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ヒントはバネ、しかもついてない

作者: 星渡リン

段ボールは、驚くほど軽かった。ガムテープの端がきちんと折り返され、開けやすいように小さな“つまみ”が作られている。そういうところだけ、父らしい。


送り主欄には、もう使われていないはずの工房の住所が書かれていた。差出人の名前はない。住所だけが、まるで誰かの背中みたいにそこに立っている。


私は玄関で靴を脱ぎきれないまま、段ボールを抱えて台所へ運んだ。昼間の光が窓から差し込み、埃の粒がゆっくり舞っている。父がいなくなって二ヶ月。葬式も、役所の手続きも、親戚の顔も、全部終わったと思っていたのに、こうしてまた“続き”が届く。


カッターでテープを切る。刃が段ボールを撫でる音が、やけに響く。蓋を開けると、薄い油の匂いがした。金属と木と紙が混ざった匂い。私はその匂いを、子どものころから知っている。


中には、布で包まれた箱がひとつ。布は古い作業着の切れ端で、縫い糸がところどころほつれている。布をほどくと、小さな木箱が出てきた。手のひら二つ分くらいのサイズ。蓋には、焦げたような字で一行だけ焼き印が押してある。


――ヒントはバネ、しかもついてない


私は息を止めた。父の声が、頭の中で鳴った気がした。冗談みたいに、でも妙に真面目な顔で言う、あの調子。


箱の横には、さらに小さな封筒が添えられていた。封筒にも同じ文字が、鉛筆で走り書きされている。中には、短いメモ。


「ユイへ。最後の宿題だ。答えはひとつじゃない。ばねは、ついてない」


ユイ。それは私の名前で、父が呼ぶときだけ少し柔らかくなる音だった。久しぶりにそれを目で追っただけで、喉の奥がひりついた。


私は木箱を持ち上げ、耳を近づけて振ってみる。かすかな音がした。何か小さなものが中で転がる音。鍵穴はない。留め具もない。けれど蓋は開かない。ぴったり閉じて、わずかな隙も見せない。木目の流れが、蓋と箱で途切れず続いているのが不気味に美しい。


父は、こういうことをする人だった。


小学生のころ、私は父の工房で遊んでいた。工房といっても、家の裏の物置を改造しただけの狭い空間だ。壁には工具が並び、床には部品が散らばり、机の上には分解途中の時計や玩具が転がっていた。私はその中から、わざと壊れたものを見つける遊びが好きだった。壊れたものは、どうして壊れたのかが顔に出る。壊れ方には癖がある。癖があるなら、直し方にも癖がある。


父はよく言った。


「壊れたってのはな、悪いことじゃない。ばねが伸びるのも、歯車が欠けるのも、理由がある。理由があるなら、手がかりがある。手がかりがあるなら、直せる」


私はその“直せる”が好きだった。世界が、手のひらの上で少しだけ分かる気がした。


けれど私は、大人になってから修理を選ばなかった。東京で、数字を扱う仕事に就いた。直すより、整える仕事。理由より、説明。手がかりより、報告書。そういう場所で私は、摩耗しないように、感情に油を差さずに生きる術を覚えた。


父の葬式で久しぶりに帰ってきた町は、相変わらず静かで、静かすぎて、私の心音が大きく聞こえた。


そして今、父はまた私に“宿題”を渡してきた。


「ヒントはバネ、しかもついてない」


私は木箱を机に置き、布の切れ端をそっと広げた。布の端に、焦げたような黒い染みがある。油の染みではなく、焼けた染み。父の指先はいつも少し黒かった。指の間にオイルが染みて、洗っても落ちない。あれは、父の仕事が皮膚に“ついて”いた証拠だ。


……ついてない。


私は不意に、言葉の二重の意味に気づいた。付いていない。運がない。父の冗談はいつもそうだった。ねじをひとつ落とすと、「ついてないな」と笑う。ねじは床に付いているのに、運は付いていない。言葉遊びみたいで、でも笑いの中に救いがあった。


私は木箱をもう一度、ゆっくり触った。角、木目、蓋の縁。どこにも引っかかりがない。まるで、開けられることを拒んでいるようで、拒まれていることが逆に挑発みたいだった。


台所の引き出しから、細いマイナスドライバーを取り出す。父の工具は、工房に行けば山ほどあるのに、私はここにあるものだけでやろうとしていた。変な意地だ。父の土俵に上がりたくない。上がった瞬間、父に負ける気がする。


