6. ピスタチオの未練
「……ん、あと五分。レポート、まだ終わってないから……」
寝ぼけた頭で、私はフカフカの毛布を探した。けれど、指先に触れたのはウールでも羽毛でもなく、体温に合わせてリアルタイムで分子密度を変えるバイオ・シルクの滑らかな感触だった。
パチリ、と目を開ける。
そこには、私の知っている散らかった6畳一間のアパートはない。窓のない、けれど四方の壁が柔らかな朝焼けのホログラムを映し出している、ライラの地下室だ。
「ななみ、いつまで寝てるの。酸素の無駄遣いよ」
作業机から、ライラのぶっきらぼうな声が飛んでくる。彼女はもう、拡大鏡(といっても、空中に浮かぶデジタルな眼のようなものだ)を覗き込みながら、親指の爪ほどの小さな基板をいじっていた。
「……おはよう、ライラ。2500年の朝は、相変わらず空気がおいしいね」
「皮肉? それとも嫌がらせ?」
私は伸びをしながら、ハードライト・ベッドから這い出した。このベッドは、寝返りを打つたびに虹色の粒子が弾けて、なんだか魔法少女になったような気分にさせてくれる。
未来の技術は、いちいち大袈裟で、そして過剰に優しい。
朝食は、ライラお手製のフレーバー・キューブを組み合わせて作ったペーストだ。
昨日、私はライラと大喧嘩(という名の、一方的なわがまま)をした。 「どうしても、ピスタチオアイスの味が忘れられない!」と。
ライラは呆れ果てていたけれど、今朝、私に差し出された栄養ペーストのカップには、緑色のインジケーターが灯っていた。
「……これ、まさか」
「あんたがうるさいから、化学合成データベースからそれっぽい香気成分を抽出しておいたわよ。ベースはただの多糖類だけどね」
一口、掬って口に入れる。
……あ。
鼻に抜ける香ばしいナッツの香りと、ねっとりとした濃厚な甘み。
「……おいしい。ライラ、これ完璧だよ! 2500年の技術力、こういうことに使うべきだよ!」
「……バカね。貴重な計算リソースをデザートに割くなんて。」
ライラはそう吐き捨てたけれど、私の「おいしい!」という顔を見て、ほんの少しだけ口角を上げたのを、私は見逃さなかった。
絶望的な未来。
外は死の世界。
けれど、この地下数メートルの空間だけは、私たちの日常がたしかにそこにあった。
食事を終えると、私は見習いジャンク屋としての仕事を開始する。
2500年のジャンク修理は、21世紀の感覚で言えばパズルとビデオゲームを合わせたようなものだ。
「ななみ、その出力デバイスにナノクリーナーを流し込んで。回路が重金属の塵で詰まってるわ」
「はーい。……これ、本当に不思議よね。この液体、生きてるみたい」
私が透明なボトルから垂らした銀色の液体は、回路に触れた瞬間、数千もの小さな粒に分かれて、汚れをパクパクと食べ始めた。顕微鏡モードのホログラムで見ると、それはまるで、小さな銀色の小人たちが大掃除をしているみたいで、ずっと見ていても飽きない。
「昔は人間が手でハンダ付けなんて非効率なことをしてたらしいわよ。信じられる?」
「……え、私、テレビで職人さんの技、見たことあるけど…。」
「あんたの時代は、中世だったわね」
彼女は、この時代の技術を愛しているけれど、それを独占する組織を心から憎んでいた。
「この世界の技術は、人を救うためじゃなく、人を管理するためにあるのよ、ななみ。……だから、あんたみたいな無垢な遺伝子は、彼らにとっては最高の管理対象であり、最悪のバグなの」
ライラの言葉に、私は銀色の液体を見つめたまま、動きを止めた。
この数ヶ月、私はこの地下室の快適さに甘えていた。
でも、ふとした瞬間に思い出す。
私が今吸っているこの空気は、ライラが外で稼いで、粗悪なフィルターで命を削って管理しているからこそ存在するもの。
そして、一歩外に出れば、私は人間ではなく資源として追われる身だということを。
「……ねえ、ライラ。私、ずっとここにいてもいいのかな」
「……。飽きるまでいればいいじゃない。あんたの味覚が2500年のペーストに染まり切るまでね」
彼女はそっけなく言ったけれど、その手は優しく私の頭を撫でてくれた。
その手の温もりは、私の母さんのものと同じだった。




