第4話 限界突破と魔力の本質
どれほどの時間が経っただろうか。
エレノア・フォン・アイスバーグは、もはや時間の感覚はおろか、自分が何をしているのかさえ曖昧になっていた。
(苦しい……痛い……重い……)
全身を万力で締め上げられ、巨大な鉄板でプレスされ続けるような、絶え間ない圧迫感。
13G――通常の十三倍の重力。
それは、ただ存在するだけで内臓が軋み、骨が悲鳴を上げ、血液が四肢の末端から心臓に戻ることすら拒否する、生物の生存を許さない環境だった。
彼女の視界の端には、この地獄の元凶である師匠が、優雅に椅子に座って読書にふけっている姿が映っていた。
時折、本のページをめくる「パラリ」という乾いた音だけが、彼女の耳に届く。
その音は、まるで自分を嘲笑うかのように、エレノアのプライドを削っていく。
(わたくしは……氷狼公爵家の天才……。こんな、こんなところで土に汚れて……這いつくばって……!)
悔しさがこみ上げる。
だが、それ以上に強烈なのが、どうしようもない「無力感」だった。
自慢の魔力も、家伝の魔法も、この圧倒的な物理法則の前では、何の役にも立たない。
「……立て」
読書に飽きたのか、師匠が不意に声をかけてきた。
「立てと言っている。いつまで寝ているつもりだ。日が暮れるぞ」
「む、無理ですわ……! 指一本動かすのさえ……!」
「嘘をつけ。声が出ている。まだ余力がある証拠だ」
アルヴィスは椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その影が、地面にへばりつく彼女を覆い隠した。
「いいか、エレノア。お前は根本的に間違っている」
「ま、間違い……?」
「そうだ。お前は今、『肉体の力』で立とうとしている。だから立てない」
「で、ですが師匠が身体能力強化で立てと……」
「そう言ったな。だが、お前がやっているのは、魔力で筋肉を『補助』しているだけだ。ガソリンが足りない車に、後ろから手で押してやっているようなものだ。焼け石に水だ」
アルヴィスはエレノアの目の前にしゃがみ込み、彼女の額をツンと指で突いた。
「魔力で『肉体を作り替えろ』と言っているんだ。骨を鋼鉄に、筋肉をワイヤーに。お前の身体を、この重力下でも稼働できる『別のナニカ』に変貌させるんだ」
「つ、作り替える……?」
「そうだ。魔力を細胞の一つ一つに浸透させろ。血液のように全身を循環させ、魔力そのものを第二の骨格、第二の筋肉として機能させるんだ」
あまりにも荒唐無稽な理論。
魔力は「燃料」であり、「道具」だ。それを「肉体そのもの」にするなど、聞いたこともない。
「……イメージしろ。お前の肉体は、ただの『器』だ。今、その器は十三倍の重力でひび割れ、砕け散ろうとしている。ならば、内側から魔力という『接着剤』で固め、補強し、塗り潰し、原型がなくなるまでコーティングしてしまえばいい」
「そんな……無茶苦茶ですわ……!」
「無茶苦茶だからやるんだ。常識的な訓練で、常識外れの強さが手に入るか」
アルヴィスの金色の瞳が、エレノアを射抜く。
それは、教え導く教師の目ではなく、素材を吟味する職人の目だった。
彼は彼女の「可能性」を見ているのではない。彼女が「使える道具」になるかどうかを、冷徹に判断している。
(この人は……本気だ)
このまま立てなければ、本当に自分はここで見捨てられる。
夕食抜きどころの話ではない。この男の興味を失う。
それは、この圧倒的な「力」への道を閉ざされること。
それだけは嫌だ。
(……負けたくない。わたくしは、まだ……!)
エレノアは奥歯を噛み締めた。
彼女は師匠の言葉を反芻する。
『肉体を作り替えろ』『魔力を第二の骨格に』
(……そうか。わたくしは魔力を『使おう』としていた。違う。魔力に『なれば』いいんだ……!)
