五 返礼
スピーカーからの音声に耳を澄ましながら、吉田は再び隣の上司の顔を見た。
阪元は、その育ちのよさそうな品の良い顔立ちに、よく似合うきれいな唇を開き、吉田へ言った。
「あのボディガードくんは、身の程というものを知らなかったのが、残念だね。いくら助けても、相手に思いなどは伝わらないということを、骨身にしみることを、避けてきたんだろうな。ずるいことだ。」
「あの会社で仕事を続けるためには、必要悪なのかもしれませんが。」
「そうかもしれないけどね。まあいずれにせよこうして我々が最後に、教えてあげる。親切に。」
「裏切られ、裏切られ、また、裏切られる。・・・ですか?」
「そうだよ。そして自分も、絶対に、なにも、乗り越えることなどできないということをね。」
吉田が目を伏せ、わずかな苦笑を漏らした。
阪元がそれを見て、楽しそうな、そして同時に少し抗議するような顔で、部下を見つめた。
「もちろん、これはかなり私の個人的嗜好だとは思うけど・・・・。でもね、」
「はい。」
吉田は、声のトーンがかすかに変わった上司の、深いエメラルドグリーンの両目を見返した。
「でも、私がこのボディガードくんを赦さない一番の理由は、もちろん・・・・」
言葉を続ける酒井の声が、さらに一段低いトーンになった。
「目の前でクライアントを襲撃されることは、かなりイヤなことでしょうな、大森パトロールの山添さん。でもね・・・」
「・・・・・」
「・・・でもね、今回、これだけで終わらそうと思ってたんですが、予定が変わりました。」
「・・・・・」
「我々は、あなたを赦しません。うちのエージェントを、あんなふうな目に遭わせてくださいましたからな。ちゃんと、お礼をしなければなりません。」
和泉が車から離れ、闇の中へ姿を消し、後部座席の男が運転席のドアを中から閉めた。
同時に、山添の両手を後ろから左手で拘束している酒井が、空いている右手の手刀を、山添の鳩尾へ、親指付け根が突き刺さるほどの強さで、突き込んだ。
山添が体をくの字にして膝を折る。
茂は驚愕し一歩踏み出しかけたが、車中のクライアントが拘束されているため動けない。
酒井は山添の体を引きずって後退し、フェンスのところまで下がると、そのまま山添の両腕を後ろから拘束したままの状態で、後ろ向きに暗い海の中へ飛び込んだ。
「・・・・山添さん!」
暗い海面にはほとんど水しぶきは上がらなかった。
酒井と山添の姿は瞬く間に夜の港の海中へ消えていった。
夜空の星が数を増し、海面の微かな水しぶきの跡がホテルからの光を受け輝いた。
茂は、後ろから音もなく近づいた人影に振り向いた。そしてバイクのハンドルに両手をかけ、水際へ向け素早く向きを変えた。
静かな海中で、酒井に後ろから両手を頭の後ろに拘束されたまま、山添はなすすべもなく過ぎる時の中にいた。
激しい苦痛の後、一瞬の恍惚の中、目を閉じる。
瞼の裏に、人影を見た、気がした。
そして、暗黒が訪れた。
車の後部座席の男は、脇の窓の破裂音を聞くまで事態の急変に気づかなかった。
手元の工具を後部座席の扉の窓枠へねじ込むようにして、ゆがめた窓ガラスを粉々にし、高原は次の瞬間には後部ドアを開き、男を右手で車外へ引きずり出していた。
そして高原は、男に態勢を整える時間を与えず、振り向きざまに後ろ蹴りで男の腹部へ右足の一撃を加えた。
茂が走り込み、倒れた男の両手両足を縛った。
高原は身を翻し、水際のフェンスまで走り、左手でフェンスの上端をつかみ飛び越え、海に飛び込んだ。
茂がオートバイのヘッドライトを海面に向けて照らした。
海中にすでに酒井の姿はなかった。
ヘッドライトが照らし出したのは、水の中で眠るように目を閉じて力なくたゆたう、山添の姿だけだった。
高原が山添の体を背中から右手で支え、フェンスにつないだ左手のリスト・スリングのロープを巻き取りながら水際まで泳ぎつくと、茂の手を借りて山添をフェンスの反対側の地上まで運び上げた。
コンクリートの地面に山添を仰向けに寝かせ、高原は頸動脈で脈拍を確認し、次に呼吸の有無を確認する。
「警察と救急は呼んだ。クライアントは無事だ。ホテルにも支援を依頼しろ。こっちは・・・・脈拍はあるが、呼吸停止している。」
「はい!」
