物語は開幕する
天の国より王女は堕ち、そして物語は始まりを迎える。
――始まりはいつ終わったのだろうか。
終わりはいつ始まったのだろうか。
運命とはいったい何なのだろうか。
自分はいったい何者なのだろうか。
誰もが一度は必ず抱く、存在としての数々の疑問。
しかし流れ、移ろいゆく時と世界の中で、答えの無いその問いを解に導く言葉を与えられる者は、現在にも、忘れ去られた古の昔にも、もはや唯一人として存在しない。
だが確かに、かつての時代を彼等は生き、世界に暮らしていた。
太陽や月に祈りを捧げ、水や植物、風、大地、火……自然に感謝を示して。
笑い、喜び、時に怒り、時に涙し、そして時に愛を語らい、時に剣を向け、争い……何かを疑い、全てを憎み、正義を翳して誰かを傷付け、しかし傷付けられ、大切な人を、大事な物を失いながら。
しかしそれでも、彼等は世界を駆けていた。声を張り上げ、遥か暁の空の彼方に届く様に、その声と感情を乗せて……風の様に。
♦
金と銀、二つの月が寄り添う様に夜天に浮かび、天鵞絨の様に艶やかな夜の闇を、様々な色に煌く数多の星が散りばめられた宝石の様に彩る。
静かに、全てを包み込む宵闇。時折風が吹く音が聞こえるが、音はそれだけだ。
全てが静寂と深い蒼がかった黒に沈んでいる中、異なる色彩のモノが浮かんでいた。
それは島だった。大小様々な幾つもの島が、どう言う原理か空中に浮いている。その上には山や森、湖、町等が存在している。その中で、一際大きな浮島の上に城が建っていた。
無数の尖塔とテラスを持つ白亜の巨大な城が浮島に立ち、月明かりと星の煌きを受けて夜の闇の中に静かに浮かんでいる。
城の下部には広大な庭園が広がり、そこには庭木や花の他、等間隔に白い柱が立ち並び、通路を作っていた。それらもまた、月光に照らされ冷たく蒼白く輝いている。
♦
城の中、月明かりに照らされ、闇に沈んだ通路の中に白く輝く無数の柱が浮かぶ。
磨かれ、滑らかな光沢を出しているそれらは白大理石で作られており、月光を受けて白銀に輝くそれは、ぼんやりと自ら発光している様にも見える。それはとても幻想的で、美しい。
その通路に、カツカツと硬質な音が響く。短い間隔で一定のリズムを持って通路に響くそれは、何かが、あるいは誰かが走っている事を示す。
カツンッ
床を蹴る硬質な音が響く。
闇に沈んだ通路の奥から、その音を響かせていた存在が月明かりによって闇から照らし出された。
少女だった。
年の頃は17歳と言った所か。鼻梁はすっと高く、唇は仄かに桜色。銀の眉は細くきりっとしており、大きな目は最上の緑柱石を磨き上げたように鮮やかに澄んだ翠色。
笑みを浮かべればその可憐さで誰しもが見惚れるだろう。10人中10人全員が認める美少女だ。
すらりとした細身の体には胸元にレースで装飾がふんだんにあしらわれた、背中が大きく開いた純白のドレスを纏い、腰まである長い銀の髪を月光で白金に輝かせている。
膝上まである白いブーツを履き、花を象った護拳を持つ流麗な装飾の施された細剣を細い革製のベルトで腰に着けた少女がドレスの裾を持ち上げ、息を切らせて城の通路を走っている。
彼女は時折振り返り、何かを確認しながら通路を進む。その目つきは鋭く、険しい。そしてその顔は、焦りに彩られている。
誰も居ない、人の気配が微塵も感じられない白く、闇に沈んだ長い通路を少女は駆け抜ける。
その少女から少しの間を開け、白い通路を複数の黒い影がするすると滑るように進んで行く。
その速度は歩いている様には見えず、少女が進んだ道を追う様に進んでいる。
影の様にも見えるそれらが纏う衣装は全て、黒。
少女の服の様に華麗な装飾は何処にも施されておらず、闇よりも深い黒い布で、頭を含めた全身を覆っている。
しかし、速い。
大きな黒い布で全身を覆っていながら、しかし黒装束達は動きを阻害された様子もなく、するすると音もなく通路を進み、銀髪の少女を追っていた。
その黒い衣装の間には、月明かりを反射した煌きが僅かに見える。
しかしその煌きは、金や銀と言った装飾品の様な煌びやかな物ではなく、むしろ剣やナイフと言った物を想像させる、鋭く冷たい鋼色。
暗殺者。