ドライバーの先で蓋の縁をなぞる。隙間はない。木と木が、吸い付くみたいに密着している。私は諦めて、箱の底を見る。底板の四隅に、小さな丸い木栓が打ってある。目立たない。けれど、父ならここを“入口”にする。


木栓を押す。硬い。もう一度押す。微かに、沈んだ気がした。私は四隅を順番に押す。右上、左下、左上、右下。ばらばら。適当に。沈む感触は二回目で止まった。規則がある。どれかひとつが違う。


私は息を吐いて、頭の中で父の声を再生する。


「答えはひとつじゃない」


……じゃあ、入り口もひとつじゃない。


私は四隅を押す順番を変える。右上、右下、左上、左下。沈む。左下だけ、戻りが遅い。私はその木栓を押したまま、反対側の木栓を軽く叩く。すると、底板の縁がほんの少し浮いた。爪先ほどの隙間。私はそこにドライバーの先を差し込み、ゆっくり持ち上げる。


ぱち、と乾いた音がした。


底板が外れた。


中は空洞で、紙と金属がぎゅっと詰まっている。紙は細く巻かれた封筒。金属は――小さなバネ。コイル状の銀色のバネが、ころんと転がっていた。どこにも繋がっていない。単体で、ただそこにある。


私は思わず笑ってしまった。喉の奥がひりつくのに、笑いが出る。父は最初から答えを見せていた。ヒントはバネ。しかもついてない。ここに、本当に“ついてない”バネがある。


封筒を開けると、二つ折りの紙が出てきた。父の字だ。丁寧に書こうとして、結局癖が出ている。


「ばねは、伸びる。戻る。戻れないときは、どこかが噛んでる。君は今、戻りにくい顔をしてる。だから、ばねを渡す。これは、ついてないばねだ。どこにでもつけられる」


紙の端に、小さく地図のようなものが描いてある。川、橋、坂、そして丸印。丸印の横に、さらに一行。


「春じゃないほうのバネへ」


私は地図を見つめた。川沿いの道。橋。坂。丸印の場所には、見覚えがある。町外れの雑木林の奥にある、小さな湧水――地元では“バネ場”と呼ばれていた。昔、父と一度だけ行ったことがある。夏の終わりだった。苔むした岩の間から、冷たい水が絶えず湧いていて、手を入れると指先が痛くなるほど冷えた。


父はそのとき言った。


「これがこの町のばねだ。水はさ、湧く。湧くってのは、戻るより強い」


私は当時、意味が分からず笑った。父は水を飲み、私に飲ませ、そして帰り道にソフトクリームを買ってくれた。ソフトクリームのほうが記憶に残っていた。


今、紙の上の言葉が、遅れて胸に入ってくる。


春じゃないほうのバネ。


バネには二つある。コイルのバネと、湧き水のバネ。父は私に、二重の手がかりを渡している。


私は立ち上がり、コートを掴んだ。財布とスマホと鍵。必要なものだけをポケットに入れる。木箱の中のバネは、掌に乗せると軽いのに、指先を緊張させる。ついてないバネ。どこにでもつけられる。父は本気でそう思っているのか、冗談で言っているのか。父の冗談はいつも、本気と同じ顔をしていた。


外は曇っていた。空の色は薄く、風が冷たい。町の冬は、東京よりも素直に寒い。私は歩き出す。川沿いの道へ。父と何度も歩いた道ではない。私は父と並んで歩くことが、いつの間にか減っていた。高校生になってから、部活や友だちを理由に工房へ行かなくなった。大学で町を出て、帰省も減った。父は何も言わなかった。何も言わないことで、私を縛らないようにしたのかもしれない。あるいは、言葉が下手だっただけかもしれない。


橋を渡る。川は冬の色で、流れが遅い。水面に葉っぱが一枚、くるくる回っている。私はそれを見て、バネを思う。バネは回る。巻かれている。ほどけたら、戻る。戻るために巻かれている。


坂を上る。息が白い。胸の奥が痛いのは寒さのせいだと思いたい。けれど痛いのは、もっと別のところだ。父の字を読んだとき、父の匂いを嗅いだとき、父の声を思い出したとき、私はずっと身体のどこかで、戻れない何かを探している。


