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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
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Your eyes only.

作者: 工藤るう子
掲載日:2014/10/13




Your eyes only.






 それは、はじめての感情だった。

 心配そうな瞳の、小さな少年。

 幼い少年の、褐色のまなざしが、闇に沈む僕の心をあたためる唯一の、ものだった。


 横一線に、ナイフをひらめかせる。

 声もなく、ただ驚いたように見開かれた双のひとみが、てらりと月光を弾いた。

 すぐに、それも、消えてなくなる。

 僕は、それを地面に残し、闇に消えた。


 やがて、遠いパトカーのサイレンに、口角が持ち上がってゆく。

 ボスが、モナリザ・スマイルだな――と、つぶやく、いつの間にか習いになってしまった、意味のない笑いだった。


 星のない夜空に、細い月がぼんやりと霞む。

 シャトー・マルゴーの深いブーケが、鼻先をかすめた。

 灯を消したままの部屋の出窓に腰かけて、僕はワインを一口啜った。

 やがて、遠く離れた向かいの窓に、ひとりの少年が現れる。

 あの窓に彼が越してきたのは、奇跡に近い偶然だった。

 僕は、ひと目見て、気づいた。

 少年は、僕には気づいていない。

 覚えてすらいないのに違いない。

 八年も昔の、ただ一度の出来事など。

 それでも―――

 一番辛かった時の、あたたかな思い出は、僕の心の奥底に、しずかに、まどろみつづけている。やわらかな、記憶となって。

 今夜も、彼の姿を見ることができた。

 ふわふわと、決してワインのせいばかりではない酔いに身をまかせて、僕は、静かに、瞼を閉じる。

 それが、僕の、就眠儀式だった。


 それは、なんと偶然だったのだろう。

 同じ町に暮らしながら出会うことすら、皆無であったのに。

 旅先(・・)のホテルで、僕は、彼を見つけ出した。

 森と湖の心地好い空気の中で、彼は笑っている。

 明るい笑顔は惜しみなく連れに投げかけられていて、僕は、少し、胸が苦しかった。

 ふっと逸れた視線が、僕を捉えた――ように、見えた。

 やはり、明るい笑顔のまま、彼は、

「すみません」

と、僕に、声をかけてきた。

 僕は、不様に狼狽えなかっただろうか。

「なにか?」

 声が、震えはしなかったか。

「撮ってもらえますか」

「かまいませんよ」

 上手く笑えただろうか。

 手渡されたカメラのレンズ越しに、僕は君を思うさま眺めやる。おかしくは思われないていどの時間を、心がけて。

 フラッシュが光る。

「はいどうぞ」

「ありがとう」

 後頭部を掻きながら、少年が、カメラを受け取った。

「よい旅行を」

「君も」

 手を振り返して、僕は、踵を返した。

 仕事が首尾よくゆけば、また、窓の中の君に会うことができるでしょう。心の中でつぶやいた。



 彼を見ている僕だから、それに気づいたのだろう。

 僕以外の、視線に。

 ただ、それが危険なものだということに気付いたのは、僕の職業のせいだろうか。

 けれど、彼は気付かない。

 グループの中で、明るく自然体だ。

 仲間の中の不穏な視線に、気づく気配すらなかった。

 だから、僕は、気をつけていた。

 僕のほうの仕事は、どうせ、すぐに片がつく。

 呑気に笑っている赤ら顔の男。彼が今回の僕のターゲットだった。

 男の滞在期間は二週間。滞在期間は、七日。あと、半分残っている。

 大丈夫。

 焦る必要は、ない。

 彼の滞在はあと数日だ。彼が無事帰った後に仕事にかかることを、僕は決めた。

 せめて、彼が血なまぐさい思い出を作らずにすむように。

 そんな僕の願いは、しかし、聞き届けられることはなかった。



 時刻は、深夜、零時四十五分。

 月明かりに照らされて、ほんのりとやわらかな夜の霧が、周囲を閉ざす。

 僕の視線の先には、黒い影。

 細い小道の先は、確か、崖になっていたはずだ。

 こんな深夜に、彼はどこへ向かうのだろう。

 彼の生活を知っていれば、彼がこんなに夜遅くまで起きていることなど稀だと、わかるだろう。

 木々の隙間を縫うように、彼は、歩いている。

 ふと、逢瀬――などということばがひらめいたのは、彼の後に続く影に気づいたからだ。

 そうだったら、引き返すべきでしょうか。

 野暮だったか――と、僕が踵を返そうかと惑った時だった。

「うわっ」

という悲鳴が聞こえた。

 声の主など、わざわざ考えるまでもなかった。

 霧のスクリーンに、彼が、誰かに首を絞められているシーンが月明かりに映し出されていた。

 手が、自然に、愛用のナイフを握りしめていた。

 彼に見られるかもしれない。

 危惧は、彼の腕が、救いを求めるかのように伸ばされたことで、霧散した。

 霧の中。

 僕は、気配を消して、彼を殺そうとしている誰かの背後に回りこむ。

 そうして。

 もはや、迷いはなかった。

 僕は、ナイフを、横に引いた。



 はじめてひとを殺した瞬間に、僕の心は、凍りついた。

 あれから、幾人をこの手にかけてきただろう。

 ターゲットに返り討ちにされたあの日。

 何も感じないはずの僕の心は、忸怩とした悔しさに囚われていた。しくじったという、屈辱――ただそれだけが、僕をかろうじて生かしていたのかもしれない。

 気がついたとき、僕の目の前には、明るい茶色の瞳があった。

 丸い頬。長めの褐色がかった髪の、十になるかならないかといったくらいの少年だった。

 佐々木裕樹――――あれから一時として忘れたことのない名前の少年は、僕を見て、笑った。

 生きていてよかった――と、そう言って、笑ったのだ。

 あれから数日を、僕は、彼に看病されて過ごした。

 動けるようになるまでのほんの数日間が、僕の心の底に眠る、宝物だ。

 あの、褐色のまなざしが、僕の、ただひとつ。

 たとえ、彼と交わることがありえないにせよ、彼がこの世界のどこかに生きていてくれること、それが、僕の、たった一つの望みだった。

 血に汚れたこの僕が、ただひとりの無事を願う。

 その、このうえない皮肉。

 しかし――――――


 霧に閉ざされた視界の先、見ることができるのは、彼の輪郭のみだった。

 それでも、僕は、彼の顔を思い描くことができる。

 寸毫もたがえることなく。

 探る掌の下に、彼の脈動を感じる。

 生きている。

 よかった。

 意識のない彼の上半身を、僕は、きつく抱きしめ、そっとくちづけた。



 はぁ………

 押し出すように息をつく。

 僕としたことが。

 生涯二度目のしくじりは、間違いなく、僕の命を奪ってゆこうとしている。

 ターゲットは、凡庸な男であったのに。

 クッ……。

 思わずこぼれた笑いのせいで、咳がこみあげてきた。

 ポタリ。

 雨音のような音をたてて、あふれ出した血が、部屋の床を濡らしてゆく。


 ゆうきくん。君は今頃なにをしているのでしょうね。


 出窓の向こう、いくつもの鮮やかな光に混じって、あたたかそうな光のあふれる窓が、ぼんやりと見える。


 眠っている?


 眠っているのなら、君の眠りが、安からんことを。


 いつも。


 君が安らかな眠りを楽しめることを、僕は祈っていますよ。


 出窓の桟についた手の感触は、もう、ない。

 僕は、ゆっくりと、瞼を閉じる。

 彼の瞳と同じように、あたたかな光あふれる窓が、いつまでも、僕を見ているかのようだった。

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