そのまま高原は人工呼吸を始める。
茂がホテル従業員に知らせ、毛布を持った従業員と共に戻ってくると、高原は息を吹き込んだ後山添の胸の動きを確認し、また吹き込む、という作業を繰り返していた。高原と向かい合って茂が膝をついて座り、山添の体に毛布をかけて保温する。
高原が何度目かの息を吹き込んだとき、山添の口から水が吐き出され、高原は彼の顔を横向きにしてそのまま吐かせた。口の中をぬぐい、再び人工呼吸をつづける。
息を吹き込むたびに水が吐き出されるようになり、高原は茂に手伝わせ、山添の体全体を横向きにして、その上から両足でまたがるようにする。
そして片手で山添の口を開け、もう片方の手で上腹部を押さえ、さらに水を吐かせた。
横向きのまま、山添が咳き込んだ。
「山添さん・・・!」
「よし、いいぞ・・・」
山添がゆっくり目を開けたのは、そのしばらく後だった。
「崇、俺だ・・・わかるか?」
濡れた髪の上から自分の額に手を当てる高原を見上げ、山添がうなずいた。
その唇が動き、なにか言った。
顔を覆う髪を手でどけてやりながら、高原は山添の顔に耳を近づける。
「クライアントは・・・」
「無事だよ。安心しろ。」
「・・・ああ。」
ふっとため息をついた山添が、再び意識を失わないよう引き止めるかのように、高原は山添に声をかける。
「もうしばらく辛抱しろ。救急車が到着するから。」
高原から外れた目線を宙に留めたまま、山添が再び唇を開いた。
「・・・見えた・・・」
「・・・何が?」
「あいつが、笑ってた。」
「・・・・」
「そして、・・・ひとりで、行ってしまった。」
「・・・・」
高原はそのまま山添の横顔を見つめていたが、やがて毛布ごと彼の上体を少し両手で抱き起した。
山添は、高原の太ももに背中を支えられ、顔を高原の腕にもたせかけ、低い声でつぶやいた。
「・・・和人・・・」
唇を噛み、山添の頭を両腕で抱きかかえ、高原は額を山添の頭の濡れた髪に押し付けるようにした。
「和人・・・和人・・・・」
体を震わせ、何度も山添が朝比奈の名を呼ぶのが、茂にも聞こえた。
高原の、絞り出すような声がそれに続いた。
「ごめん、崇。ごめん・・・・。俺はお前に、なにひとつ、してやれなかった。」
山添は顔を高原の腕にうずめるようにしながら、何も言わずじっとしていた。山添の両目が押し付けられた腕が、温かく濡れるのを感じながら、高原は救急車が到着するまでそのままでいた。
深夜の病室で、ベッドから体を起こして部屋のスピーカーからの音声に耳を傾けていた板見は、今日のすべてが終わったことを理解し、小さく息を吐き出した。
怪我の痛みの続く胸に、別の痛みも加わったような気がし、しかし、それはずっと前からあったもののような気もした。
スピーカーから、少し大きめの音量で、和泉の声が入った。
「板見くん、起きてる・・・?」
板見は今日初めて枕元の無線の発信機を手にとり、相手方に向かって言葉を出した。
「はい。全部、ちゃんと聞こえていました。」
「うん。・・・終わったよ。」
「はい。ありがとうございました。」
「酒井さんが、謝ってた。」
「・・?」
聞き間違いかと思って板見は一瞬沈黙した。
「板見くん、聞こえてる?」
「・・・今日の仕事のことですか?なにも特に問題は・・・・。それどころかむしろ・・・・・」
「いいえ、金曜日のこと。あなたに、申し訳なかったって、謝ってたよ。」
「そんな、あれは俺のミスで自己責任で・・・・」
「そうだけど、それでも、それは先輩エージェントの責任と理解するのよ。そういうもの。」
「・・・・」
「酒井さんはああいう性格だから、あなたに直接は言わないけど。」
「・・・・」
「すごい形相だったよ。」
「え・・・・」
「あのボディガードさんをつかまえたときの、酒井さん。」
和泉からの報告を聞き終わり、通信を切った吉田は、先に阪元が戻っていた個人の書斎のような社長室へ自分も移動した。
ドアを開けると、阪元が質素な打ち合わせ用テーブルの上で、コーヒーを淹れている。
「君も飲むよね、恭子さん。」
「・・・・はい。ありがとうございます。」
「今回もお疲れ様。一昨日、負傷者が出たことは残念だったけど、今日は酒井も和泉もそして補助要員たちも、皆無事で仕事を終えてくれて、よかった。逮捕者も出なかったみたいだしね。」