黒で身を覆うそれらは、そう呼ばれる者達だった。
「くっ! 騎士達は一体何をしているのですか……!」
それらを背後に確認しながら、少女は走る。
武器はあるが、相手が多い。しかもあの恰好で衣擦れの音一つ立てずに自分を追って来ているのだ、おそらくかなりの手練だろう。
加えて、いつも居る筈の騎士達が見当たらない。
眠らされているのか、それとも……。
そんな事を考えながら、少女は通路を駆け、橋の様な場所に出た。
二つの月が夜天に輝き、その周囲には白虹が月を囲むように二重の円環を描いている。
少女は息を切らせながら、橋の中央まで行った。
「っ!」
息を飲み、脚を止める。
進もうとしていた橋の向こうには、少女を追って来ている暗殺者達と同じ姿の者達が居た。それらは音も無く、ゆっくりと距離を詰めて来ている。
数歩後退りし、来た道を戻ろうと身を翻す。しかし先程の暗殺者達が道を塞ぐようにおり、同じ様にゆっくりと距離を詰めていた。
挟み撃ちにされた。
「貴方達、一体誰に頼まれてこんな事を……私が誰か、分かっているのですか!?」
「……」
「答えなさい、下郎!!」
橋の中央で挟み撃ちされ、身動きできなくなった少女は、しゃらん……と涼やかな音を立てて細剣を鞘から引き抜き、構えて暗殺者達に問い詰める。
しかし暗殺者達は何も言わず、ゆっくりと距離を詰めるだけだ。それは獲物を恐怖に落とし、嬲る獣の様にも見えた。
暗殺者達は、もはや隠す必要も無いとばかりに纏っている黒い布の下から各々の獲物――ナイフやダガー等を出し、これ見よがしに構えていた。
艶消しはされていないようで、月光を反射し、鋼が鋭く、冷たく輝く。
そして僅かに身を屈め――弾ける様に飛び出した。
目標は、橋の中央に居る哀れな獲物である少女。細剣を持っているが、細く頼りないその刀身では肉厚の刃を受けた直後に砕け、容易くその身を斬り裂かれて少女は自身の血に沈むだろう。
そう、暗殺者達は想像していた。
「……この、無礼者」
しかし、その想像は霧散した。
鈴を転がす様に静かな、涼やかな印象を抱かせる声を耳に認識した瞬間、彼等は少女の姿を見失った。
目の前から忽然と消え失せた少女の姿を探して、暗殺者達は橋の上を見渡す。
しかし少女の姿は、橋の何処にも見られない。
ひらり
動く物の気配を感じ、彼等は一斉にそちらを向く。
羽があった。
ひとひらの柔らかそうな、白い鳥の羽が月の光を受け、銀色に染まりながら宙を漂い、橋の上に音も無く落ちた。
そして――
「水晶の薔薇!」
頭上から声が響いた。
彼等はそれを聞くと、瞬時にそこから離れようとする。
だが数人が飛び離れた直後、水晶でできた巨大な薔薇が出現し、残っていた暗殺者達を棘で貫き、花弁で切り刻んだ。闇夜に鮮血が舞う。
「ぐぅっ!」
「がっ!」
「うあっ!」
突然の奇襲に、数名の暗殺者が傷を負い、くぐもった悲鳴を上げた。
負傷した仲間達を放って、攻撃を回避した暗殺者達は追撃を警戒しながら声が聞こえた方――頭上を見上げる。
金と銀、二つの月を背に、追い詰めていた少女が空中に浮いていた。しかし、大きく露出していたその背からは、つい先程までは無かった筈の物が――白鳥を思わせる一対の、純白の翼が広がっていた。
有翼人。
遥か古、創造神アルトルーネと破壊神ラルハザードとの間に生まれた種族の一つである亜人種で、親たる二神が眠りに就いた後、己が住処を天空と定め、昇って行った翼持つ者達だ。
少女を含めたこの国に住む一族は、そう呼ばれるものだった。
大きく翼を広げ空に浮かび、月に照らし出された少女のその姿は、ドレス姿も相まって非常に神秘的で、まるで神話に聞く天使の様にも、女神の様にも見えた。
手に握る細剣が銀桜色に煌き、同時に甘い、芳しい匂いが漂って来る。花の香りだ。
「何処の手の者達かは存じませんが、私を殺そうと言うのなら……貴方達、この城から誰一人として無事に帰る事は出来ないと覚悟なさい!」
言って、少女は細剣をドレスに隠された、慎ましやかな自分の胸の前に掲げた。剣を包む桜色の輝きが強くなる。
風によって、長い銀髪とドレスが翻る。
「刃たる桜吹雪!」
