Fourth Episode 風と翼の出会い
穏やかに風が吹き、精霊達が花弁と共にフワフワと浮き行く渓谷入口と違い、凄まじい勢いで豪風が吹き荒ぶ渓谷の遥か奥深く。かつて、とある一人の人間のみしか辿り着けなかったそこはある種、聖域とも呼べる未開の領域。下位精霊が遊び、動物達が生きる入口部分とは違い、上位精霊達や魔獣が存在する、風の理力の極めて濃い領域。
誰も居ない、そもそも近付こうとしないだろうその場所に、その存在は居た。
渓谷の最奥部の、そのさらに奥地。吹き荒ぶ風に耐えながら、谷を越え、川を渡り、洞窟を抜けてようやく辿り着く事が出来る、広場の様に開けた吹き抜けの空間。そこは外の暴風領域と異なり、微風すら吹かない無風空間。
酔うかと思うほどに濃厚な理力を感じさせる巨大な柱状結晶が屹立する無風状態のその空間の中央部分に当たる空中に、圧倒的な存在感を放ちながらその存在は浮いていた。
それは人の姿をしていた。
性別は女性。顔は逆卵型で、眉は細く左右対称に整い、その下の目は切れ長で見る者全てを魅了するような濃く澄み渡った翡翠色。鼻梁はすっと高く整い、唇は瑞々しく薄い桜色に色づいている。髪は長く踝まであり、その色は星の煌きを宿すかの様な瞳よりも薄く淡い翠色。
身に纏う装束は飾り気の無い白い法衣で、しかしそれは一見して薄衣の様にも見え、光に透かしてすらりとしたしなやかな白い肢体が薄らと見える。その衣は無風状態のこの空間にあって、ひとりでにゆらゆらとたなびいている。
容姿は人形や彫像を思わせるほどに極めて整っており、整い過ぎたその姿は結晶から漏れ出るような燐光に照らされ、神秘的で宗教画を思い浮かばせ、酷く人間離れして見える。
『……そう、白き翼があの子の子供達に出会う。それが始まりの調べとなるのね』
ぽつりと宙に浮いたまま虚空に向けてそう言い、顔を上に上げる女性。吹き抜けとなっているそこからは蒼い、とても蒼い空が見え――黒い巨大な影が差した。それはほんの僅かな、一瞬にも満たない刹那の時間であったが、その影が巨大な生物の物である事は容易に想像できる。
遠く、空の彼方から雷を思わせる咆哮が響く。
それを聞きながら、女性は懐かしそうに目を閉じる。すると、彼女を包むように風が流れ始めた。それは穏やかに、しかし徐々にその勢いを増しながら女性の周囲に吹く。その風から、人の身では到底扱えないような強大な理力を感じる。
『600年前、あの子がこの世界から消えてから破滅へと向かっていた時が動き出す。滅びへと加速するのか、それとも再生へと向かうのか……分からないけれど』
渦を巻く様に吹く風に髪と法衣を靡かせながら、彼女は言葉を紡ぐ。その声は何処か哀しげに聞こえた。
『鍵を握るのはあの子の血と属性を継ぐ子供達と、これから出会うだろう戦士達。願うなら、あの子が望んだ未来を彼らもまた望み、移ろわせる事を』
哀しげな響きを宿すその言葉を残し、女性は風に巻かれて消えて行った。
♦
澄み渡る蒼天の下、穏やかに流れ行く風が地面や渓谷の切り立った刃の様な岩肌に生える草木の花や葉を揺らし、さわさわと静かで涼しげな音を立てている。
その風に乗り草の匂いや、舞い散った花弁や木の葉が渓谷中を乱舞する。
視線を上げ、舞い散る花弁を透かす様に目を細めて空を見れば鳥が優雅に舞い飛び、川に向ければ水飛沫を立てて魚が跳ねる。
川を挟んだ向かい側には見上げるほどに高い崖があり、その上には揺れる草花の他に、小さく鹿だろう動物の影が数頭分見受けられる。遠目で見ても雄々しい角を持つ牡鹿が見張りとして警戒し、他の雌鹿や小鹿はのんびりと草を食んでいる様だ。
