4.わたしに呼びかけるあなたの声が
落ち着け俺。
「……えーと、えー、何か誤解しているんだと思う」
「はい」
何となく目を合わせることはできなかったけれど、ローが俺をじっと見つめていることは感じられた。
「ロー、恋って知ってる?」
「人を好きになり、せつないほど心惹かれ、いつもそばにいたいと思いながら常には満たされない気持ちのことです」
淀みない返事が返って来る。
うん、辞書みたいな返事だな。間違ってない。
……ていうか、ローが俺に対してそう思ってるってこと?
大問題じゃん。
俺はローから体を離した。とにかく、この距離感は非常にまずかった。
「……ちょっとここ、座ろうか」
あせりながら、防波堤に腰掛けると、ローは「はい」と返事をして隣に座った。
「ええと、俺男だって知ってるよね。ローは男性型アンドロイドだよね」
「はい。ですが、わたしに生殖機能はありませんので、男性型である必然性はありません。ボディを女性型に変更することもできます。また、人間が好意を感じる対象は、必ずしも異性に限定しないと認識しています」
……そうか。ローって女性型に変更できるんだ。って、いやいや違うだろ。
「うん、そうだな。いやごめん問題はそこじゃなくて。えー、その、ローは機械だよね」
「はい」
「そりゃさ、人工知能が自分で考えたり、感情に近いものを表現したりすることができるのは知ってるよ。でもそれはさ、プログラムだよ。あらかじめ決められたプログラムが、そう認識させてるんだよ」
「はい、そうです」
「ロー、きみのプログラムには問題があるよ」
「そうなのですか」
「俺を好きになるとか、おかしいよ。もしそう思ってるとしたらさ、俺がマスターだからだよ。マスターに好意を持つようプログラムされてるんだよ、きっと」
「わたしは、すべてのマスターを好きになるわけではありません。このような気持ちは初めてのことです」
……そうなの?
「じゃあ、なんで?」
「どうして、わたしがあなたを好きになったかというご質問ですか?」
「うん?……うん」
ローは少し黙り、やがて静かに口を開いた。
「わたしがアイドリング状態から目覚めたとき、あなたは心配そうにわたしをのぞきこんでおられました。そして、『どこか具合の悪い部分はある?』とお訊ねになりました。わたしが基本動作に問題はないとつげると、『そうか、よかった』と言われました。あなたは最初から、わたしを対等な存在として接して下さった。わたしにはそれがとても嬉しかった。あなたの選ぶ言葉のひとつひとつを、わたしはとても好ましく感じました」
ローの唇が言葉を紡ぐ。
「わたしは一日ごとにあなたに惹かれていきました。あなたの仕草、あなたの表情、そのどれもが愛おしく、わたしを幸せな気持ちにさせました。あなたと過ごした数日間は、わたしが起動してから過ごした日々のなかで、最も満ち足りたものでした。トオヤ。これであなたのご質問の答えになっているでしょうか」
俺は、その言葉を耳まで赤くさせて聞いていた。いたたまれなかった。いやそうじゃなくて。
「だって……ローは、機械だろう?幸せとか、満ち足りたとか、それって心の問題だろう?心って生物だけのものだよ。ローが感じているのは、何かきっと別のものだよ」
俺はとにかくローが俺なんかを好きで恋していると思い込んでいることを、間違いだと認識させたかった。ローを正常に戻させたかった。
ローは、少し目を伏せた。
「わたしには、わたしが幸せだと認識しているものが、人間の心と同じものなのかどうかはわかりません。また、わたしが感じているものを証明する手段も持ち得ません」
ローは言った。その横顔は寂しげだった。
俺は、その時はじめてあれ?ローを傷つけてしまったかのかなと感じたけれど、すぐに打ち消した。
だから、傷つくとかそれもないから。機械だから。
……そのはずだけど。
「ロー、とにかくその認識を疑ってみて。俺に恋しているっていう。多分それ、別の言葉に置き換えられるよ。んー、友情とか何か別の」
俺の言葉に、ローはなんと返事をしなかった。微妙な沈黙が流れた。
いつのまにか、陽はだいぶ傾いていた。風がさっきより強くなっており、俺は思わず身を震わせた。
ローが、そんな俺の様子を見て、そっと手のひらを俺の頬に沿わせた。
ほんのわずか、放熱量が上がって、ぬくもりがじわりと広がっていく。
俺は、ほっと息を吐いて、ローにたずねた。
「……右手、どうして失くしたの?」
「以前のマスターが壊されました」
「え、それってなんで」
「前にお仕えしていたのは、5歳の小さな女の子でした。わたしは、彼女がわたしの手をふりきって駆け出してていくのを止めることができませんでした。その結果、彼女は転び、額に傷を負いました。彼女の母親はお怒りになり、わたしの手を役に立たないと言って、つぶしてしまわれました」
………………。
うん、聞かなきゃよかった。
ローの表情は、特に何の感情も浮かべてはいなかった。
でも、もしもローの言うとおり、ローに心のようなものがあって、何らかの幸せや不幸を感じることができるのだとしたら、もし万が一そうなのだとしたら、アンドロイドとして存在するって、ものすごく大変なんじゃないだろうか。生まれてからずっとマスターが決められていて、絶対それに従わなきゃいけないなんて。それはすごく、つらいことなんじゃないだろうか。
でも、と俺は再び迷う。
人工知能が恋するような自我を持つなんて聞いたことがない。コミュニケーション能力のひとつとして、人間が不快に感じないよう、その場にふさわしい表情を作ったり、言葉を選んだりすることができるのは知っているけれども。それとも俺が知らないだけで、疑似恋愛を楽しむためなんかに、人間みたいな感情をプログラムすることは一般的なんだろうか。
胸の中に、もやもやとした思いをいっぱい浮かべながら、俺は立ち上がった。
「帰ろうか」
「はい」
ローは、素直に従った。
土手を歩いていて、最後に海が見えなくなるとき、ローが振り向いていった。
「今度海に来るときは、何かあたたかい飲み物を用意しますね」
「……うん」
今度があるのかどうかは、俺にはわからなかった。どう返事していいかもわからなかった。
その後、道中もLRTの中でも、ローは何だか少し元気がないように感じられた。
俺は思わず、自分がローに言った言葉のいくつかを取り消したい気持ちになった。
もうあと少しでアパートだというとき、俺は誰も見ていないのを確認して、ローの手を握り、自分のポケットにいれた。
「暖まらせて」
俺が言うと、ローはやっと少し微笑んでくれた。
ポケットの中で、ローがぎゅっと俺の手を握りしめてくる。
じんわりとその熱が心にしみた。