雑木林の入口は、思ったより荒れていた。夏なら子どもが虫取りに入る道も、冬は誰も通らないらしく、枯れ枝が道を塞いでいる。私は枝を避け、濡れた土に足を取られないように進む。木々の間を抜けると、空気が変わった。湿り気が増え、匂いが濃くなる。苔と土と、水。記憶が、匂いから先に戻ってくる。


湧水は、そこにあった。岩の隙間から細い水の糸が湧き、すぐ下の浅い窪みに溜まり、小さな流れになって森の奥へ消えていく。冬なのに水は凍らず、絶えず動いている。生き物みたいだ、と昔思った。


私はしゃがみ、手を伸ばして水に触れた。冷たい。冷たさが指先から腕に上って、心臓のあたりまで届く。鼓動が、強くなる。私は思わず胸を押さえる。押さえても、鼓動は止まらない。止めたくないのかもしれない。


岩の上に、古い缶が置かれていた。錆びた金属の小さな缶。誰かが置いたというより、そこに“残った”ような佇まい。私は缶を手に取る。蓋は固く閉まっている。爪をかけると、ぱき、と音がして開いた。


中には、小さなカセットテープと、短いメモが入っていた。メモはまた父の字。


「再生する道具がなかったら、想像で聞け。俺の声は、だいたいそういう声だ」


私は笑ってしまい、すぐに笑えなくなった。カセットテープ。今どき。父らしい。父の工房には古いラジカセがあった。私はそれを思い出し、ポケットのスマホが役に立たないことに腹が立った。腹が立つのに、同時に愛おしい。どうしてこんな気持ちになるのか分からない。分からないけれど、分からないままここにいる。


私は缶の底に、もうひとつ小さなものがあるのに気づいた。透明な袋に入った、小さな金属片――針金を丸めたような、でもバネではない。よく見ると、それはバネの端を引っかけるための“爪”の部品だった。バネを“つける”ための部品。つまり、父は二つを分けて隠したのだ。バネはついてない。けれど、つけるためのものは別にある。


私は掌の上で、家から持ってきたバネと、缶の中の爪を並べた。二つは、ぴたりと噛み合う形をしている。ばねは戻る。戻るためには、引っかける場所が要る。引っかける場所がなければ、ただの金属の輪だ。


父の“宿題”の答えが、急に現実味を帯びた。


――君は今、戻りにくい顔をしてる。


私は、戻りにくい。戻る場所がない。戻りたくないのではなく、引っかける場所が分からなくなっただけかもしれない。仕事を辞めたいわけじゃない。東京が嫌いなわけでもない。けれど、毎日が同じ速度で過ぎていくことに、私はどこかで「ついてない」と思っている。付いていないのは運じゃなくて、自分の心のバネなのに。


私は湧水の前で、しばらく座っていた。森の音は少ない。鳥の声も遠い。水の音だけが、絶えず鳴っている。父の声を聞く道具はないのに、私は本当に父の声を聞いた気がした。想像で聞け、と父は書いた。想像は、記憶の使い方だ。記憶は、失ったものを取り戻すためのものじゃない。残っているものを確かめるためのものだ。


私はポケットから、父のメモを取り出し、もう一度読んだ。


「これは、ついてないばねだ。どこにでもつけられる」


どこにでも。そう言いながら父は、二つを別の場所に置いた。家と森。生活と湧水。都会と田舎。二つを繋ぐ道は、私の足でしか作れない。


私は立ち上がり、湧水の水を両手ですくって顔を洗った。冷たさに息が詰まり、目が覚める。目が覚めると、胸の痛みが少しだけ輪郭を持つ。これは悲しみだけではない。怒りでもない。寂しさでもない。混ざったものだ。混ざったまま、私は歩けるだろうか。


帰り道、私は何度もポケットの中のバネを触った。指先で撫でるたび、金属が小さく震える。ついてないバネが、私の体温で少しずつ温まっていく。温まると、金属は柔らかくなるわけじゃない。それでも、冷たいままではない。


家に戻ると、私は父の工房へ行った。錠はかかっていなかった。父は最後まで、鍵をかける人ではなかった。誰かが来るかもしれないというより、自分がいつでも戻れるようにしていたのだと思う。戻れる、という可能性を閉じないために。


工房の中は、父がいた時のままだった。工具の位置、机の上の部品、壁のメモ。時間だけが止まっている。止まっているのに、油の匂いはまだ生きている。私は棚を探り、古いラジカセを見つけた。埃を払って電源を入れる。うん、と低い音がして、カセットの蓋が開く。


