第6話 初授業(常識の完全破壊)
王立魔法学園。
それは王国全土から選び抜かれた、才能ある若者たちがその魔法技術を磨き上げ、将来の国家中枢を担うエリートとして育成される最高学府である。
石造りの荘厳な校舎、歴史と権威を感じさせる回廊、そして最新鋭の設備が整った演習場。
その一角に、他の教室とは明確に隔離された曰く付きの教室が存在した。
『特別選抜クラス』
聞こえはいいが、そこに集められた生徒たちの表情は一様に暗く、不満と諦観、そしてわずかな反骨心で濁っていた。
生徒は十五名。年齢は十四歳から十六歳が中心だ。
「……結局、俺たちは『厄介払い』ってことだろ」
窓際で腕を組み、忌々しそうに呟いたのは赤髪の長身な少年だった。
マルクス・フォン・ドラグーン。
武門の名家、ドラグーン侯爵家の嫡男。本来であれば学園のエリートコースである『火竜クラス』の筆頭に座るはずだった男だ。
「黙れ、マルクス。お前はまだマシだ。嫡男様だからな」
そう皮肉を返したのは、小柄だが目つきの鋭い少女だった。
「アタシみたいに、家伝の『土魔法』じゃなくて、なぜか『風魔法』の適性が出ちまった『属性不適合者』とは違う」
「どっちもどっちだ。結局、王家や学園上層部が決めた『模範的エリート』の枠から外れた、俺たちみたいな『規格外』や『落ちこぼれ』を集めたゴミ溜めだろ、ここは」
その通りだった。
ここにいるのはマルクスのように、才能は突出しているが性格や思想(血統主義)が過激すぎて持て余された者や、家系の得意魔法とは違う属性を持って生まれた者、あるいは魔力は膨大だが制御がまるでなっていない者など、既存の教育カリキュラムでは扱いきれない「問題児」ばかりだった。
「それにしても、講師は誰になるんだ? こんなクラス、誰も引き受けたがらないだろう」
「どうせ出世コースから外れた年寄りの魔術師だろ。俺たちに説教垂れて、適当に自習させて終わりだ」
教室全体が、そんな諦めと倦怠の空気に満ちていた。
その時、教室の扉が静かに開かれた。
生徒たちの視線が一斉に扉へと集まる。
そこに立っていた人物を見て、教室の空気が困惑、そして侮蔑へと一変した。
「……は?」
入ってきたのは二人組だった。
一人は信じられないほど美しい少女。
新雪のように白い肌、磨かれた銀食器のような髪。そして見る者すべてを凍らせるような、冷たく澄んだ蒼い瞳。
北の氷狼公爵家の令嬢、エレノア・フォン・アイスバーグ。
彼女がなぜここに? 彼女こそ次期首席と噂される完璧な天才のはずでは?
だが、生徒たちの視線はすぐに彼女の「隣」に釘付けになった。
エレノアが一歩下がり、恭しく道を開けた先に立っていたのは、一人の「子供」だった。
年は六歳か七歳か。
ふかふかの金髪に、幼さを残す(というより幼さしかない)顔立ち。
この学園の制服ではなく、ヴァルドスタ辺境伯家の紋章が入った上質な子供服を身に着けている。
その子供が教室を見渡し、なんの感慨もなさそうに教壇へと歩み寄った。
――いや、歩み寄ろうとしたが教壇が高すぎて登れない。
「……」
子供は無言で教壇の前に立ち尽くす。
教室は静まり返っていた。誰もがこの異常な光景の意味を理解できずにいた。
やがて、我慢しきれなくなった数名がクスクスと笑い声を漏らし始めた。
「おい、なんだアレ」
「迷子か?」
「いや、エレノア様が連れてきた……まさか弟君か? お遊びにしちゃ悪質だぞ」
エレノアが氷のような視線で、嘲笑した生徒たちを睨みつける。
そしてその子供――アルヴィス・フォン・ヴァルドスタは、一つため息をつくと、おもむろに右手を上げた。
ゴゴゴゴゴ……!
