その間に、台所からはじゅうじゅう、ぐつぐつという食欲をそそる音と、香ばしいにおいが漏れてくる。
それに触発された飛鳥が発奮し、ようやく食卓付近がすっきりした。ちょうどそこに、華とみーちゃんが大皿を持ってやってくる。