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第5話 召喚と受諾(平穏のための取引)

 北の地を治める氷狼公爵家アイスバーグの屋敷は、静かな緊張に包まれていた。

 当主である氷狼公爵――エレノアの父は、数日ぶりに屋敷に戻った娘の姿に、僅かな違和感を覚えていた。


「……戻ったか、エレノア。辺境伯家での顔合わせ、ご苦労だった」

「ただいま戻りました、お父様」


 娘は完璧なカーテシーと共に応える。

 所作は変わらない。だが、何かが決定的に違っていた。


 以前の娘は、磨き上げられた氷の彫像だった。冷たく、美しく、他者を寄せ付けない絶対のプライド。

 だが今の娘は違う。

 瞳の奥に、ギラギラと燃え盛る炎のような、あるいは獲物を見つけた肉食獣のような強烈な「渇望」が宿っている。


「噂は聞いている。ヴァルドスタ家のアルヴィス殿と、何やらあったそうだな。婚約の話は一旦保留とし、『弟子』になったと」

「はい。わたくしは、生涯の師を得ました」


 エレノアの返答に、公爵は眉をひそめた。

 あのプライドの高い娘が、同い年の、それも辺境伯の子供を「師」と呼ぶ。

 その事実だけで、異常事態だった。


「して、その『師』に何を学んだ? 我が家の魔法理論を捨て、異端に堕ちたわけではあるまいな」


 公爵の隣に控えていた、アイスバーグ家魔法指南役の老魔術師が、侮蔑を隠さずに言った。


 エレノアは静かに微笑んだ。それはかつての冷笑ではない。絶対的な自信に裏打ちされた、強者の笑みだった。


「お父様。わたくしが学んだのは、この世界の『常識』が、いかに矮小であったかという事実ですわ」

「……見せてみよ」


 公爵の低い声が、中庭に響いた。


 エレノアは、中庭の中央にある三層の噴水に向き直った。

 老指南役が「詠唱を拝見しよう。辺境伯の子供がどのような術式を――」と言いかけた、その瞬間。


 エレノアは、ただ手をかざしただけだった。


 ――キィン。


 世界から音が消えた。

 噴水から噴き上がっていた水が、その飛沫の一粒一粒に至るまで、空中で「停止」した。

 それは凍結ではなかった。水が氷に変わる「過程」すら許されず、分子運動そのものを停止させられた、物理法則の「死」だった。


「なっ……!?」


 指南役が絶句する。

 詠唱がない。魔法陣の展開もない。魔力の高まりすら、極限まで抑えられていた。


「ば、馬鹿な! 詠唱破棄など! そのようなものは術式の安定性を欠く邪道! まぐれだ!」


 老指南役は、自らの常識が破壊されたことに狼狽し、エレノアに向かって杖を向けた。


「エレノア様! 目を覚まされよ! 我が氷槍アイスランスで、その異端の魔力を浄化してくれる!」


 老人が高速詠唱を開始する。アイスバーグ家に伝わる強力な氷魔法だ。

 だがエレノアは、微動だにしなかった。


 彼女の脳裏に、アルヴィスの声が響く。


『――詠唱が終わる前に殴って黙らせろ』

『――お前の身体は、もう人間のそれじゃない』


「……遅すぎますわ」


 ドゴォッ!!!


 轟音。

 エレノアが立っていた地面が、爆発したかのように砕け散った。

 彼女の姿は、認識が追いつく前に、すでに詠唱中の老指南役の背後に回り込んでいた。


「え……?」


 老人が硬直する。

 エレノアの白魚のような指先が、その首筋に、寸止めで突きつけられていた。


「師匠の重力訓練(13G)に比べれば、あなたの魔力も動きも、すべてが止まって見えますわ」

「ひ……っ」


 老指南役は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 公爵は、噴水の異様な静止と、音速を超えた娘の動きを目の当たりにし、ゴクリと喉を鳴らした。


 これは従来の魔法体系ではない。

 たった数日で、自分の娘が「怪物」に変貌してしまった。

 そしてその「怪物」を生み出したのは、ヴァルドスタ辺境伯家の六歳の「神童」。


「……直ちに王家にご報告申し上げる。この件は、もはや我が家とヴァルドスタ家だけで扱える問題ではない」


 公爵は、これが国の勢力図を根底から覆しかねない「戦略級」の技術革新であると、即座に判断したのだった。


          ◇


 その数日後。

 ヴァルドスタ辺境伯家、アルヴィスの自室。


 俺は「気楽な隠居生活」の素晴らしさを満喫していた。


(最高だ……)


