18. 佐藤ななみ
横浜の、あのランドマークタワーが見えるいつもの景色。出来上がりすぎている世界。
朝、お母さんが焼いてくれるパンの匂いで起きて、お父さんの「車に気をつけろよ」っていうお決まりのセリフを聞きながら家を出る。
大学に行けば、冷房の効いた教室で友達のミキと「お昼何食べる?」なんて、平和すぎる相談をする。
そこは、何もかもが揃っていて、だからこそ何もしなくても、社会っていう大きなシステムが勝手に私を生かしてくれる場所だった。
ボランティアサークルに入って、週末に山下公園でゴミ拾いをした。
でも、道はもともとピカピカで、拾うものなんてほとんど落ちていない。トングを持って歩き回る私を、通りがかりの人が「意識高いね」って目で見る。
そのたびに、胸の奥がなんだかモヤモヤした。
私がここでゴミを一つ拾っても、拾わなくても、世界は一ミリも変わらない。
私の行動は、結局いいことをしている自分に酔いたいだけの、ただの趣味。
自己満足のパズルを埋めているだけ。
大好きだった家族に囲まれて、不自由なんて一つもなかったはずなのに、心のどこかで、自分がこの世界にいてもいなくても変わらない透明な部品みたいな気がして、ずっと息苦しさを感じていた。
それが、いきなりこの鉄臭い2500年の未来に来た。空はどんよりした色に覆われていて、空気は喉が焼けるみたいに苦しい。
ライラに拾われて、彼女のジャンク屋で暮らすことになったけど、最初は、未来に来てしまったことに、とにかく絶望した。家族や友達に逢いたかった。
それでも生きるための生活は押し寄せてくる。ライラは天才的な技術で機械をパパッと直して、この厳しい世界で自分の力でちゃんと立っている。それに比べて私は、本当になんにもできなかった。
重い工具を持とうとすればフラフラするし、彼女が作ってくれる栄養ペーストを食べるだけの、ただの居候。
21世紀なら普通の女の子でいられたけど、ここではただの手のかかるお荷物。 社会が私を生かしてくれるどころか、私がいるだけでライラの足を引っ張っている。その事実が、たまらなく惨めで、申し訳なかった。
でも、そんな役立たずな私の中に、小さな、でも確かな違和感が芽生え始めた。
この街の人はみんな、黒い病原体……タイラント・セルっていうのに怯えて、重たいマスクや防護服を手放せないでいる。
ライラだって、外に出る時はいつも険しい顔をしてフィルターの数値をチェックしている。
なのに、私は平気だった。21世紀の柔らかい世界で育ったはずの私が、この世界の猛毒の中でもケロッとしている。
この世界の毒は、私には効かない。
それどころか、私がいると、なんだか空気のトゲトゲした感じが和らぐ。
(……もしかして私にも、何かができるのかも)
まだ何も固まっていないふわっとしたイメージ。でもそう思い始めた時、本当の意味で世界の役に立つことができるんじゃないかっていう、ドキドキするような期待が胸をかすめた。
21世紀のあの完璧な世界では、私なんていてもいなくてもよかった。
誰かが作ったレールの上で、誰かが用意した空気を吸って、感謝すら忘れて生きていた。
でも、ここでは違う。
ここは誰も助けてくれない、ボロボロで剥き出しの世界。
だからこそ、ここで私が見つけた価値は、誰にも用意されていない、私だけの本物の価値になる。
確信に変わったのは、ライラが諦めた、真っ黒に詰まった空気フィルターを見た時。
「もう手遅れね、捨てましょう」って言う彼女の横で、私はなんとなく、その機械に顔を近づけて、お母さんがよくやってたみたいに、綺麗になーれって、おまじないをかけるみたいに祈りながら、息を吹きかけた。
その瞬間、目に見える世界がガラッと変わった。
フィルターにこびりついていた不気味な黒い煤が、私の息に触れたところから、魔法みたいにさらさらと消えていく。
鈍い銀色の金属が、本来の輝きを取り戻して、詰まっていた空気が美味しそうに流れ出す。 隣でライラが、見たこともないほど目を見開いて固まっていた。
「……ななみ、あんた、今……何をしたの?」
震える彼女の声を聞きながら、私は自分の手を見つめた。
私がやりたかったことは、サークルのゴミ拾いみたいな自己満足じゃない。
この死にかけた世界に新しい命を吹き込んで、誰かが吸うはずの空気を、本物に変えたい。
この壊れた世界を、物理的に、直接的に救うことができるかもしれない。
その喜びは、21世紀のどんな贅沢よりも私を熱くさせた。
社会に生かされるんじゃなくて、私がこの世界を、この時代の人たちを、私の力で笑顔にしてみせる。
透明な部品だった私が、初めて、ここにいてもいいんだって、心の底から思えた瞬間。
お父さんやお母さん、私のことを見つけられなくて、きっと今頃たくさん泣いてると思う。
ごめんね。でもね、私、やっと見つけたよ。あなたたちが私にくれた、この健康な体と、受け継いだ心が、2500年後の未来で、世界を救うたった一つの光になる。
「……ねえライラ、私、わかっちゃった」
ライラの、少し汚れた手をぎゅっと握る。私はもう、ただの迷い子じゃない。この真っ黒な霧に包まれた未来を、私の力でピカピカの虹色に変える。
それが、21世紀から持ってきた、私の一番大切で、一番誇らしい役割なんだ。
今まで感じたことのないワクワクが、止まらない。 私はここで、本当の意味で私になれる。その喜びで、胸がはち切れそうだった。