生徒たちの嘲笑が凍りついた。
アルヴィスの足元の床が、まるで生き物のように隆起し始めたのだ。
土魔法? いや、ここは石造りの校舎だ。
石の床がアルヴィスの意思に従い、彼を教壇の上まで持ち上げる「階段」と「演台」を、瞬時に構築した。
詠唱も、魔法陣も、一切なしに。
「な……!?」
「土木魔法……? いや、物質変性……?」
アルヴィスは、自分専用にカスタマイズされた演台(もちろん異能『物質生成』と『形状操作』の合わせ技だ)に立ち、ようやく生徒たちと同じ目線になると、冷めきった声で言った。
「今日からお前たちの指導を担当する、アルヴィス・フォン・ヴァルドスタだ」
自己紹介はそれだけだった。
教室の空気は、嘲笑から一転、警戒と混乱に満ちた。
「……ふざけるな」
その沈黙を破ったのはマルクスだった。
彼は椅子を蹴立てるように立ち上がり、アルヴィスを真正面から睨みつけた。
「ヴァルドスタだと? あの辺境伯家のガキか。神童だかなんだか知らねえが、ここは王立学園だぞ。お前のような赤ん坊が、俺たちに何を『指導』するってんだ!」
マルクスの怒声に、他の生徒たちも同調するように頷く。
「そうだ! 俺たちは実験動物じゃない!」
「王家は我々を愚弄しているのか!」
教室は、六歳の教師に対する反発で一気に沸騰した。
アルヴィスはその怒号の嵐を、まるで川のせせらぎでも聞くかのように無表情で受け流していた。
「……うるさい。静かにしろ」
アルヴィスの声は小さかった。
だが、その一言が発せられた瞬間、教室内の「音」が物理的に圧殺された。
生徒たちの怒声は喉から出ているはずなのに、鼓膜に届かない。
まるで分厚い壁に遮られたかのように、自分たちの声がくぐもって消えていく。
「なっ……!?」
「声が……!」
(『音響操作』。鼓膜に届く振動周波数を強制的に減衰させてるだけだ。うるさいのは嫌いだ)
アルヴィスは教室の後方に控えていたエレノアに目配せする。
エレノアが頷き、教室の壁際に移動した。
アルヴィスは演台の横に手をかざす。
異能『物質生成』。
光の粒子が集まり、この世界の教室には不釣り合いな巨大な黒板とチョークが出現した。
「最初の授業を始める。お前たちのその腐りきった『常識』を、一度更地にするための授業だ」
アルヴィスは(『念動力』でチョークを浮かせ)、黒板に文字を書き始めた。
『魔法 = 因果律改変能力』
「……いんがりつ?」
聞き慣れない言葉に、生徒たちが眉をひそめる。
「お前たちは『魔法』とは何か、定義できるか?」
アルヴィスの問いに、一人の優等生風の生徒がおずおずと手を挙げた。
「そ、それは……世界に満ちる魔力を用い、精霊や神々の御業を借りて奇跡を起こす術……であります」
「0点だ」
アルヴィスは即答で切り捨てた。
「ぜ、0点!?」
「それは『宗教』だ。あるいは『儀式』だ。俺が聞いているのは、『現象』としての定義だ」
アルヴィスは第2話でエレノアに説いた理論を、より冷徹に、より機能的に展開し始めた。
「いいか。この世界には『物理法則』という絶対のルールがある。モノは上から下に落ちる。水は冷やせば凍り、熱すれば蒸気になる。これが『原因(因)』と『結果(果)』だ」