叫ぶ様にそう言い、少女は剣の切っ先を橋の上に居る暗殺者達に向けた。
途端、銀に輝く花弁を纏った強風が暗殺者達に吹き付けた。
それは少女が言った様に、花弁の一枚一枚が鋭い刃である嵐。
それらはやや拡散しながら、しかし一直線に少女の命を狙った暗殺者達へと向かう。
暗殺者達も黙ってそれを受けようとはせず、避けようとするが――避けきれず、切り刻まれた。
くぐもった悲鳴が響き渡り、黒い衣装の欠片が舞い散る。
一人の顔が見えた。
「っ!?」
それを認識し、少女は翠玉の目を大きく見開き、息を呑んだ。
心の動揺に呼応してか、銀色の花吹雪が霞と消える。
「そ、そんな……何故……貴方が何故、私を……!?」
「……」
悲鳴の様な声を、顔の見えている暗殺者に少女は投げかける。しかしその相手は何も喋らず、ゆらりと立ち上がり武器を構える。
少女の意識は、顔を晒されたその相手に釘付けだ。そしてそこを、さらに隠れていた者に狙われた。
ヒュドッ
「っ! ぁ……!?」
驚愕の為か、飛んできた矢に気付くのが遅れた。
それは少女の右肩に突き刺さり、血を散らした。
そして傷口から広がる様に感じる、体の痺れと灼熱感。
「こ……これは……」
急に感じた体の違和感に、少女は焦る。
間違いなく、これは毒の症状だろう。それも、ある程度の耐毒を持つ自分に効く程度には強力な。
痺れを感じ始めたのはこの矢が刺さった直後すぐ。効き目の早さから、即効性の物だと分かる。
不味い、と少女は思った。
現在自分が居るのは橋からも離れた空中だ。このまま居れば、動けなくなり落下してしまう。下に地面は当然ながら、無い。
焦り、少女はその場から離れ足場に降り立とうとする。しかしそれを阻むように、幾つもの矢が飛来する。
慌てて回避するが、毒の所為で動きが鈍り、何本かが少女の体を掠り、刺さる。
白いドレスが、彼女の血で真紅に染まる。
「くっ、ぁうっ!」
襲い来る矢を、フラフラしながら何とか避ける。
しかしその動きの所為で体力と血を失い、毒はさらに体に回り、少女の体を動けなくする。
ドッ
「ぁっ……!?」
動きが鈍り、避けきれなくなった少女の左翼を、矢が貫いた。
赤い雫と白い羽が夜空に散った。
「っ、きゃぁあああああああああああああっ!!」
尾を引く悲鳴を残し、少女は天空の王国から堕ちて行った。
それを何の感情も無く見つめ、暗殺者達は夜の闇に溶ける様に消えて行った。
二つの月が、燦然と輝いている。
♦
翼と体から血を流しながら、少女は地上へと真っ逆さまに落下していた。
月明かりはあるが夜の闇が濃いせいで地上は見えず、さらに遮るものが無いため、落下速度を上げながら少女は地上へと落ちて行く。
毒の影響もあり、体はほぼ動かない。辛うじて口が少し動かせるくらいだ。このままでは、彼女は地面に叩き付けられ、潰れた果物の様になって死んでしまうだろう。
(そんなことは……私はまだ、死ぬ訳には……!)
その未来を回避するため、なんとか翼を動かし、少しでも落下速度を緩めようと足掻く。
しかし血を流し、毒を撃ち込まれ、さらに左翼を矢で貫かれているので翼は動かず、速度を緩めることはできなかった。
このままでは間違いなく死んでしまう。そう思った彼女は、なんとか動く口を使ってぶつぶつと何かを呟き始めた。
それが始まると同時に、剣を覆った物と同じ桜色の光が彼女の体を包み込み、その周囲に急に風が吹き荒れ始めた。
その風は徐々に強くなり、彼女の落下速度を、ほんの僅かずつだが緩め始める。これを維持すれば、地上に至るまでには何とか大丈夫な速度に落ち着くだろう。不安は残るが、最悪、死にはすまい。
しかし、
(あ、ダメ……意識が、朦朧として……)
しかし、彼女はそれまでに血を流し過ぎていた。
意識が薄れ、桜色の光が弱くなる。同時に風も、光に対応するように少しずつ、だが確実に弱まっていた。
そして5分後、彼女は意識を失い、体を覆っていた光も消えて落下していった。
だが、彼女が地上に叩き付けられ、死ぬ事は無かった。
落ちて行く途中で、夜の闇に溶けるような、漆黒の体をした何かが意識を失った彼女を背に乗せ、助けたからだ。
それは一声高く咆哮し、彼女を乗せて西の方角へと飛んで行った。