「はい。」
深夜の、くっきりとした月と星が、夜空から窓越しに室内にまでその光を届けているように見えた。
「いつもながら、君の仕事のやり方には、惚れ惚れするよ。うちの会社のポリシーを、美しい結晶のように体現してくれる。」
「・・・・」
「影響する人間を一人でも少なくする。関係のない人間の生活に極力触らない。・・・実行の場で、極力”ちょっとしたことしか、しない”。だからこそ、水面下では大変な準備がいるということなんだけどね。」
「身に余るお言葉ですが、高原警護員の応援を想定・排除できなかったことは、反省点です。」
「いいさ。あの警護員は、化け物みたいなものだからね。急に来られたらもうどうしようもない・・・・自然災害だと思ったほうがいいよ。それに、お客様からの制止ご指示があるまで、全過程を遂行した。結果的にといえるかもしれないが、何も問題はない。」
吉田が少しだけ苦笑したように見えた。
「社長が極端にお優しいときは、少し不安になります。そういうときの社長は、苛立っておいでの場合が多いですから。」
相手を吸い込むような深い緑色をした両目を、阪元はやや細めて、そして声を出して笑った。
「あっははは。そうかもしれないね。私が今回苛立っていることがあるとするなら、正直言って、あのボディガードくんのいまいましさだね。」
「そうですか。」
「不安や迷いを見せない人間というのは、苛立たしいよ、私から見ればね。」
「はい。」
「それはなぜかと言えば」
コーヒーカップをソーサーに載せ、吉田へひとつ差出すと、自分も手元のカップから一口飲む。
「私も、そうだったからだよ。」
吉田はカップを両手で包むようにしながら、上司の顔をただ静かに見ている。
「でもそれは、不安や迷いがないからではなく、それがとてつもなく大きいからなんだよね。だから、それを自覚したとき、自分の行きたい方向がすごく遠くまで見えるようになるよ。行けるかどうかは別としても、見えるようになるよ。」
「・・・遠くまで、ですか。」
「大森さんのところに、我々にとってめんどくさい警護員がまた増えたりするのかもね。無駄とわかっていても、苛めたくなってしまう。まあいずれにせよ、我々は、これからも、行く先は変わらないよ。お客様のために、全部、引き受ける。どんなに恐ろしくても、自分で考え判断し、価値を決めていくことをあきらめない。彼らと違うのは、この点だ。」
「はい。」
山添が搬送され入院した病院を後にして、茂がオートバイで事務所に着いたとき、そろそろ夜は明けかかっていた。
このまま事務所で仮眠しようとしていると、従業員用の入口をカードキーで開ける音がして、特徴のあるがさつな足音がした。
「あ、波多野部長・・・。病院じゃなかったんですか?」
坊主頭に近い短髪に、似合わないメタルフレームのメガネをかけた波多野営業部長が、茂を見てやはり少し驚いた顔をしていた。
「お前こそ、なんでここにいる。明日、というかもう今日は、昼間のほうの会社なんだから、早く帰って寝たほうがいいぞ。」
「ここのほうが会社に近いんで・・・」
「ああそうか。」
「波多野部長はどうしてここへ?」
「明日の朝いちで来客があるから、俺もここで寝ようと思ってさ。」
「ははは・・・・。あ、病院のほうは・・・?」
「崇には、晶生が今夜はずっと付き添ってるよ。」
「そうなんですね。」
波多野は上着を脱いで机の前の椅子の背もたれにかけた。
「クライアントからは、昨日で・・・日曜日で、警護契約を終了したいとの連絡があった。」
「・・・・」
「この後どうされるのかは、分からないけどね。警護契約が終われば、我々の仕事も、終わりだ。」
「はい。」
二人は打ち合わせコーナーのテーブルで、麦茶を飲み、一息ついた。
「茂、お前さ」
「?」
「晶生が、崇に内緒で周回警護に当たっていたことを、知っていたんだって?」
「あ、はい・・・。日曜の昼に、一度ここへ来た時に、教えていただきました。」
「あいつ、俺には崇にも茂にも言わないでくれって言ってたのに、しょうがない奴だな。」
「でも、予め聞いていたおかげで、今日のあの緊急事態のとき、高原さんから指示があっても驚かずに対応できました。」
