Eighth episode 翼の目醒め
サラサラと、渓谷から流れ出た風に撫でられた草原が涼やかな音を立てる。
泥の様に眠り、深い闇の底に沈んでいた意識がゆっくりと、しかし確実に浮上し、少女はその意識を覚醒させた。
閉じられた瞼が開かれ、美しい翠玉の瞳が露わになる。
「……ぁ……」
目が覚めると、まず視界に入ったのは天井だった。窓から差し込む陽の光の影響で、天井に使われている木の板の木目が薄い黄色に浮かび上がっている。
陽の向きと空気の冷たさから時間帯を予想するに、おそらく銀光の二刻頃だろう。肌に感じる布の感触から、自分はベッドに居るらしい。しかし、いつも寝ている寝床に比べて堅く、シーツの肌触りも荒い。
此処は何処だろうかと、少女は思った。
「おや、目が覚めたのですか。お早うございます、なのですよ」
考える事は出来るが、未だ完全に覚醒しているとは言い難い意識でぼんやりと天井を眺めていると、ドアが開く音がし、若草の匂いと共に女性の声が耳に届いた。
ゆっくりとした動作で目を向けると、其処には女性が一人立っていた。ふわふわと触り心地の良さそうな薄い緑色の髪を腰まで伸ばし、手には桶と手拭を持っている。水が入っているのだろう、桶からはちゃぷちゃぷと水の音がする。
女性は少女の視線を気にせず扉を閉めると、小さなテーブルに水の入った桶と手拭を置いてから少女の寝ているベッドを通り過ぎ、換気の為に窓を開けて室内に風を招き入れる。
すぐに風が入り込み、部屋に籠った空気と匂いを浚って行く。その風で、女性の薄緑の髪と少女の青みがかった銀の髪が揺れ、サラサラと靡く。その風を感じ、目を細めた女性は指に僅かに理力を込めて立て、顔の横でクルクルと二、三度廻した。
少女は暫しの間ぼんやりと女性を見ていたが、すぐに顔を強張らせてベッドから飛び起きようとし、しかし出来なかった。起きようとした瞬間、体中の筋が張った様な痛みが全身に走ったからだ。
「ふ……くぅっ……!」
「急に見知らぬ場所で目覚めて警戒する気持ちは分かるのですが、今はじっとしている事をお勧めするのですよ。貴女はこの一ヶ月、ずっと眠っていたのです。薬や理術の影響もあって全身の筋肉が衰えに衰えて、満足に動く事もままならない筈なのです」
苦痛に呻き、端正な顔を顰める少女に女性はそう言い、壊れ物でも触るかのように優しい手で少女に触る。すると女性が触った部分から、痛みを和らげる何かが全身に広がる様な感じを少女は感じた。同時に、少女の体を蝕んでいた激痛が、波が引く様に消えていく。
女性が少女に使ったのは、傷を癒すのではなく、治癒の方向性に染まった理力を対象に流し、痛みを抑える程度の治癒理術だ。治癒に属する理術の中でも取分けて簡単な物で、ほぼ誰でも使う事の出来る治癒理術である。他者を癒す事を専門としている治癒理術師達にとっては基礎の基礎ともなる理術だ。
女性が使ったのもその術だが、しかし錬度が半端ではなく高い。少女が感じた痛みは、並の術師が抑えようとしても、完全に抑えるには暫しの時間が必要なレベルの痛みだった。それをこの女性は僅かに触れた部分から、理奏すら省いて流した理力のみで完全に抑え込んでしまった。それだけで、この女性の治癒理術の腕前がかなりの物だと推察できる。
基礎の基礎にあたる術とは、その錬度によって術者の力量を計る目安にもなるのだ。
「傷は癒えているとはいえ、一ヶ月眠り続けて、さらに毒に侵されて衰えた筋力と体力はそう簡単には戻らないのです。無理に動かそうとすれば、今みたいに体に激痛が走るのです。戻す為には相応のリハビリが必要になるのですよ」
「……眠って……? 私は、一ヶ月も……?」
「事実なのです。ついでに言えば渓谷の奥地で、瀕死の状態で貴女は発見されたのです。しかし誰かは知りませんが、余程貴女を始末したかったのですね。猛毒中の猛毒と言っても過言ではない、高純度のクリルを使われていたのですから。まぁ、耐毒体質と属性のおかげとは言え、それに耐えきった貴女も大概ですが」