 豪華なベッドの上で寝転がりながら、『重力操作』で歴史書を宙に浮かせて読む。

 喉が渇けば『念動力』で、テーブルの上のクッキーと紅茶を口元まで運ばせる。

 メイドが掃除に入ってきても、俺は指一本動かす必要がない。


 前世は人類の存亡を背負い、息つく暇もなかった。

 それに比べれば、ここは天国だ。

 あの面倒くさい弟子エレノアも実家に帰り、ようやく手に入れた平穏。


(このままあと十年はゴロゴロしていたい)


 俺がそんな甘い夢を描いていた、その時だった。


「――アル! アルヴィスよぉぉぉ!!」


 執務室の扉が、戦闘で蹴破るような勢いで開かれた。

 飛び込んできたのは、俺の父、ガラルド・フォン・ヴァルドスタ。

 その手には、王家の紋章が刻まれた禍々しい一通の羊皮紙が握られていた。


「来たぞ! ついに来たぞ、アル!」

「……父上。ノックをしてくださいと、いつも言っているでしょう」

「そんなことはどうでもいい! 見ろ! 王家からの召喚状だ!」


 ガラルドは俺の目の前に召喚状を叩きつけるように広げた。

 その顔は、武功を立てた時以上に喜びに満ちている。


「ついに我が家の神童が王宮デビューか! 王様がお前の才能に気づかれたのだ! ハッハッハ!」


 俺はその召喚状の文面を見て、深く、深ーーーーーいため息をついた。


(……最高に面倒くさい)


 召喚状には「アルヴィス・フォン・ヴァルドスタ」の名と共に、「エレノア・フォン・アイスバーグ嬢と共に」と、きっちり明記されていた。


(あのバカ弟子、絶対にやらかしたな)