テープを入れる。再生ボタンを押す。機械が回り出す音が、少し遅れて部屋に響く。


――……ユイ。


父の声だった。少しザラついて、遠くて、でも確かに父だ。私は思わず息を止めた。息を止めたせいで、父の声が余計に大きく聞こえた。


――聞こえてるか。聞こえてないなら、想像で聞けって書いたけど、聞こえたならまあ、よかった。


父は咳払いをする。いつもの癖だ。話す前に咳払いをする。私は胸が痛くなる。


――俺さ、最後まで、うまく言えなかった。君が東京行くって言ったときも、仕事の話をしたときも、恋人の話をしなかったときも。何か言ったら、君が止まる気がして。止まるのが嫌で。動くのが、いいと思ってた。ばねみたいにな。


父はそこで少し笑う。笑いがテープの中で揺れる。


――でも、ばねってのはな、戻る場所が必要なんだ。引っかけるところがないと、ただの輪っかで、どこにも力が伝わらない。君、最近、引っかけるところがない顔してた。俺が勝手にそう思っただけかもしれん。でも、そう見えた。


父の声が少し低くなる。


――俺は、君に何かしてやれたか分からん。金のことも、家のことも、全部ちゃんとできたとは言えん。けど、ひとつだけ言えるのはな、君は“ついてない”だけじゃないってことだ。運が悪いって意味じゃない。付くものがないって意味でもない。君には、付けられる。どこにでも。自分で。…そういう人だ。


私は目を閉じた。涙は出なかった。泣き方を忘れたわけじゃない。ただ、涙が出るほど単純な気持ちじゃなかった。胸の中に、固い塊があって、それが少しずつ温まっていく感覚がある。温まると、硬さが変わる。壊れるのではなく、形が変わる。


――最後の宿題。答えはひとつじゃないって書いた。ばねは、金属でも、水でも、春でもいい。春はな、ついてない冬の次に来る。勝手に来る。けど、春が来ても、君が歩かなきゃ、君の中は春にならん。…だから歩け。怖くても。戻りたくても戻れなくても。俺がいなくても。俺がいないからこそ。


父は最後に、少し間を置く。


――それと、ソフトクリームの店、まだある。あそこのは、溶けるのが早い。ばねみたいだ。戻らないから、急いで食え。


再生が止まる。テープの回る音だけが少し続き、やがて静かになる。


私はラジカセの前に座ったまま、しばらく動けなかった。父の声が終わったのに、終わっていない気がした。宿題は、終わらせるものじゃない。続けるものだ。


机の上に、木箱がある。私は木箱の底をもう一度開け、バネを取り出し、湧水で見つけた爪の部品をそっと合わせた。ぴたりと噛み合う。私はその組み合わせを見て、初めて“直す”という感覚が自分の中に戻ってきたのを知った。


直すのは、壊れた玩具だけじゃない。


私は棚の隅に置かれていた、分解された古い目覚まし時計を手に取った。父が途中で止めたものだ。歯車が露出し、針が外れ、バネが外れている。私はそこに、ついてないバネを近づけた。もちろんそのままでは合わない。サイズが違う。けれど、合わないことが分かるのは、合う可能性を知っているからだ。


私は工具を手に取った。指が少し震えた。震えは怖さのせいではなく、久しぶりに何かが“戻ろう”としている震えだった。私は深呼吸をし、バネを指先で押さえ、爪を掛ける位置を探した。


父の言うとおり、答えはひとつじゃない。


バネは、ついてない。だから、つけられる。


外は相変わらず曇っていた。けれど、工房の窓から入る光が、さっきより少し白く見えた。春が来た、というには早い。でも、春じゃないほうのバネは、確かにここで湧いている。水みたいに、黙って、絶えず。


私は目覚まし時計の小さな歯車をひとつひとつはめ直しながら、ふと笑った。父の宿題は、きっと一生続く。解けても、解けなくても。ついてない日にも、付けられる日にも。


ラジカセのテープは止まっているのに、父の声はまだどこかで回っている気がした。


「急いで食え」


私は小さく呟いて、工具を握り直した。溶けるのが早いのは、ソフトクリームだけじゃない。気持ちも、時間も、油断すると溶けて形を失う。


だから私は、今日のところは直す。


自分の中の、ついてないバネを。

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