崖の高さは目測だが、おおよそ200mと言う所か。風が吹く中で、いや風が吹いていなくてもこの距離では、普通の弓で仕留めるのは難しいだろう。
「風を使えば、割と簡単に届く距離ではあるけど……此処で仕留めても、ちょっとなぁ」
川を挟んだ崖下で手に持った弓に矢を番え、しかし構えずに崖の上に居る鹿の影を見ながらヴェントは呟く。
風系の理術や精霊に頼んで風を発生させ、矢に付与すれば容易く届く距離ではある。しかし今この場所で鹿を仕留めても、崖の上に登らなければならない。それはまだいい。崖の上で仕留めたら、時間がかかってもきちんと獲物を手にする事が出来るが、(そこに辿り着くまでの間に熊か狼に奪われる可能性はあるが)下手をすればせっかく仕留めた鹿が崖下に落ち、川に落ちて流されるか、もしくは切り立った岩肌にぶつかり原形を留めないほどにズタズタになる可能性がある。
自分一人だけが食べたりするのならズタズタの状態でも別にいいが、リースが居るのでそうも言っていられない。彼女は余り気にはしないだろうが、機嫌を取る為のものでそんな状態になった獲物を持って帰りたくは無い。一番重要なのは自分が怪我をせずに獲物を狩って帰る事だが。
「惜しいなぁ……これでもうちょっと崖が低かったら良かったのに」
あまり残念そうに感じられない声でそう言い、ヴェントは番えていた矢を矢筒に戻し、弓を背負い直してさらに渓谷の奥へと歩みを進める。もっと奥の方で獲物を探す為だ。
風で髪と衣服を揺らしながら渓谷の奥へと進んで行くヴェントを、崖の上で鹿達が草や花を食みながらつぶらな黒い目でじっと見ていた。
♦
「お」
鹿の群が居た崖の下の地点から暫く進み、ヴェントは岩だらけの渓谷の道から多少開けた場所に出た。そこはちょっとした広場の様な場所になっており、流れる風で草花が揺れてさわさわと音を立てている。見晴らしはそれなりに良く、大きな動物ならすぐに見つける事が出来るだろう。
少し見回せば、草原の所々に有るあまり大きくない岩の上や影にウサギ等小動物の姿が見える。次いで空を見上げれば白い雲の他に、そのウサギたちを狙っているのだろう鳥の影が日光に重なるように見えた。
「そう言えば、三週間前に熊と戦った場所はここからもう少し進んだ所だったっけ。あの時は本気で死ぬかと思ったなぁ」
思い出す様に目を細め、自分の体の左肩から腹部にかけて指でなぞる。服に覆われている為に見る事は出来ないが、そこは熊との戦いで傷付いた場所だ。爪で切り裂かれ、抉られた傷痕は治癒理術によって既に癒されて、薄くなってはいるが未だに残っている。集落でも屈指の治癒理術師だった母に治癒理術を学び、修めた治癒理術師でも完全には癒せず、薄くだが傷痕を残してしまう程深い傷だった。
「まあ、いいけどね。傷は薄くはなっているんだし、時間が経てばその内消えるでしょ」
消えないとしても、見え辛くはなるだろうし。
そう言いながらヴェントは背負っていた弓を手に持ち、展開して弦を張り、矢を番えて狙いを定める。ヴェントの傷を癒した治癒理術師は傷を完全に癒せなかったことで落ち込んでいたが、どうやら彼は傷が残ることはあまり気にしていないらしい。
狙うのは現在自分が居る場所からはおおよそ50m程離れた場所に確認できる一羽のウサギ。距離の関係で小さく見えるが、実際の大きさはおそらく50~60cmはあるだろう。肉付きもよく、それなりに大きなウサギだ。
さらに目を細めてよく見てみれば、そこから少し離れた場所にもう一羽、同じくらいの大きさのウサギが居るのが見える。しかもそのウサギは丁度良く、ヴェントから見て一羽目のウサギの延長線上に居る。