言いながら女性は桶の水に手拭を浸し、絞って水気を飛ばす。そして少女の体をそっと抱き起こし、陶器のように滑らかな肌を優しく拭う。
少女はそれに抵抗せず、為すがまま拭われていく。その作業を続けながら女性は言う。
「ヴェント君が血の臭いを感じて渓谷の奥地に行かなければ、間違いなく貴女は死んで、獣の餌になっていたと思うのですよ。それだけ貴女は危険な状態だったのです。彼に感謝するのです」
「ヴェン、ト……?」
「渓谷で貴女を見つけ、ここまで連れて来た男の子の名前なのです。呼んでおいたので、来たらお礼を言っておくと良いのです。彼のおかげで貴女は今ここで、こうして生きているのですから」
そう言って女性は少女の羽にも触れる。純白の大きな翼の内、左翼には包帯が巻かれている。傷は既に癒しているが、念のためにと巻いている物だ。治癒理術とは言え万能ではないのだ。
触られている左翼に少々の擽ったさを感じながら、少女はふと気付いた事をイリーナに聞いた。
「あの……ここは一体、何処なのでしょうか……?」
「……ああ、そう言えば言ってませんでしたか」
水差しからコップに水を入れつつ、女性は少女の言葉に少し考え、その答えになる言葉を返した。
「此処はエレヴォス大陸の西にあるアネモーイ渓谷、その近くにある風の一族の集落なのです。多くの風読み士が風の精霊と共に在る、風の始まりを告げる場所なのです」
♦
集落の中、ヴェントとリースは連れ立って歩いていた。兄妹仲良く並んで歩くその様子は、二人が家族だと言う事を知らない者が見たら恋人同士か何かと勘違いしてしまうくらいに仲良さ気だった。
二人の目的地はヴェントが渓谷奥地で助けた少女を治療の為に預けた、小高い丘の上に建っているイリーナの住居兼診療所である。向かっている理由は、「ヴェントが助けた少女が目を覚ました」と、イリーナに呼ばれたからだ。
風を感じながら、二人は並んで道を歩く。その手には香ばしい匂いを放つパンが幾つか入れられた籠と、イリーナが調合する薬の材料となる花や薬草が大量に詰め込まれた大きな籠がある。青、緑、赤、桃色と色とりどり(とても薬の材料になるとは思えない毒々しい色の物も有る)のそれらは、全て少女を助けてからの一ヶ月の内に渓谷で採取したものだ。
ちなみに、多量の薬草類が入れられた大きな籠を持っているのはヴェントで、パンの入れられた軽い籠を持っているのはリースである。集落で採れた小麦を使った、リースの手作りパンだ。
彼女の側には、いつもの様に風の精霊がふよふよと浮いて着いて来ている。
『イ―ニオイ』『パン?』『オイシソ―』『ヤキタテ?』『フワフワ?』
クルクルとリースの周囲を廻りながら、籠の中のパンに近付いて楽しげに言う。
愛し子であるリースにいつもと言って良い程ひっついている彼らだが、今日は彼女が持つパンの匂いに浮足立っているようだ。
「はい、今朝焼いたばかりのパンです。新しい小麦を使ったからでしょうか、いい具合に焼けたんです。……ああっ、ダメですよ!」
精霊達と同じく楽しげに言ったリースだが、彼等がパンに近付き、つつこうとすると片手を上げて彼等を止めた。止められた精霊達はふよふよと浮きながら、どうして止めるのだろうと不思議そうな眼差しでリースを見る。
きょとん、とした眼差しで自身を見てくる精霊達に、リースは人差し指を立てて注意する。
「ダメですよ、皆。このパンはイリーナさんに渡す物なんですから。つついたりしちゃ、メ、ですよ?」
『メ?』『メ―、ナノ?』『パン』『オイシソ―』『メ―?』
「美味しそうでもダメです。帰ったら軽いお菓子でも焼いて上げますから、我慢してください」
『オカシ?』『カシ?』『カシ―?』『ヤキガシ?』『ヤキ?』
「はい。ですから、パンは我慢してください」
『ワカッタ―』『スル―』『ガマンスルー』『スルノ―』『ル―』
