山猿は大富豪
あの地獄の飲み会から一週間。
飛鳥は履修した講義を聴き終え、背筋を伸ばした。この後の授業は履修していないので、時間が余る。こんな時は部活に行けばいいのだが、あの後に顔を出した部室はそれはそれは居心地の悪いものだった。自然と足が遠のいてしまって今に至る。
友達はひとりできたが、その子も今日は習い事でいない。飛鳥は仕方なく、最寄りのデパ地下でいくつか総菜を買って家に帰った。
玄関を開けると、八畳のワンルームが飛鳥を出迎える。申し訳程度についている小さいキッチンとクローゼット、トイレと風呂。実家から持ってきた家具を入れると少しせせこましい感じがしたが、ようやくその違和感にも慣れてきた。
鞄を置いてしばらくぼーっとした後、飛鳥は運動着に着替えた。日課のランニングだが、今日は時間があるので少し距離をのばそう。
玄関に座り込んで、スニーカーの紐を絞り、足の形に合うようにきっちり締め付ける。何度かやり直して、ようやくベストポジションにたどりついた。
よし、と思ったところでチャイムが鳴った。飛鳥は舌打ちをする。頼んだ覚えはないが、宅配便だろうか。飛鳥はのぞき穴を見た。
しかし、予想は外れる。ドアの前に立っていたのは和服姿の女性たちだった。
一人は背が低く、淡い桃色の着物をまとっている。丸い小さな鼻と、よく動く大きな黒い目がかわいらしい。彼女が少し首をかしげると、肩まで伸ばした黒髪がさらさらと揺れた。
もう一人は背が高く、驚いたことに髪を水色に染めて、一つにまとめている。これは最近の流行なのか、何かのコスプレなのかはわからない。切れ長の目をした日本風の美人で、濃紺のシックな着物をなんなく着こなしていた。傍らの少女と違って妙に男っぽい迫力がある。
イメージの違う二人組が、飛鳥を訪ねてきた理由が全くわからない。変な宗教の訪問販売かな、と飛鳥は結論づけた。この人たちに壷とかお札とか持たせるとしっくりくるし。
関わるまいと心に決めて、飛鳥はドアの前から離れた。ランニングは中止し、しばし腹筋ローラーに熱中する。さあ飯でも食うかと腰をあげたところで、再びチャイムが鳴った。
今度は誰だろう。またあの二人じゃないよな、と思いながら外をのぞいた。
「あのー、お話を」
穴の向こうにはさっきの二人組が立っていた。ゆうに一時間は経過しているのにずっと待っていたのか、と思うと嫌な気分になってくる。
よっぽどノルマがきついのか、宗教的使命に燃えているのか。とりあえず話をしなければ帰ってくれそうにない。仕方なく、飛鳥はチェーンをかけたままドアを開けた。
「……私に何の用ですか?」
「わあ、お久しぶりです」
飛鳥が言うと、背の低い娘が妙なことを言い出した。彼女と会ったことはないはずだ。
「……久しぶり?」
「ええ、あなたが小さい頃はよくお邪魔しました。お父様の好みが変わられて、最近は鼓さんの方がよくいますけど」
ますます話がわからなくなって、飛鳥は首をかしげた。こんなにかわいい女性を、父が家に呼んでいた記憶がない。この二人、一体何者なのだろう。
「中に入れてくれません?」
かわいらしく小首をかしげる少女の魅力に参りそうになりつつも、飛鳥は厳しい顔を作った。
「話だけならチェーン越しでも十分でしょ。あんたたちがここに来た理由もわかんないし」
鼓と呼ばれた、背の高い女がうなずいた。
「……用心深くて結構だ。じゃあはっきり言うわ。あんたの力、私たちに貸して欲しい」
飛鳥には心当たりがあった。一応、自分は空手の有段者である。師匠である父からはむやみやたらに喧嘩するな、と言われていた。
が、いじめや恐喝など、あまりに腹に据えかねた時は、弱い方に荷担して喧嘩の助っ人をしていた。その話をどこかから聞きつけてやってきたのだろうか。
「喧嘩の手伝い?」
しかし、鼓は首を横に振った。
「いや、宝くじで当てた四十億を私らに投資してほし……」
みなまで言わさず、飛鳥はドアを閉めた。外の二人から抗議の声があがるが、まともに相手をしてやる義理はない。飛鳥はにわかに騒がしくなった心臓の音を聞きながら、必死に考えを巡らせていた。
あの二人は何者だ? 一体どこから宝くじのことを聞きつけてきたのか?
しかし、いくら考えても同じところをぐるぐる回るだけで、答えはさっぱり出なかった。
「お願いです、話を聞いてください」
「悪い話じゃないからさー。一口のってみない?」
「お金は流通させてこそですー」
女たちはドアの前でまだ粘っている。飛鳥はため息をついた。なぜこの二人が金のことを知っているのか、それだけは絶対に確認しておかなければならない。それにこのまま大きな声で、四十億四十億と連呼されるのも気にくわなかった。
なんとしても理由を聞き出す。相手が脅しの言葉を口にしたら、半殺しにして警察につき出そう。飛鳥は覚悟を決めて、再びドアを開ける。
「……とりあえず入って。隣近所に聞こえるような大声は出さないでよ」
意外にも、二人とも「はあい」とお行儀のよい返事をしながら部屋に入ってきた。飛鳥に勧められるまで座布団にも座らず、きちんと直立している。恐喝に来たにしては、ずいぶんと行儀のいいこと。
近くでじっくり見ると、二人とも髪と肌がつやつやで、枝毛一本しみ一つない。モデルやっていますと言っても通用しそうだった。こんな犯罪に手を染めなくても食っていけそうなのに、と飛鳥は哀れに思う。
しかし飛鳥の内心を知らない客たちは、ただ嬉しそうにしている。飛鳥が彼女たちの正面に腰を下ろすと、黒髪の少女が口を開いた。
「あ、遅くなりましたが、私は華祥鳳、こちらは雪鼓。いずれも長いですので、華と鼓でみなさんに覚えていただいています」
一気に言い終わると、華はきれいなおじぎをした。ずいぶん変わった名前だ、と飛鳥は首をかしげた。どこかのホステスの源氏名か。
「……それにしてもあんたらどこから来たの。会社? 宗教団体?」
「どちらでもないが、宗教の方が近いかもねえ」
鼓が早くも足を崩しながら、からりと言う。
「宗教……最もたちが悪いのがきやがった」
「近いって言っただけだよ。そもそも私たちは人間でもないし」
「本格的に危ないのが来た」
飛鳥は反射的に構えをとった。妙な新興宗教に信者として引きずり込まれるくらいなら、遠慮無く腕をふるう覚悟だ。
「なに威嚇してんのさ」
「信者にはならないから」
ふーふーと猫のようにうなる飛鳥を見て、鼓が笑った。
「いや、信仰とか一切いらないから。銭を出してください、って話よ」
「思ったよりずばりと下世話なとこいったな」
つっこみを入れつつ、飛鳥は本題を切り出す機会をうかがった。二人もじっと飛鳥をみてくる。にらみ合いの末、先に飛鳥が折れた。
「……どこで聞いたの、四十億のこと」
「どこと言われましても」
「私は両親とつばきにしか話してない。その三人が、ぺらぺら他所でしゃべるわけない」
頭に血がのぼるのを感じながら、飛鳥は言葉を重ねる。握った拳が白くなった。
「一体どこで知ったの? 下手にごまかそうとするなら、ちょっと痛い目あってもらうけど」