12. プロジェクト・エオンの胎動
アイギス要塞の深部、セクター・ゼロ。そこは、ゼクスの軍事的合理性とカサンドラの冷徹な政治工作が、一人の少女をエサに結託した、この時代で最も特殊な場所となっていた。
しかし、その聖域の心臓部に置かれたななみにとって、そこは神殿でもなければ研究所でもない。ただの、色彩を剥奪された硝子の箱だった。
ななみが閉じ込められた部屋は、徹底的な管理の象徴だった。壁面はすべて、継ぎ目を感じさせないほどの高精度で磨かれた透明な強化プレート。そこには、かつてライラの地下室で感じた手触りのある生活は一切存在しない。
自由という言葉はここでは死語だった。娯楽は与えられず、情報の入力も遮断されている。
唯一、視界を動くのは、廊下を無機質に巡回する警備ドローンの影と、一日に三回、壁のスリットから突き出される灰色のチューブだけだ。
「……何の味もしない。」
ななみは、味も匂いも、温度さえも曖昧なそのペーストを喉に流し込む。ただの栄養の塊だ。
掃除ドローンのポチは、もはや彼女の孤独を癒やすペットではなくなっていた。
ポチの吸気口は、ななみの口元を執拗に追尾し、彼女がこぼした溜息さえも逃さず回収する。圧縮された彼女の呼気は、ポチの内部タンクを経て、床下のバイパスを通ってゼクスの研究施設へと即座に転送されていく。
◇
地下の研究室で、ゼクス・ヴァンは冷徹にデータを解析し続けていた。カサンドラが法的・政治的な防壁を築く間、ゼクスは軍の技術チームを使い、ななみの呼気が引き起こす奇跡を、より軍事的な、あるいは経済的な価値へと変換する作業に従事していた。
2500年の人類の身体は、ある種の時限爆弾だ。 人類が持つレガシー・パソゲン(ワクチン遺伝子)は、本来環境を支配するはずだったタイラント・セル(病原体)を検知して攻撃するように設計されている。だが、この二つが体内で接触した瞬間、その反動で細胞を内側から腐らせる劇毒が発生する。これが現代人類の死因の9割を占める。
しかし、ななみの呼気が介入すると、物理法則そのものが書き換わる。
ななみの呼気に含まれる特異な生体酵素は、タイラント・セルを全く別の安定した生体物質へと変質させるのだ。
さらに驚異的なのはその先だった。この新しく生まれた物質は、それ自体が周囲のタイラント・セルを捕食・安定化させる触媒となり、次々と清浄化していく。 それは、汚染という火を消すだけでなく、消えた後の灰が水を浄化するような、中和のスパイラルだった。
一定の中和スパイラルの後、連鎖反応が止まることも同時に確認された。
「これは、最終的にはフィルターのいらない世界が来る。……つまり、連合による空気の統治が終わるということだ」
ゼクスはその事実に戦慄を覚えながらも、その力を独占することの甘美な誘惑に、魅了される。
「これは俺が管理する。下賤な下層民や、評議会の腐った連中になどくれてやるものか。」
◇
カサンドラ・クロムウェルが担当したのは、単なる記録の抹消ではない。彼女が行ったのは、連合の全監査システムを欺くための統計的カモフラージュだった。
ななみの居住区から漏れ出す異常な清浄値や、ポチが回収する高濃度の浄化エネルギーは、あまりに巨大なノイズとして本来なら即座に警告灯を点灯させる。
カサンドラは、このアノマリーを合法的に塗りつぶした。
まずはななみの部屋に設置された数百の環境センサーを、監査ログ上では新型バイオ・フィルターユニットの内部試験端子として再登録。これにより、異常な数値が検出されても実験装置内部の極端な環境として正当化される。
次に統計を平滑化するべく、要塞全体の空気清浄ログに、意図的な逆位相のノイズを混入。ななみ由来の極端な清浄値を、要塞各所のフィルター劣化データと相殺させることで、全体的な平均値を誤差の範囲内に収束させた。
また、存在しない架空の実験プラントの稼働ログを並列で走らせ、ななみを分析する研究施設のリソースをすべてそのプラントの運用コストとして計上。ななみという存在を、各種実験プラントのリソース消費に隠れる幽霊へと変貌させた。
カサンドラにとって真実とは、妥当な数字の積み重ねによって構築される結果に過ぎなかった。
ただし、隠ぺいし続けることができないことも、カサンドラは理解していた。