この広場はそれなりに見通しが良く、狙う者が居ればすぐに見つかってしまうだろう空間だ。そんな場所で狩りをしようにも、見つかってすぐに逃げられるのがオチだろう。
しかしヴェントは運が良かったのか、狙っているウサギは二羽共がヴェントの方ではなく、明後日の方に顔を向けている。さらに彼が居る場所は渓谷の入り口側、風下である。人間の匂いが運ばれ、それで気付かれ逃げられる事は無いだろう。さらに姿を隠せるほどの岩もある。
(この風の感覚だと、もう少しってところかな)
岩陰に身を隠しつつ、矢が番えられた弦をキリリ……と引き絞り、風の流れを読みながら狙いを定める。風は真逆、向かい風に吹いているがあまり強くないため、矢の軌道に与える影響はおそらく少ないだろう。
息を潜め、気配を殺して獲物のウサギを狙う。
弓を構え、ウサギを見据える彼の目は普段と違い鋭く、まるで鷹や鷲と言った猛禽類を思わせる。離れている事も有り、さらに気配も消して隠れている為だろう。彼に狙われているウサギは気付いていないようで、もそもそと草を食んでいる。
弓を引き絞ったままピクリとも動かず、瞬きすらせずに待つ。流れる風が彼の髪や肌を撫で、擽る。しかしそれを感じながらも彼は動かず、ある事を待つ。
2秒、3秒と待ち、さらに7秒程待って――刹那の時、風が止まった。
瞬間、矢を放つ。直後に再び風が吹き始めるが、放たれた矢は猛烈な速度で一直線に飛び、過たずウサギの体を射貫いた。短く、しかし鋭くウサギが断末魔の悲鳴を上げる。
それを聞いて他のウサギが身の危険を察し、途端に逃げ出す。しかしヴェントは慌てずに矢を再び番え、狙いをつけていたもう一羽のウサギに向かって放った。それはまるで猛禽類が獲物に襲いかかるように飛び、再度ウサギの悲鳴が広場に響いた。
「ん、成功。三週間ぶりに射ったけど、ちゃんと射る事が出来たな」
矢を撃ち、残身を取っていたヴェントが弓を下ろしそう言う。
彼は仕留めたウサギを確保する為に歩いて近付き、世界と自分達の祖先を産み出した三神と獲物となったウサギに感謝と礼を込めた祈りを捧げ回収し、もう一羽の方に向かう。
しかし、もう一羽の場所まであと6歩と言った所で、突然過った影に目の前で掻っ攫われた。ばさりと、力強く羽ばたく音が聞こえる。
「……え?」
突然の事に、気の抜けた様な声を出す。一体何がと思い、影が飛んで行った方向に顔を向けると、矢が刺さったままのウサギを鷲掴んで飛ぶ、一羽の鳥の姿が目に入った。
「な……ちょ、ちょっと、こらーっ! 人の獲物を横取りするなんてずるいだろーっ! 返せーっ!」
暫く呆然としていたが、仕留めた獲物を横から強奪された事に気付いたヴェントが奪い取った鳥に対して怒鳴るが、ウサギを奪った鳥はそんな事知った事じゃないとばかりに彼の怒声を無視して優雅に飛んで行く。
ヴェントはそれを追い、弓矢で射落とそうとするが流石に走りながら矢を射る事は出来る訳も無く、所々で立ち止って矢を射るが鳥はひらりひらりと矢を避けながら高度を取り、見せつける様に崖の上を飛んで彼の視界から遠のいて行った。
「くっそぉ、迂闊だった。まさか目の前で奪われるなんて……」
獲物を奪った鳥が飛んで行った方向を見ながら、心底悔しそうに唸る。
自らが仕留めた獲物をあと少しで手にできたと言うのに、目の前であっという間も無く奪い去られたのだ。その悔しさは中々のものだろう。
「はぁ……気でも抜けてたのかな。今度からは取られない様に気をつけよう」