 俺の脳裏に、目をキラキラさせながら「師匠の御業、お父様に見せつけてまいりますわ!」と息巻いていたエレノアの顔が浮かんだ。

 あの性格だ。成果を隠すという発想が、ミリグラムもないことはわかっていた。

 むしろ師匠の教えの正しさを証明したくて、ウズウズしていたに違いない。


 その結果がこれだ。

 王家からの召喚。隠居生活とは対極にある、最悪のイベントフラグである。


          ◇


 王都までの道のりは、存外に快適だった。

 ヴァルドスタ家の紋章を掲げた馬車は、王都に近づくにつれ、氷狼公爵家の馬車と合流した。

 護衛兼付き添いとして同行した父ガラルドと氷狼公爵が、馬上で難しい顔をして言葉を交わしている。


 俺が馬車の窓から外を眺めていると、公爵家の馬車から銀色の弾丸が飛び出してきた。


「師匠! アルヴィス様! お久しぶりですわ!」


 エレノアだった。

 彼女は護衛の制止も聞かず、馬車から飛び降りるなり、こちらに全力疾走してくる。

 その動きは、すでに常人のそれではない。

 地面を蹴るたびに、彼女の足元の小石が弾け飛んでいる。


「師匠! ご報告があります! あの後の自主練(重力訓練)で、ついに常時15Gの負荷を達成いたしましたの!」

「……声が大きい。あと、魔力垂れ流しの制御が甘いぞ。お前の周りだけ、空気がうっすら白く凍ってる」


 俺は冷静にダメ出しをする。

 周囲の護衛騎士たちが「じゅ、15G…?」と、意味不明な単語に困惑している。

 氷狼公爵がガラルドに向かって苦笑いしつつも、畏敬の念を込めて頭を下げた。


「ガラルド殿……。貴殿のご子息は、我々の理解を遥かに超えておられる。我が娘は、もはや我が家の魔法指南役では手も足も出ぬ『怪物』になってしまった」


 父ガラルドは「ははあ……」と、自分の息子の偉業なのかどうかも判断がつかない様子で、曖昧に頷いていた。


 王城、玉座の間。

 そこは無駄に広く、無駄に豪華で、そして無駄に緊張感が漂っていた。


 玉座に座るのは、この国の頂点に立つ国王ゼノン。その両脇を、宰相や近衛騎士団長といった国の重鎮たちが固めている。


 俺とエレノア、そして父ガラルドと氷狼公爵の四人は、玉座の前で跪かされている。

 まあ俺は六歳児の身体なので、跪くというより、ちょこんと座っているようにしか見えないだろうが。


「面を上げよ」


 国王の重々しい声が響く。

 同時に玉座から、威圧(王気)と呼ばれる魔力の圧力が放たれた。臣下を萎縮させ、忠誠を試すためのものだ。

 ガラルドと公爵が、わずかに身を固くする。

 だが俺には、そよ風程度にしか感じられなかった。


(……これが王か。魔力はそこそこだが、鍛え方がなってない。指向性も甘いし、圧力も低い。前世の教え子たち(準最強の二十人)の足元にも及ばんな)


 俺が平然と国王を「採点」していると、国王が俺のその態度に、わずかに目を見開いた。

 彼は、公爵から送られた報告書に目を通しながら、重々しく口を開いた。


「氷狼公爵令嬢エレノアよ。公爵の報告は真か? 其方、詠唱を破棄し、かつ騎士を超える身体能力を身につけたと」

「はい。真実にございます。すべて我が師、アルヴィス・フォン・ヴァルドスタ様のご指導の賜物ですわ」


 エレノアは毅然とした態度で答えた。

 その言葉に、玉座の間の全ての視線が、俺という一点に集中した。


「……ほう」


 国王の視線が、俺を射抜く。


「ヴァルドスタ辺境伯子息アルヴィスよ。其方まだ六歳と聞く。その幼さで、公爵家の天才令嬢を『指導』したと?」

「事実です」


 俺は短く応えた。


 国王は試すように、俺への威圧をさらに強める。

 俺は内心でため息をつき、ストックしてある一万の異能の中から、ごく微量の『精神干渉(威圧)』をカウンターで返してやった。


 国王の身体が、玉座の上でピクリと震えた。


「……面白い。ではその力を、ここでちんに見せよ」


 国王の命令で、急遽玉座の間での模擬戦が執り行われることになった。


 相手として進み出たのは、近衛騎士団最強と謳われる魔法騎士ガウェイン。全身を魔法金属ミスリルの鎧で固めた大男だ。


「陛下。相手は六歳の子供ですぞ。手加減が……」

「無用だ。エレノア嬢よ、かかれ」


 ガウェインが、油断しきった顔で剣を構える。

 エレノアが、俺の方を振り返った。

 俺は彼女に向かって口パクで(正確には『テレパシー』で)指示を送る。


『殺すな。半殺しでいい。鎧だけ壊せ』

『御意に、師匠』


 模擬戦開始の合図が響く。


「いざ尋常に! 我が身に力の祝福ブーストを――」


 ガウェインが身体強化の詠唱を始めようとした、その刹那。


 エレノアの姿が、玉座の間から消えた。


 次の瞬間、玉座の間の壁に、凄まじい轟音と共に人間大の穴が空いた。

 ガウェインだった。

 彼は何が起きたのか理解できない顔のまま、鎧を無残に砕かれ、壁に「めり込ん」で気絶していた。


 エレノアはいつの間にか元の位置に戻り、ドレスの埃を払っている。


「……少々力が入りすぎましたわ。鎧が脆すぎますの」


 玉座の間は、水を打ったように静まり返った。

 国王も宰相も近衛騎士たちも、自分たちの最強戦力が六歳の少女に一撃で、それも詠唱も魔法も使わずに「殴り倒された」という事実が理解できずにいた。


 国王が震える声で、俺に問うた。


「……アルヴィス・フォン・ヴァルドスタ。これが其方の『技術』か」


 国王の顔から余裕は消えていた。

 あるのは「懸念」と「恐怖」、そしてわずかな「欲望」。


 彼は理解したのだ。

 これは従来の魔法体系を逸脱した、危険な「異端技術」であると。


 これがもし他国に渡れば? あるいはアルヴィスとエレノアが王家に牙をむけば?

 この国の軍隊は、先ほどのガウェインのようになすすべもなく蹂躙されるだろう。


 だが逆に。

 これを王家が独占し、管理できれば、「他国を圧倒しうる切り札」となる。


 国王は数秒の沈黙の後、決断した。


「アルヴィスよ。その技術、高く評価する。だがその力はあまりに強大だ。個人の手に余る」


 玉座から、王としての命令が下される。


「その技術を秘匿・独占せず、王国の管理下で指導せよ」


 来たか。

 俺が予想していた中で、最悪のパターンだ。


「具体的には、其方には『王立魔法学園』に新設する『特別選抜クラス』の専任講師となってもらう。国の宝であるエリートたちを、エレノア嬢のように鍛え上げてみせよ」


 父ガラルドと氷狼公爵が息をのむ。

 六歳児が王立学園の、それも特別クラスの講師。前代未聞どころの話ではない。


 俺は内心で舌打ちした。


(隠居生活が……。だがここで断ればどうなる?)


