9. アイギスの静寂とゼクスの焦燥
第14浮遊要塞、通称「アイギス」
高度5000メートルの雲海の上に浮かぶこの巨大な金属の島は、大気管理連合の軍事力と技術力の結晶である。地上を覆う灰色の雲を眼下に見下ろしながら、そこには常に一定の温度、湿度、そしてランクAの純粋な酸素が循環している。
その最上層に近い医療研究区画で、ゼクス・ヴァンは独り、ホログラムのモニターを睨みつけていた。
「……ありえない。計算が合わん」
ゼクスの指先が空中で踊る。モニターには、佐藤ななみの血液、呼気、そして遺伝子情報の解析結果が滝のように流れていた。
2500年のテクノロジーを持ってしても、この21世紀の女子大生という生体サンプルは、あまりに不可解で、そしてあまりに致命的な美しさを持っていた。
ゼクスの胸中には、冷たい野心の炎が渦巻いている。
彼は連合の執行部隊に所属しながらも、常に上の空席を狙っていた。
評議会の老いぼれたちは、空気の利権に胡坐をかき、地上の民を窒息させることで支配を維持している。ゼクスはそのシステム自体は当然と思っているものの、上位組織の人間を憎悪していた。
自分がその支配者になりたいという、純粋で剥き出しの独占欲ゆえだ。
「レガシー・ワクチンのコードが、全細胞において欠落している……。いや、これが本来の人類の形なのか?」
ゼクスは自身の胸元を無意識に抑えた。彼の血管には、先祖代々受け継がれたワクチンの遺伝コードが刻まれている。それが今の空気中に漂う病原体、タイラント・セルと反応し、一吸いごとに肺を削り、寿命を縮める。
今の全人類は、自分の生存を支える、病原体を完全に除去するシステムそのものの未完成によって、ゆっくりと殺され続けているのだ。
◇
意識が浮上したとき、最初に感じたのはあまりにも完璧すぎる静寂だった。
ライラの地下室にあったような、換気扇の微かな唸りも、古い配管が軋む音もしない。ただ、鼓膜の奥にキーンと響くような、無音という名の圧迫感。
「……う、ん……」
重い目蓋を押し上げる。視界に飛び込んできたのは、見たことがないほど、徹底的に無機質な天井だった。
継ぎ目一つない、パールホワイトの鏡面仕上げ。そこから漏れる光は、光源が見当たらない。にもかかわらず、部屋の隅々まで一定の明るさで照らしている。
私は、硬いけれど体温を一定に保つ特殊素材のベッドに横たわっていた。
手首と足首には、物理的な鎖ではなく、青白い光のリング、重力拘束帯が嵌められている。動こうとすると、見えない重みがじわりと肌を抑え込み、自由を奪った。
「目覚めたか。想定より3分ほど早いな」
部屋の隅、影の中から声がした。
知らない男が立っている。
その男は銀色の縁取りがなされた、濃紺の軍服に身を包んでおり、その顔は、氷の彫刻のように整っていた。切れ長の瞳は深海のように冷たく、けれどその奥には、獲物を仕留めた猟師だけが持つ、ねっとりとした悦とした光が宿っている。
「……ここは、どこ?」
「……ななみ、と言ったか。君は自分が何者か、理解していないようだな」
ゼクスが部屋の入り口に立つと、重力拘束帯を解かれたばかりのななみが、ベッドの上で丸くなっていた。
「……なぜ私の名前を知っているの?……ライラは……私を助けてくれた子は、どうなったの!?」
「あの娘か。安心しろ、殺してはいない。……君の出所について――つまり、どこで君を拾ったか、他に仲間はいないか、丁寧に聞き出しただけだ。」
「まさか無理やり……?。ひどい、彼女はただ私を助けてくれただけなのに!」
私は叫んだが、ゼクスは眉一つ動かさなかった。彼にとって、ライラの存在自体、演算エラーほどの価値もないようだった。
「さて、佐藤ななみ。君には感謝しなければならない」
言葉とは裏腹に、冷たい目を見て、背筋に冷たい汗が流れる。
「君が吐き出したその空気。今、この部屋のバイタル・センサーが何を感知しているか教えてやろう」
ゼクスは壁を軽く叩いた。空間に、青と赤の粒子が舞う微視的なシミュレーションが映し出される。