溜息を一つ吐き、ヴェントは短刀で仕留めたウサギの首を切り、血抜きをしてから布袋に詰めさらに渓谷の奥地へと進んで行く。
渓谷の奥地に向かい、岩だらけの道なき道を進むヴェント。彼が仕留めた獲物は未だにウサギが一羽のみである。
流石にウサギが一羽だけではリースの機嫌を取る事は出来ないので、彼はより大きな獲物を探し歩いていた。
「お……居た」
探し歩いて普段あまり来ないような奥地に進み、ようやく獲物を見つけたか、ある方向を見てヴェントは歩みを止める。その視線の先には、鹿の姿がある。渓谷の入り口から少し進んだ地点で見た様な数頭の集団ではなく、一頭の牡鹿の他に十数頭の雌鹿、子鹿の姿が確認できる、大きな群れだ。
距離は約120m。地形はヴェントが居る場所が鹿の群が居る場所よりも6mほど高くなっており、身を隠すのに丁度いい大きさの岩が複数ある。風の流れは追い風でも向かい風でも無く、彼から見て右手側から吹いている。風上ではない為、匂いを運ばれて気付かれる事は無いだろうが風の勢いはそれなりに強く、普通に矢を射っても軌道を変えられてしまうだろう。
しかし彼はそれを気にした風もなく、見張りの牡鹿に見つからないように岩陰に身を隠し、矢を抜いて弓に番える。先程よりも距離があるため、より強く弦を引き絞り、揺れる腕に力を込めて揺れを抑え、狙いを定める。風の影響も考えて、矢を放つ方向は獲物である鹿から少々右寄りにずらしている。ギリ……と弓が軋む。
「……シッ」
矢を放つ。風上の方向に向けて放たれたそれは風の影響を受け、真っ直ぐではなく弧を描くように飛び、やや狙いを外して一頭の雌鹿の後脚に深々と突き刺さった。矢が刺さった鹿が悲鳴を上げる。
それを聞き、危険を察知した他の鹿が逃げ出す。矢が刺さった雌鹿も逃げようとするが、刺さった場所が悪かったのか、他の鹿のように素早く移動できない。ヴェントはその雌鹿を狙い、岩陰から身を出してさらに矢を射かけ、追いかける。
放たれる矢は脚や胴体に突き刺さり、鹿の動きを鈍らせる。鹿は傷口から血を流しながら、それでもなんとかヴェントから逃げようとする。
痛みの所為か、ひょこひょこと歩くように逃げようとする雌鹿。しかしその動きは目に見えて鈍くなっており、もはや走らなくても追いつけるほどだ。おそらくもう一射か二射で、その命を奪うことはできるだろう。
あまり苦しませるのも何だと思い、ヴェントは近づき、鹿に弓を向ける。狙いは確実に仕留めることができる頭だ。鹿も逃げきれないと悟ったか、動きを止めてヴェントの方にその黒い眼を向ける。つぶらな、愛らしい目だ。
その眼差しに、ほんの僅かに罪悪感を抱きながらヴェントは弓を引き、矢を放とうとして――
風を感じた。今までに感じたことのないような、花の香りを孕んだ風を。
「え……?」
呆けた様な声を出し、矢を放ってしまうヴェント。それは狙いを外さずに鹿の頭を貫き、その命を奪い去る。しかしその衝撃で鹿の身体はぐらりと傾き、後ろに隠れていた崖の下に落ちて行ってしまった。
「あ、あーっ!?」
落ちて行く鹿の姿を見て、大声を上げるヴェント。どうやら鹿の後に崖があることに気付いていなかったらしい。
思わず身を乗り出して崖下を見ると、横たわる鹿の姿が目に入った。高さはおよそ9mから10mと言ったところか、運よくあまり高低差はない場所だったらしい。
何十mも降りなくて良かったことにほっと息を吐き、彼は弓を背に戻し、脚を踏み外さないように気をつけながら崖を降りて行く。思ったよりもごつごつとした岩肌なので足場等には十分できる。