 俺の脳が高速でシミュレーションを開始する。


 拒否した場合、俺とエレノア、そしてヴァルドスタ家とアイスバーグ家は、即座に「王家に牙をむく危険分子」として認定される。

 暗殺者が送られてくるだろう。領地には討伐軍が派遣されるかもしれない。


 そうなれば、俺の目指す「気楽な隠居生活」は、完全に不可能となる。


(……逆に教師になるのは?)


 学園という安全圏(結界)の内側に、公務員として潜り込める。給料も出る。

 教える相手はどうせ、世間知らずの貴族のガキどもだ。前世で「厄災の王」と戦う前の、冴えない講師時代にやっていたことと同じだ。


 むしろ好都合かもしれない。

 そいつらを徹底的に鍛え上げれば、そいつらが将来、魔物や他国からこの国を守る「俺の代わりの防波堤」になってくれる。


(……面倒だが、これが一番『マシ』な選択肢か)


 俺は思考を中断し、顔を上げた。


「承知いたしました、陛下」


 俺の即答に、玉座の間の張り詰めた空気が、わずかに安堵に変わった。

 だが俺は、言葉を続けた。


「ただし、条件がございます」


 六歳児の身体から発せられたとは思えない、冷徹で有無を言わせぬ声が、玉座の間に響く。


「私が受け持つクラスの教育方針、訓練内容、生徒の選定およびその評価については、陛下を含め、学園の誰であろうと、一切の口出しを無用とさせていただきます」


 空気が再び凍りついた。

 国王に対し、一貴族の子供が「指図するな」と言い放ったのだ。


 宰相が「この無礼者がっ!」と、顔を真っ赤にして叫ぼうとする。


 だが俺は構わず続けた。


「……よろしいですね?」


 俺は、俺の魂に刻まれた一万八百の異能の、そのほんの僅かな「格」を解放した。


 それは魔力ではない。

 空間を喰らい、時間を歪め、因果律すらねじ曲げる「厄災の王」と、たった一人で相打ちにまで持ち込んだ、『現代最強』の魂の圧。


 玉座の国王が、金縛りにあったかのように硬直した。

 彼は見たのだ。


 目の前の六歳の子供の背後に、世界そのものを呑み込むかのような、底知れぬ深淵が口を開けているのを。


 国王は震える手で、宰相の言葉を制した。


「……よかろう。認める。王国の未来、其方に託そう」


 国王はこの瞬間、アルヴィス・フォン・ヴァルドスタを「臣下」として扱うのではなく、王家が手懐けるべき「戦略兵器」、あるいは「人知を超えた災害」として扱うことを、本能で選んだのだった。


 謁見は終わった。


 城の長い廊下を、父ガラルドは「アルよ、お前は凄いぞ! 陛下と取引までするとは!」と、まだ興奮冷めやらぬ様子で俺の背中を叩いている。

 エレノアは「師匠の授業が毎日王都で受けられますのね! 素晴らしいですわ!」と、心の底から嬉しそうに目を輝かせている。


 俺は一人、この日一番の深いため息をついた。


(はぁ……。気楽な隠居生活、開幕早々頓挫かよ)


 ようやく手に入れたはずの、二度目の平穏な人生。

 だが俺の顔には、いつの間にか前世で生徒たちを地獄の訓練に叩き落とす時の、あの教官としての笑みが浮かんでいた。


(まあいい。どうせなら徹底的にやってやるか)


 前世では異能を隠し、力を制限しながら生徒を導かねばならなかった。

 だが今度は違う。

 王様から「一切の口出し無用」のお墨付きをもらったのだ。


(この世界の『常識』ってやつを、俺の異能理論で根底から叩き潰してやる)


 こうして現代最強の異能者は、「王立魔法学園特別講師」という面倒な役職を拝命し、魔法世界の旧態依然とした常識を破壊する舞台へと、強制的に立たされることになったのだった。

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