アルヴィスはチョークを手から離す。
チョークは落ちなかった。アルヴィスの目の前で、ピタリと静止している。
「だが今、結果が変わった。俺は手を離した(原因)。しかしチョークは落ちなかった(結果)。なぜだ?」
「それは……先生が魔法を……」
「その通り。俺の『意思』が、『落ちる』という当然の結果を拒絶し、『止まる』という結果をこの世界に強制的に上書きしたんだ」
アルヴィスは生徒たちを一人一人見回す。
「魔法、奇跡、超能力……呼び方はどうでもいい。その本質は一つだ。『因果を意思の力で捻じ曲げる能力』。つまり『因果律改変能力』だ」
生徒たちは呆然としていた。
彼らが学んできた魔法理論とは、あまりにもかけ離れた冷徹で機械的な定義だった。
「お前たちが必死に覚えている『詠唱』や『魔法陣』はなんだ? あれは『儀式』だ。自分の脳を騙し、『俺はこれができる』と思い込ませるための精神的なスイッチ(プラシーボ)に過ぎん」
「な……!?」
「詠唱を侮辱する気か!」
「侮辱? 事実だ。精霊に祈らなければ火が出ないのか? 神に願わなければ傷が治らないのか? 違う。お前たちの『意思』が、魔力を触媒にして現象を改変しているだけだ。そこに精霊だの神だのという『解釈』を挟むから、無駄な工程が増え、発動が遅れる」
アルヴィスの言葉は、彼らがこれまで信じてきた魔法の神聖さ、血統の尊さを根こそぎ否定するものだった。
ついにマルクスが、我慢の限界を超えた。
「――黙れ、この異端者が!!」
マルクスの全身から、膨大な魔力が炎となって噴き上がった。
ドラグーン侯爵家が誇る最高位の火炎魔法。
「我が家の炎は、神聖なる竜の精霊より賜った聖なる力だ! それを『思い込み』だと!? その腐った舌を灰にしてくれる!」
マルクスは、六歳の子供相手に一切の手加減をしなかった。
彼が放ったのは対軍用の殲滅魔法。
「『猛る竜よ、その顎にて敵を喰らい尽くせ』――《ドラグーン・ブレイズ》!」
詠唱ミスか? 違う。怒りのあまり、彼はより強力な魔法をこの教室で発動させようとしていた。
「マルクス、やめろ! 教室が!」
他の生徒が悲鳴を上げる。
だが、アルヴィスは動じなかった。
マルクスが放とうとしている術式を『異能ライブラリ』で解析し、その非効率さに内心でため息をつく。
(……うるさい。エネルギー変換効率わずか40%。熱量が拡散しすぎて対象以外への被害が大きすぎる。三流の術式だ)
マルクスの魔法が完成する直前、アルヴィスは口を開いた。
「マルクス・フォン・ドラグーン」
「な、なんだ!」
「お前の得意魔法は『火炎魔法』だったな?」
「そうだ! これが最後の言葉だ!」
「では授業だ」
アルヴィスは、マルクスが放った超高熱の火球――教室一つを蒸発させるほどの熱量――に向かって、静かに右手をかざした。
「火とは熱だ。熱とは分子の振動だ」
異能『熱量操作』発動。
対象:マルクスの火球。
パラメータ:熱運動エネルギーを絶対零度(マイナス273.15℃)まで強制停止。
キィィィィン……!