数分後、彼は傷一つなく崖下に降り立った。少し離れた場所に、仕留めた鹿が横たわっている。落下した衝撃の為か、刺さった矢は全て真中から折れている。
これでは回収してももう使えないため、新しく矢を作らなければならない。それを若干面倒に思いながらヴェントは鹿に近寄り、ウサギにしたのと同じ様に祈りを捧げて鞘から短刀を引き抜き、鹿の首に刃を当てる。そして刃を引き、首を切って血を抜こうとしてその動きを止めた。吹いて来た風が、匂いを運んできたからだ。
草花や水の匂いに混じって風に運ばれて来たそれは――
「……血の匂い?」
風に運ばれ、ほんの僅かに香って来た鉄錆臭い匂いに顔を上げる。短刀の刃に付着した、先のウサギの血とはまた違う匂いだ。
この渓谷には、今日は幸いにしてまだ会っていないが熊や狼と言った肉食動物が、生息数は少ないものの存在している。その為、血の匂いがする事自体は別段可笑しい事ではなく、気にする程の事でも無い。
しかし彼は、何故かその匂いが気になり、鹿を岩陰に隠し、短刀を鞘に納めて血の匂いが流れて来る方向に足を向けた。
風の流れと血の匂いを辿り、ヴェントは道なき道を進む。急ぐ必要は無い筈なのに、何故か駆け足で彼は進む。
「可笑しいな。急ぐ必要なんてない筈なのに、なんで僕は駆け足で進んでるんだろう?」
自分で自分の行動を疑問に思いながら、しかし速度は緩めず、寧ろ加速して匂いが流れてくる方へと進む。匂いを気にせず、鹿を集落に持って帰るという選択肢は頭に無いようだ。
岩壁に挟まれ、草が生い茂る道とは言えない様な狭い道を暫く進むと、道が左右二手に分かれていた。右の道は緩やかな上りで、左の道は急な下りだ。どちらからも、風が流れて来ている。
「……こっちか?」
別れ道を前に、どちらの道に進むか少しの間悩む。しかしそれも僅かな時間で、彼はすぐに左の急な下り道に進んだ。
すると道に入った直後に、先程よりも強い風がまるでヴェントの背を押すかのように吹き始めた。
「うわっとと! な、何だ急に?」
急に吹いた強い風にバランスを崩し、転びそうになるが何とか堪える。急な下りであるこの坂道で転べば、間違いなく下まで転がり落ちてしまうだろう。早くに着くかも知れないが、まず間違いなく大怪我をする。流石にそれは遠慮したい。
しかしぐいぐいと、風はヴェントを押す様に彼の背中に吹き付ける。感じる力の感覚からどうも精霊が風を起こしているらしいが、何故こんな強引に進ませようとするのだろうか。
「あ、危ない、危ないって! 進むから押さないでよ!」
疑問に思うが風の圧力には敵わず、文句を言いながらもヴェントは道を下り始めた。
♦
転がり落ちない様に慎重に、しかし出来る限り早く道を降りて行くヴェント。その速度は風の影響もあってか、慎重に降りている筈なのにまるで走っているかの様に早い。ほどなくして彼は道の終点、谷底に着いた。灰色の岩肌とは打って変わった、色鮮やかな青灰色の岩肌に水が流れる音が響く。
「こんな所があったんだ。知らなかったなぁ……」
初めて来る場所の景色にヴェントは溜息を吐く。谷底の為、日の光は余り差さずに薄暗い。植物も、先程居た場所に比べて少ない。
だが此処に来る原因となった血の匂いは、先程よりも濃くなり、ハッキリそれだと分かる程になっている。
「……ん?」
警戒しながら周囲を見回していると、視界に白いモノが入った。岩陰から僅かにしか出ていないが、薄暗いこの空間でそれはまるで輝いているかのように酷く目立つ。どう考えても、自然の物ではない。
一体何かと思い、弓を手に音を立てない様に慎重に、かつゆっくりとそれに近付く。同時に、近付くにつれて白いモノの形がハッキリと見える様になる。