「まあそうだな。晶生はもちろん、崇が再び常軌を逸した行動にでないよう見張ることが第一の目的だったんだが、結果的に崇の命を助けることになった。あいつの申し出を許可して、本当によかった。」
月曜日、もちろん一日茂はほとんど昼間の会社の戦力にならず、しかしそれはいつもと変わったことでもなかったため、おおむね誰も気に留めることはなかった。
終業ベルが鳴った後、茂は斜向かいのクソ傲慢な同期入社の同僚からの視線を感じたが、全力で無視し、一刻も早く退社すべく手元の書類をまとめて机の中に片づけていた。
「おい河合」
「・・・・・」
「河合茂、聞こえてるか?」
「・・・・き、聞こえてるけど?」
英一はその端正な顔に溢れるばかりの皮肉さを満たして、茂のほうを凝視した。
「お前、今日はいつもの三倍増しで仕事できなかったな。警護疲れか?給料泥棒はよくないよ。」
「うううううるさいなー・・・・」
立ち上がり机を離れようとして、茂は、ふと立ち止まった。
少し考えるように、視線が脇に逸れる。
「?」
不思議そうな顔をした英一のほうを、ゆっくりと、茂が視線を戻して見つめた。
「ああ、あのさ、三村。」
「・・・?」
「今日も俺、事務所へ行くけど」
「・・で?」
「何か波多野さんたちに伝えたいことがあったら、伝えるけど」
「・・・・特にないが。」
「・・・・・」
「・・・・?」
「波多野さんが、いつも三村さんには感謝してますって言ってたけど、俺も、その・・・」
「?」
「今まで何度も、お前が、高原さんや葛城さんを助けてくれたことは、知ってるから、だからさ」
「・・・・」
「だから、えっと・・・・」
英一はかすかに楽しそうな表情になり、自分も立ち上がり、茂を見返した。
「波多野さんに伝えてくれ。」
「ん?」
「・・・今日も、睡眠不足の河合のフォローで大変だったが、大森パトロール社さんへ苦情を言うつもりはないから安心してくださいって。」
「はあ」
「むしろ大森パトロールのみなさんとは同朋意識を感じてますってね。こんなボケの社員とつきあう苦労は、同じだと。」
「・・・・!」
茂は内容に異存はなかったが言い方に異議があったが具体的に抗議はしなかった。
大森パトロール社の事務所へ茂が顔を出すと、数人の警護員たちに混じって、高原も事務室で自分の机に向かっていた。
「高原さん、今日もお仕事だったんですね。」
高原は端末から顔を上げ、茂のほうを見て微笑んだ。目が充血しているのは、これは確実に寝不足のせいだと思われた。
「お前も眠そうだな、河合。」
「もしかして、今回の警護のレビュー・・・・」
「ああ、日曜日の分はできてるよ。後で共有のフォルダに入れておくから。」
「すみません・・・ありがとうございます。」
茂は恐縮して頭を下げた。
「山添さんは・・・」
「うん、今日も行ってきたけど、回復は順調だよ。まもなく退院だ。」
「よかったです。」
高原は茂がなにか言いたげなのに気がついた。
そして、メガネの奥の知的な両目でもう一度微笑んだ後、視線を天井のほうへ向け、背もたれにもたれて両手を頭の後ろで組んだ。
「・・・崇は、この先、今のちょっと抜け殻みたいな感じを脱出できるかね。お前はまたそんなふうなことを考えてるな。」
「・・・はい。」
「まあそれは、考えても仕方がないことだよ。」
「はい。」
「そういうことって、結局、本人にしかわからないことだからさ。」
「・・・そうですね。」
「わからないことって、いっぱいあるしね。解決しないことも、山のようにある。」
高原は両手を大きく伸ばした。
そして、再び茂のほうを見た。
「それでも、今日もまた、仕事をするのさ。」
「はい。」
「麦茶でも飲むか。」
「はい、俺、取ってきます。」
茂は給湯室の冷蔵庫へ向かって駆け出した。
冷えたピッチャーを取り出し、ガラスのグラスをふたつ食器棚から出しながら、茂は昨夜の高原の、山添を救護しているときの凄まじい表情の横顔を思い出していた。
そして大きく息をつき、目を二度こすり、顔を笑顔に戻して事務室内へと駆け戻った。
「ガーディアン」第七話、いかがでしたでしょうか。山添警護員と、それから阪元社長の実質的なデビュー回のような感じになりました。