耳鳴りのような甲高い音。
マルクスが放った灼熱の火球が、アルヴィスの目の前でその形を保ったまま「白く」変色した。
熱が一瞬にして奪われたのだ。
それは「凍った」のではない。
炎という「現象」そのものが熱量を失い、「炎の形をした固体窒素と固体酸素の塊」へと強制的に変貌させられたのだ。
「な……?」
マルクスが、信じられないものを見たという顔で硬直する。
アルヴィスが指を軽く振る。
絶対零度の「炎の残骸」は自重を支えきれず床に落ちて、ガラスのように砕け散った。
「な、な、なな……」
マルクスの口から、意味のある言葉が出てこない。
他の生徒たちも同じだった。
「火が……氷に……?」
「いや違う……詠唱もなしに……魔法を打ち消した……?」
「そもそも、あのガキ、魔力を一切使ってないぞ……?」
彼らには、アルヴィスが異能を使ったことなどわからない。
ただ、自分たちの常識の範疇外の「何か」が、最強格の火炎魔法をまるで子供の火遊びでも消すかのように無効化したという事実だけが、目の前に突きつけられた。
「……これがお前の言う『聖なる力』か?」
アルヴィスは砕け散った氷の欠片を『念動力』で拾い上げ、マルクスの目の前に浮かべる。
「熱量を奪えば、ただのゴミだ。お前の信仰も血統も、その程度だということだ」
「あ……あ……」
マルクスの膝がガクガクと震え始めた。
プライドが、自尊心が、そして信じてきた世界の全てが、目の前で粉々に砕け散った音だった。
アルヴィスは、恐怖に染まった教室全体を見渡し、最後の通告を叩きつけた。
「いいか、もう一度言う。お前たちの『常識』は今日この瞬間をもって、全て捨てろ」
その声は、もはや六歳の子供のものではなかった。
幾多の死線を越え、人類の存亡を背負い、最強の敵とすら渡り合った絶対強者のそれだった。
「俺が教えるのは、精霊に祈る『魔法ごっこ』ではない。因果を捻じ曲げ、世界を騙し、敵を殺すための冷徹な『技術』だ」
アルヴィスは演台から降り(隆起させた床を元に戻し)、教室の出口を指差した。
「俺の授業(地獄)についてこれない奴は、今すぐ去れ。ここはお前たちのようなエリート様(お坊ちゃん)が来る場所じゃない。俺はお前たちを『化物』にするつもりで来たんだ。その覚悟がないなら消えろ」
その言葉に数人の生徒が、安堵したように、あるいは屈辱に顔を歪ませながら椅子から立ち上がろうとした。
(やっと帰れる)
(こんな狂った授業、受けてたまるか)
(家に帰って父上に報告すれば、こんなガキすぐにクビにできるはずだ)
彼らが希望を胸に一歩を踏み出そうとしたその瞬間。
ズンッ。
教室全体が重くなった。
「あれ……?」
立ち上がろうとした生徒が、見えない力で椅子に押し戻される。
「なんだ……? 身体が……鉛のように……」
「息が……苦しい……」
アルヴィスは教室の扉の前で振り返り、冷酷な笑みを浮かべていた。
異能『重力操作』。
教室全域の重力係数を、1.5Gに設定。
「――ああ、言い忘れていた」
アルヴィスは、這いつくばろうとする生徒たちを見下ろす。
たった1.5倍。
だが、鍛えていないエリート魔術師たちにとって、それは突然自分の体重の半分の人間を背負わされたのに等しい負荷だった。
教室の中で唯一平然と立っているのは、師匠の意図を正確に理解しているエレノアだけだった。
彼女はこの程度では、眉一つ動かさない。
「『ついてこれない奴は去れ』と言ったな。訂正する」
アルヴィスは教室の扉を指差した。
その距離、わずか十数メートル。
だが今の彼らにとって、それは絶望的なほど遠い距離だった。
「――この圧力を跳ね除けて、自力でこの教室の扉から出て行けたらの話だがな」
マルクスは床に両手をつき、屈辱に震えていた。
プライドも血統も自慢の魔法も、この理不尽な「重さ」の前では何の意味もなさない。
「ぐ……うう……! き、貴様……! 我らをどうする気だ……!」
「どうするもこうするも、授業の続きだ」
アルヴィスは、まるで楽しい玩具を見つけた子供のような、残酷な笑みを浮かべた。
「まずは基礎体力(肉体改造)からだ。お前ら全員、その重力下で俺の弟子がやる基礎訓練(20G相当)のメニューをこなしてもらう。もちろん立てるようになるまで、食事も睡眠もなしだ」
「「「な…………!?」」」
生徒たちは床に這いつくばり、絶望に目を見開いた。
今日この日、この瞬間。
彼らは自分たちが足を踏み入れた「特別選抜クラス」が、エリートの学園生活とは似ても似つかぬ、本物の「地獄」の入り口であったことを、その肉体で理解させられたのだった。