それは一見して、鳥の羽の様に見えた。白鳥の翼の様な白い、処女雪の様に白い羽だ。しかしその大きさは白鳥と言うには、いや鳥類と言うには余りに大きい。
魔獣か何かかと思い、ヴェントは警戒心を最大に引き上げ、しかし極力気配を殺して静かに近付いて行く。もし魔獣なら、この場で仕留めておかなければ集落に危険が及ぶ可能性が出てくる。
近付くヴェントに対し、羽の主は動かない。近付くヴェントに気付いていないのか、あるいは気付いていて取るに足らないと舐め切っているのか。
出来れば気付いていないといいなと思いながら、ゆっくりと近付く。気付かれていなければ、仕留められる確率が飛躍的に上昇するからだ。
ある程度まで近付き、ヴェントは岩陰に身を潜める。そしてゆっくりと呼吸を落ち着け、そっと顔を覗かせて――絶句した。
「なっ……」
まず目に入ったのは、輝く様な白い右翼。多少薄汚れているが、それでも十分に美しいと言える白い翼だった。その翼は汚れてはいるが、それでも元は白だと分かる衣装に覆われた滑らかな肌に繋がっている。しかしその衣装は、左翼と銀色に輝く長い髪ともども、ぐっしょりと赤く濡れている。
次いで目に入ったのは赤と黒。赤は白に滲んで、所々で薄紅色になっている部分がある。また、何処からか滴っているようで、ぴちゃり、ぴちゃりと液体が跳ねる音がする。その赤からは、生臭い、鉄錆臭い匂いがする。血だ。
黒はおそらく土か泥、もしくは木の枝だろう。血を吸っているのか、それからも生臭い鉄錆の匂いがする。
其処には、血と土に汚れたドレスを身に纏った、翼ある一人の少女が力無く横たわっていた。
「有翼人? 何でこんな所に……って、そんな事言ってる場合じゃない!」
思わず飛び出し、少女に近付き声をかける。
「君、しっかりして! 起きないと危険だよ!」
頬を軽く叩き、意識を覚まさせようとする。しかし少女は反応せず、ぐったりとしたままだ。
それに焦り、ヴェントは少女の呼吸と容体を確認するため、口元に手をやり、体を見る。
(まだ息はあるけど、浅い。他にも矢傷が幾つかと、骨も何本か折れてるみたいだ。それにこれは……クリルの毒!? 猛毒じゃないか、こんなの喰らって何で生きていられるんだ、この子!?)
矢が刺さった部位の状態を見て、ヴェントは息を呑むと同時に驚きに目を見開いた。
クリルの毒とは、深い森の奥地に自生しているクリルと言う植物の根や花から抽出される毒である。その効果は強力で、鏃にほんの一滴垂らした矢が掠るだけで毒に耐性のあるユニコーンすら麻痺させ動けなくする程だ。人間が体内に取り込んだら、ほぼ間違いなく死ぬ。運良く一命を取り留めても、一生を意識が無いまま寝て過ごさなければならなくなる。
しかしこの少女は、危険な状態ではあるが矢二本に付けられたクリルの毒を喰らってまだ生きている。どれだけの生命力があるのか、想像も出来ない。
(とにかく止血と、毒を少しでも薄めないと……)
見れば少女の顔色は真っ青を通り越して土気色で、さらに唇は濃い紫に変色していた。危険な状態である。
一刻の猶予も無い、そう判断したヴェントは内心で謝りながら、水筒の水で口と傷口を洗い、ある程度の毒を吸い出した後、念の為に持ってきていた紐で傷の周辺をきつく縛って止血した。
「何か妙な感じはしてたけど、まさか、こんな出会いがあるなんてね……お願いだから、保っておくれよ」
そう言って、彼は弓と、少女の持ち物だろう細剣を回収した後すぐに少女を抱き上げ、出来るだけ揺らさない様に、しかし大急ぎで集落に戻る為に来た道を戻って行った。