パンの代わりに菓子を焼くとのリースの言葉に、精霊達は口々に我慢すると言いながら彼女の周囲をクルクル回る。歩きながらなのでリースが持つパンに当たりそうになる精霊も居るが、あくまで当たりそうになるだけで直接接接触はしていない。
自分の周囲をフワフワと、クルクルと回る風の精霊達に微笑みを向けながら、リースはヴェントの横でハミングしながらイリーナの家へと歩く。
そんなリース達を見て、ヴェントもまた笑みを浮かべた。
「? 兄様、どうしました? 急に笑って……」
「いや、歌に合わせて精霊達が踊る様に動くからね。リースの言う事も良く聞くし。いつもの事だけれど、本当に仲が良いな、と」
「え……、そうなんですか?」
「そうだよ。まあ、リースは歌う時は基本的に目を閉じて歌うから、精霊達がどんな風に動いているのか見えなくても可笑しくないんだけどね」
妹の疑問に、ヴェントは微笑んだ理由を言った。
癖の様な物なのか、集中するためなのか、それともまったく別の理由からなのかは分からないが、リースはヴェントが言った様に、歌う時に目を閉じる事が多い。そのため、周囲を自分の目で確認することが無いのだ。
気配や風を読めば周辺に誰が、あるいは何が居り、どの様な行動を取っているかは簡単に読み取れるだろうが、ヴェントが知る今までの中で、そう言った事をリースがした事は一度もない。ただ目を瞑り、吹き行く風のみを肌で感じて歌うだけだった。
だからと言って、目を開けて歌うように言う事も、風で周囲の様子などを感じ取りながら歌うように言う事もしない。別に目を瞑ろうが瞑るまいが、誰に迷惑を掛けると言う事でもないのだ。それで本人が歌い易いと感じているのなら、それで良いだろうと、ヴェントはそう思っていた。
だが、リース本人はそうでもないらしい。自分が歌う時の行動や癖を、兄にとは言え教えられた事で彼女は若干だが恥ずかしそうに頬を薄く染めていた。
「……少し、恥ずかしいです」
「別に恥ずかしがる事でもないだろう? 人それぞれだし、むしろリースと同じような人は多いと思うけど」
「そうだとしても、私にとっては恥ずかしいんです!」
そこまで恥ずかしがる様な事だろうか。リースの感情にそんな疑問を持ったヴェントが問うが、リースはやや強い口調で兄に対してそう言った。その頬は、恥ずかしいと言っている事を表す様に先程よりも赤く染まっている。
その顔を見られない様にする為か、リースはパンの入った籠を抱えたまま小走りでヴェントよりも前に進んで彼から離れた。
『イジメル?』『リース、イジメル?』『メー、ナノ』『ヴェント、メー』『メー』
妹の様子に若干首をかしげていたヴェントだが、すぐに意識を戻した。見れば、リースの周囲を浮遊していた精霊達がヴェントに対して軽い威嚇のような物をしている。やや強い向い風が、ヴェントに対して吹いてくる。
――マズイ。精霊達の様子を見て、ヴェントはそう思った。
風の精霊達は愛し子であるリースに対し、無条件でその力を貸す。それ以外にも、独自の判断で害意や攻撃などからも彼女を守ろうともする。
どうやって守るのか、とも思うだろう。簡単だ。単純に、風で敵対者や加害者を吹き飛ばす。それだけである。事実、リースに対して何か害を為そうとした、或いは害を為すと精霊達に判断された者は皆、死者や怪我人は出ていないものの強風で吹き飛ばされているのだ。そしてそれは、リースの実の兄であるヴェントに対しても平等に揮われる。風の精霊達にとって、第一に優先するのは愛し子であるリースだからだ。
「ちょ、待った! 苛めてない、苛めてないから! て言うか、僕がリースを苛める訳がないから! だから風を強くしないで! 薬草が飛んで行っちゃうから!」
普段ならともかく、今はイリーナに渡す薬草を運んでいるのだ。吹き飛ばされれば、薬草を再び集めなければならなくなる。そのような事は御免である。
そう思ったヴェントは、精霊達に説明しながらリースの後を追い、イリーナの診療所に向かって行った。