24. ライラ
西暦2500年。空を覆う虹色の分子密閉膜が、陽光さえも選別して注ぐこの歪んだ世界で、のちにライラと名乗る女の子は産まれた。
彼女がかつていた場所は、大気管理連合が持つ要塞の最上層。そこは、汚れ一つない無菌室のような、完璧に管理された聖域だった。
ライラの父親は、連合の最高意志を代行する統括エグゼキューターの一人だった。彼にとって、世界は効率と数値だけで構成された巨大な基板に過ぎなかった。
ライラが幼い頃、熱を出して泣き叫んでも、彼はその額に手を当てることさえしなかった。ただ無機質なレンズ越しに彼女のバイタルデータを眺め、「ナノ抗体の投与量を0.02%増やせ」と事務的に命じるだけ。
「ライラ、無意味な感情は思考のノイズだ。私がお前に求めているのは、次世代を統治するための、曇りのない眼だ」
ライラは、その父親のことが心の底から嫌いだった。
彼の吐く言葉は、正当化されすぎていて、感情の無い無機質なものだった。
彼が注ぐ愛情は、娘を有能な部品として育てるための徹底した教育カリキュラムでしかなかった。
彼女の心を決定的に壊したのは、12歳の時に父親の強引な視察に同行させられた、下層エリアでの出来事だった。そこでライラが見たのは、教科書に載っていた管理対象の労働者なんて言葉では片付けられない、血の通った地獄だった。
煤けた路地裏。タイラント・セルに侵され、喉をヒューヒューと鳴らしながら、泥のような水を啜る小さな女の子。その子の瞳には、すでに光がなかった。
ライラは思わず、自分が持っていた最高級の生体維持キューブを差し出そうとした。でも、その手は父親の冷たい指に強く掴まれた。
「やめなさい、ライラ。資源の無駄だ。その個体はすでに生産性を失っている。与える価値はない」
「でも、お父様! この子、死んじゃいます! 助けてあげてください、医療ナノマシンを呼べばすぐに来てくれるのでしょう!?」
ライラは必死に訴えた。けれど、父親は一瞥もくれず、淡々と言い放った。
「一人の無価値な命を救うコストで、上層の市民が純粋な空気を吸える。どちらが合理的か、お前に教えたはずだ。……よく見て覚えろ、これがお前の享受する繁栄の裏側だ。受け入れろ。それが統治者の責務だ」
ライラは、その場に崩れ落ちた。目の前で少女が力尽きていくのを、ただ最高級の防護服に守られた安全な場所から見ていることしかできなかった。
自分が学んだ高度な技術も、溢れるほどの知識も、たった一人の子供すら救えない。
その無力感と、こんなコストの上に成り立つ自分が、たまらなく吐き気がするほど嫌になった。
上層に戻ったライラを待っていたのは、何事もなかったかのように用意された、温かい食事と香りの良い飲み物。
でも、彼女の肌は、あのスラムで感じた錆の匂いを忘れることができなかった。
鏡に映る自分を見るたびに、あの死にゆく少女を見捨てた共犯者としての自分が、醜い怪物に見えた。
彼女がスラムへ降りたのは、完璧すぎる銀色の世界で、汚れを知らないふりをして生き続ける自分自身に、これ以上耐えられなかったから。気高い使命感からじゃ決してない。
(私は、あの子を助けたかったんじゃない。……あの子を助けられない現実から、逃げ出したかっただけなんだ)
自分を支配者の部品として飼い慣らそうとする父親から、そして、何もできない自分自身の無力さから、ただ逃げ出したかったんだ。
16歳の夜。彼女は父親の書斎から、あらゆるセキュリティを無効化し、書き換え可能なマスター・オーバーライド・キーを盗み出した。
それは父へのせめてもの反抗であり、自分をこの世界から消去するための手段だった。
彼女は銀色の揺りかごを飛び出し、重力エレベーターを逆走して、二度と戻れない暗闇へ……スラム街の底へと身を投げた。
◇
スラムでの生活は、贖罪の日々だった。彼女は自分の正体を隠し、名前を捨て、ジャンク屋の片隅で心を閉ざして生きてきた。
(どうせ、この世界は変わらない。誰一人として救えやしない)
他者との関わりを断つことで、自分の無力さにこれ以上傷つかないよう、心の周りに分厚い絶縁体を巻き付けていた。
そんな彼女の前に、ある日、空から降ってきたのが佐藤ななみだった。
「ここ、どうなってるの? さっきの膜は……?」
ななみの最初の言葉を聞いた時、ライラは心底呆れた。 21世紀から来たというその少女は、あまりにも無防備で、あまりにもお人よしだった。
タイラント・セルの霧の中でも、「汚れてるからお掃除しなきゃ!」と笑い、死にかけている機械にまで「痛いのとんでけー!」と本気で祈る。
ライラが、無意味だ、何も変わらない、と切り捨ててきたすべての感情を、ななみは当たり前のようにぶつけてきた。
そして何より、ライラが一生かけても辿り着けなかった、かつての女の子を救うことを、ななみはただの息だけで、いとも簡単に成し遂げてしまった。
「……ななみ、あんた、本当にバカね。そんなことしても、世界のシステムは何も変わらないのに」
ライラはいつものように毒づいた。でも、その瞳は、子供たちが、深く、安らかな呼吸をする未来を見ていた。
ななみに出会って、ライラの中で、12歳の時からずっと止まっていた時間が動き出した。
(……ああ、そうか。私が欲しかったのは、……この温かさだったんだ)
ななみという最大のバグに出会ったことで、ライラは自分を許し始めた。そして何もできない臆病者だった自分を捨て、今度はこの奇跡を守る盾になろうと決めた。
それは、父親が教えてくれた冷徹な正義に対する、最高に人間らしい、最高の反逆だった。
「ななみ、そこを弄っちゃダメだって言ってるでしょ。……もう、貸しなさい。それは私が直してあげるから」
彼女の眼は、もう数値を測るためのレンズではない。ななみが撒き散らす光に照らされて、この煤けたスラムをどう変えていくのかを、一瞬たりとも見逃さないための、愛に満ちた守護者の瞳だった。




