3. 未来への順応、あるいは逃避
ライラのジャンク屋での生活が始まった。
最初の数日は、ただひたすら眠り、泣き、ライラが出してくれる合成栄養ペーストを無機質な味だと感じながら飲み込むだけの日々だった。
けれど、人間というのは恐ろしい。
絶望の底にいても、お腹は空くし、喉は渇く。そして、目の前にある未来に、少しずつ興味が湧いてきてしまうのだ。
「ライラ、それなに?」
ある日、ライラが空中に指を滑らせているのを見て、私は尋ねた。
「これ? 量子回路のバイパス工事よ。この時代の機械はわがままでね、ちょっと機嫌を損ねるとすぐにホログラムが化けるんだから」
彼女の指先が触れるたび、何もない空間に青い数式や回路図が浮かび、花火のように弾けては組み合わさる。
202X年のスマホなんて、石器時代の道具に見えるほどの光景。
「すご……。魔法みたい」
「魔法じゃないわよ、技術。……あんたも、いつまでも湿っぽくしてたら、肺が腐るわよ。……あんたの肺は腐らないんだったわね、便利でいいわ」
ライラの皮肉混じりの励ましに、私は少しだけ笑った。
「ねぇ、そういえばあの入り口の膜は何だったの?」
この地下フィルターに駆け込んだ際の疑問を聞いてみる
「あれはプラズマ・フィルター膜。空気中の病原体、タイラント・セルを分子レベルで焼き切って、重金属の塵を弾くためのシールド。この地下室の空気は清浄されているから、外の毒にまみれた空気とは、完全にとはいかないけれど隔離されてるわ」
彼女はそう言うと、壁に設置された複雑な機械を指差した。いくつもの透明なパイプが、不気味な青い液体の中を通っている。
「あれが生命線。高集積の酵素フィルター。外気を取り込んで、この時代の人の遺伝子を破壊する成分だけを除去して、ついでに貴重な酸素も浄化してるの。」
ライラが説明してくれたこの世界の真実は、私の想像を絶するものだった。
西暦2500年。
この世界で最も価値があるものは、金でもダイヤモンドでもない。呼吸できる空気そのものだ。
「いい? 2200年頃のパンデミックで打たれたワクチンのレガシー・パソゲンは、当時は救世主だった。でも、変異した今の病原体、タイラント・セルと出会うと、それは人体を自爆させるスイッチに変わった。今の人間は全員、生まれつきそのスイッチを持ってるの」
ライラは、ホログラムのディスプレイに複雑な二重螺旋の図形を映し出した。
「だから、人々は空気を奪い合う。月へ逃げた環境再生帝国もあるけど、この地球を支配する大気管理連合の目的はただ一つ。地球上にわずかに残った、タイラント・セルのいない酸素噴出孔を独占することよ」
「空気を……独占?」
「そうよ。この時代、呼吸には清浄度ランクがあるの。最上級のAランク空気は、貴族や政府高官しか吸えない。それは甘くて、肺を癒やす最高級の美薬みたいな空気と言われているわ。私たちみたいな地下のジャンク屋や貧民が吸えるのは、フィルターを使い回した、鉄臭くて重いEランクの空気。……でも、それでも死ぬよりはマシだから、みんな必死にフィルター代を稼ぐのよ」
ライラは、自分の防護服の胸元にある小さなカートリッジを叩いた。
「このフィルター一個で、外を歩ける時間はたったの4時間。値段は……私の店の売上の1 ヶ月分。あんたがさっき、フィルターもなしに平気で吸っていたあの空気は、私たちにとっては猛毒だけど、同時にそこに含まれる酸素は、何百万クレジットもの価値があるの」
私は言葉を失った。
202X年、私は何も考えずに空気を吸っていた。
公園で深呼吸するのも、授業中にあくびをするのも、全部タダだった。
けれど、この世界では、一呼吸ごとにコインがチャリンと落ちる音がする。
生きていること自体が、とてつもなくコストのかかる「贅沢」になってしまったのだ。
「あんたの遺伝子には、そのスイッチがない。つまり、あんたはこの星で唯一、タダでどこまでも歩いていける、神様みたいな存在なのよ。……もし政府に見つかったら、あんたは解剖されて、その耐性の秘密を暴くために使い潰される。死ぬまでね」
背筋に氷を押し当てられたような寒気が走った。
私は、ただの女子大生だ。
特別な才能なんてない。レポートは苦手で、ピスタチオアイスが好きなだけの、普通の女の子だ。
なのに、この世界では、存在そのものが禁忌であり、代えが無い研究材料なのだ。
「ねえ、ななみ。あんたの遺伝子が政府にバレたら、本当に一生、ガラスケースの中で飼い殺しよ。彼らは、防護服なしで生きられる新人類のサンプルを必死で探してるの。わかった?」
「うん……わかった。迷惑かけてごめんね、ライラ」
「別にいいわよ。あんたが持ってきたそのエナジードリンク、あれの糖分構成、今の技術じゃ使われていない面白い原子配列してるし、研究材料代として見てあげるわ」
ライラはそう言って、大切そうにエナドリの空きビン(私が泣きながら飲み干したやつだ) を眺めていた。




