第7話『退院後の生活』
入院から1ヶ月が経過して、めでたく退院の日が訪れた。
医者曰く、日常生活に戻っても問題ないとのことだ。抜糸も無事に終わり、すでに歩き回れる程度には痛みも引いている。仕事に復帰するのはもう少しあとになりそうだが、差し当たって自宅に帰れるぐらいには快調とのことだった。
ただ、俺にはどうしても確認しなくちゃいけないことがある。
今後のQOLに関わる重大事項だ。
――診察室。
カルテを確認する男性医師に、俺は満を持して切り出した。
「先生。最後にひとついいですか」
「どうしました?」
「今後の生活についてなのですが……。僕、サウナと筋トレだけが生き甲斐だったんですけど、退院したら普段通りの生活に戻っても大丈夫ですよね?」
ジム通いとサウナ。この一連のルーティンこそが、社会で摩耗した精神を回復させる唯一の息抜きだった。
1ヶ月の入院生活で体は鈍り切っている。一刻も早くベンチプレスを上げてロウリュの熱波を浴びたい。
しかし、先生の反応は冷たかった。
「あなた腹に穴が空いてたんですよ? 馬鹿言わんでください」
まさか行くなとでも言うつもりだろうか。
「退院なんですよね? なら、リハビリがてら軽く汗を流すぐらいは」
「退院後もしばらくは絶対安静です。傷口は塞がりましたが、中の組織が完全に癒着するには時間がかかります。腹圧のかかる筋トレなんて以ての外。傷が開いて逆戻りしたいんですか?」
「そんな! それじゃあ、俺は今日からなにを生き甲斐にすれば……」
絶望である。
筋肉は裏切らないと思っていたが、物理的な損傷の前には無力なのか。
だが……まだだ。まだ俺には救いがある。
そう、食だ。薄味の病院食から卒業した今、俺の舌は旨味を求めていた。
「で、ではラーメンは? こってり系とは言いません、あっさり系のやつでもいいんで」
「駄目です。消化の良い物を食べてください」
「うどんは消化にいいと言いますよね? 同じ麺類ならラーメンも」
「でしたらうどんを食べてください。脂が多い料理、刺激物、塩分の高い食べ物は内臓に負担をかけます。そういった食事はなるべく控えるよう」
「なるべく、ってことは多少なら? もちろんスープは飲みません」
「駄目です。……片桐さん、あなた以前から健診でも引っかかっているでしょう。これを機に生活習慣を見直してください」
「…………」
取りつく島もない。
ヤブ医者め……。
「また来週、経過診療でお待ちしています。くれぐれも安静に。いいですね?」
「……はい」
診察室を出る足取りは岩のように重かった。
*
最後の帰り支度を済ませるべく、長い間お世話になった病室に戻る。
暦は7月も半ばになり、窓の外には梅雨明けの快晴が広がっている。
そして――。
「おかえりなさい、宗介さん。先生のお話どうでした?」
病室の窓際には、清楚なワンピース姿の深月が控えていた。
「……終わったよ」
「えっ、なにか悪い結果でも!?」
「いや、検査結果は良好だ。けど、人生の楽しみをすべて奪われた」
ベッド脇の椅子に腰を下ろす。絶望を体現するように項垂れながら。
「退院しても当面は絶対安静なんだとさ。筋トレ禁止、サウナ禁止。食事も質素に、ラーメンすら食うなって。独身男性にはキツいよ」
「ああ……。でもまあ、当然ですよ。あんな大怪我だったんですから」
「こっちは1ヵ月間ずっと病院食だったんだぞ? 退院したらなにを食べようか、それだけを希望に耐えてきたのに……」
「宗介さんって意外と食いしん坊ですよね。いっつも病院のご飯に文句言ってましたし」
口元に手を当てて、深月はクスッと笑みをこぼす。
入院当初こそ、1週間もしたら飽きて来なくなるだろうと思っていた。だが、その予想は見事に外れた。深月は来る日も来る日も病室に足を運び、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれたのだ。