「連合の最高級ランクSフィルターですら、タイラント・セルを物理的に取り除くことしかできない。だが、君の呼気に含まれる未知の生体酵素は、タイラント・セルの構造そのものを書き換え、無害な中性物質へ変容させている」
「書き換える……?」
「そうだ。フィルター越しの空気は、ただ毒を抜いたそれだ。」
ゼクスは続ける。
「だが君が吐きだす気体は、周囲の毒そのものが解毒される。……さらに、精密な細胞シミュレーションによれば、パソゲンに侵食される前の人類の遺伝子はタイラント・セルに対して、僅かながら自然抗力を持っていることがわかった。」
少しの間……。ゼクスは煌々とした目で更に続ける。
「ワクチンの干渉がない君の細胞は、タイラント・セルを外敵と認識し、それを能動的に人類にとって無害な素体に書き換える機能を備える。この機能は君の呼気にも含まれていることが分かった。」
最高のサンプルを見つめながらゼクスは自分に言い聞かせるように言う。
「つまりこれは単なるタイラント・セルへの耐性ではなく、忌々しい病原体を無効化する浄化の能力だ!」
ゼクスの声が、歓喜で震える。
「くっくっくっ、もし、お前の呼気を吸い続ければ……ワクチンの呪縛に囚われた我々の身体も、タイラント・セルの攻撃から守られるどころか、やがて体内の細胞そのものが病原体を無視し、無効化できる体質へと書き換えられていく可能性がある。君は単なる耐性持ちなんかではない。人類を、今の地獄から解き放つ“進化のパッチ”だ」
ななみは呆然としていた。
自分の息が、誰かの体質を変える?人類を救う薬になる?
それは、生きる上で何の苦労も知らなかった彼女にとって、あまりに重すぎる事実。
現実に押しつぶされそうになり、体が震えてくる。
ゼクスはななみを無視して、連合の内部構造を示すピラミッド図を空中に広げながら話す。
「君を、あの腐った連中に渡すわけにはいかない。君が今まで見てきた最下層の連中の扱いを見れば、君がどうなるか想像がつくだろう?」
ゼクスの説明は、この世界の冷酷な役割分担を浮き彫りにした。
最下層の下層民、人口の9割を占める階層。彼らの役割は連合という巨大な機械の消耗品。高濃度の汚染区での鉱物採取、エネルギー源の回収をして上層部へ献上する。最も残酷なのが、規定量上献上することでしか病原体、タイラント・セルを除去するフィルターが手に入らない点。彼らはフィルターが故障しても修理すらできず、納品する能力が無くなればそのまま廃棄される使い捨てとして存在。私がこの目で見てきた人たち。
中層の実務執行部隊、ゼクスが所属する層。軍事、技術、管理を担うエリートたち。ここでは常に、次の一席を狙うための、壮絶な足の引っ張り合いが日常茶飯事らしいけれど、下層民からすると雲の上の存在で、足を踏み入れることすら許されない。
上層の大気最高評議会、利権を独占し、空気の供給量を操作することでエクゼキューターすらも管理する階層。Aランクより上の最高ランクSの空気を日常的に吸っている、世界の支配者。想像もつかない。
「下層民は、自分たちの寿命と引き換えに、我々エリートに資源を献上している。だが、評議会の連中は、その下層民ですらコストがかかるゴミだと考えている。アンドロイドでの回収と比べれば圧倒的にコストは低いというのに。……ななみ、もし君が評議会に渡れば、彼らは君を解体し、君の細胞を培養し、自分たち専用の特権的な空気を量産するだろう。君という人間は、跡形もなく消えると断言できる。」
「……。だから、私を隠すの?」
私の身を案じて?微かな希望に縋りつきたくなる。
「そうだ。君は公式には、回収したが欠陥サンプルとして処理した。くっくっく、君は今日から、私の私有物だ。この部屋から一歩も出すつもりはない。」
ゼクスの瞳に、歪んだ独占欲が宿る。
彼はななみを、評議会の席を勝ち取るという自分の野望を叶えるための、唯一無二の切り札に定めたのだ。
ななみの微かな希望が打ち砕かれた。