いつの間にか名前で呼ばれるようになり、俺もまた、いつの間にか敬語を使うのをやめて――今ではこうして気の置けない仲にまで発展している。
しかし、夢のような時間にもいつか終わりは来る。
今日で退院、この関係もお終いだ。
「まあ、完治するまでの辛抱さ。せいぜいそれを楽しみに、コンビニのサラダチキンとかで耐え忍ぶよ」
諦め半分にため息を吐く。
すると、深月は名案を思いついたとばかりに眉を上げた。
「あの。でしたら、私がご飯作りましょうか?」
「は?」
俺は耳を疑った。
「これでも料理は得意なんですよ? 小さい頃から家のご飯作ってましたし」
「スキルの問題じゃなくて。深月は忙しいだろ。活動再開の準備だってあるし」
「まだ休止中ですから時間はありますよ。宗介さん、自炊とかしなさそうですし、放っとくと傷とは別に体を壊しそうです」
自炊のスキルなんてとっくの昔に捨て去った俺にとって、消化に良く、栄養バランスが取れていて、血糖値を上げない食事を毎食用意するなど不可能に近い。
必然、医者の言いつけを守るなら、コンビニでサラダチキンでも買うか、健康食を謳う飲食店を利用するしかないだろう。
深月の言は正しい。正しいのだが……。
「不健康な生活で倒れられたりしたら、私、一生自分を許せません」
「いや、しかし……」
飯を作ってもらうということは、深月が俺の部屋に来るということだ。ひとり暮らしの中年男性の家に、未婚の若い女が来る。
いくら気の置けない仲になったとはいえ、そこは線を引かないとマズいのではないか。
入院中にVTuber業界については軽く調べた。それで知ったことだが、この業界は一部の層を除いて、基本的にアイドル業界と同じぐらいタレントの色恋に厳しい。
十六夜ナギのブランディングもその例に漏れない。
「さすがにやめとくよ」
そう断りを入れると、深月は目力を強くした。強くしたというか、その目が昏く据わった。たまに垣間見える深月の怖いところだ。
「すべてを捧げてでも恩返しすると言ったでしょう?」
「その言葉まだ有効だったのか……」
「当然です。まだまだ全然、私の気は収まっていませんから。だから宗助さんは余計なことを考えず、私にお世話されてください」
うーむ。相変わらず押しが強い。こうなると断るのは難しいな。
まあ、お互い変な気を起こすつもりはないだろうし、単に飯を作ってもらうぐらいならギリギリセーフか。
逡巡したのち、俺は観念するように苦笑した。
「じゃあ、お言葉に甘えてもいいか?」
「はい! 任せてください! そうと決まれば、早速今夜から開始ですね。一緒に帰ってもいいですか? お買い物とかもしたいですし」
気が早い。だが、いきなり深月を家に入れられる状態かと言われれば、答えは間違いなくNOだ。
「待ってくれ。丸1ヶ月も家に帰ってないんだ」
「知ってますよ。それがどうかしました?」
「部屋の中が汚れてるだろ。掃除する時間は欲しいかも」
「掃除なら私も手伝いますよ? ふたりでやった方が早いです」
「それはそうなんだが。ちょっとな」
独身男の部屋だ。変な物は置いていないと思うが、生活感丸出しの惨状を見られるのは単純に恥ずかしい。
俺の微妙な反応を見て、深月は「あっ」と口元を押さえた。
「そっ、そうですよね。男性のひとり暮らしですもんね、見られたくないものとか色々ありますよね……。私ったら、ズカズカ上がり込もうとしてごめんなさい。配慮不足でした」
申し訳無さそうに顔を赤くしている。なにを想像したのかは聞かないことにするが、まあ、引いてくれたなら好都合だ。
「では、一度解散してまた夕方に合流する流れでどうでしょう? お買い物には私が行ってくるので、住所はメッセージで送っていただければ」
「わかった。それまでに人に見せられるレベルには綺麗にしとくよ」