カチリと。
彼女の中で、何かの歯車が噛み合った音がした。
今まで「外側」に向けていた魔力の流れを内側へ、自分の肉体の深淵へと逆流させる。
熱い。
全身の血管が、魔力という高圧の奔流によって焼き切れそうになる。
骨が軋む。筋肉が悲鳴を上げる。
だが、今までの「圧迫される痛み」とは違う。
これは内側から爆発するような「変態」の痛みだ。
「ん……ぐううううううぅぅぅぅぅ!!!!」
声にならない絶叫が漏れる。
エレノアの全身から、制御を失ったかのような蒼白い魔力が、オーラとなって噴き出した。
ズ……。
地面にへばりついていた指先が、土を掴む。
ピクリとも動かなかった腕が、震えながらも肘を立てようとする。
(立てる……? 違う、動く……!)
重い。相変わらず身体は鉛のようだ。
だが、その鉛の身体を動かすための「何か」が、今自分の内側で脈打っている。
「そうだ。その感覚だ。そのまま魔力を定着させろ。お前の『普通』をその状態に書き換えろ」
アルヴィスの冷たい声が、熱に浮かされた彼女の意識を導く。
ズズズ……。
膝が立つ。
片膝立ちの姿勢。
泥だらけのドレスも、乱れた銀髪も、今の彼女には関係なかった。
ただ一点、地面を睨みつけ、重力という絶対的な敵と戦う。
「……っはぁ……!」
息を吐き出す。
魔力を吸い込む。
そして、最後の一滴の気力を振り絞り、彼女はもう片方の足を大地にねじ込んだ。
ミシリと。
全身の骨が、魔力によって補強され、悲鳴を上げる。
そして。
「……たった……」
震える両足で、エレノア・フォン・アイスバーグは、13Gの重力下でついに「直立」した。
「……立ちましたわ……師匠……っ!」
荒い息の中、絞り出した勝利宣言。
彼女が顔を上げると、そこには相変わらず感情の読めない顔をした師匠が立っていた。
「ああ、立ったな」
アルヴィスはこともなげにそう言うと、パチンと指を鳴らした。
瞬間。
エレノアの身体を押し潰していた、あの忌まわしい重圧が、嘘のように消え去った。
「え……?」
全身全霊で重力に抗っていた彼女の身体から、急激に「敵」が消える。
それは、全力で綱引きをしていたロープが、突然切れたようなものだった。
「あっ――きゃあ!?」
魔力で強化されすぎた身体は、もはや彼女自身の制御下になかった。
ただ「立っていた」だけなのに、その反動で彼女の身体は、ロケットのように真上へ射出された。
「なななな!? また浮きま――」
今度は無重力ではない。
純粋な脚力による跳躍だ。
彼女は自分の意図とは無関係に、空高く数メートルも跳び上がり、そして重力に従って再び落下を始めた。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
地面に激突する――かと思われた瞬間。
ふわりと。
今度は優しい風の魔法(もちろんアルヴィスの異能だ)が彼女を受け止め、そっと地面に降ろした。
「……はぁ……はぁ……。い、今のは……?」
エレノアは、自分の足が地面についていることに安堵しながら、師匠を見上げた。
「おめでとう。第一段階合格だ」
「ご、合格……」
「今の身体の感覚、どうだ? 何か変わったか?」
アルヴィスに言われ、エレノアは恐る恐る自分の身体を確かめる。
泥だらけで汗まみれ。疲労は困憊しているはずなのに……。
(……軽い)
信じられないほど、身体が軽い。
まるで羽毛にでもなったかのようだ。
さっきまでの重圧が嘘のように、今は空さえ飛べそうな万能感に満ちている。
「……力がみなぎって……?」
彼女は自分の手を見つめる。
白魚のような指先。
だが、その皮膚の下で、魔力が血液と共に凄まじい速度で循環しているのが「視える」ようだった。
「それが魔力強化の本当の姿だ。お前の肉体(器)が、高密度の魔力循環に耐えられるように進化した証拠だ」
アルヴィスは、泥だらけの彼女に無情な指示を出す。
「突っ立ってないで、演習場の端まで走ってこい。全力でだ」
「え、あ、はい!」
思考する余裕もない。
命令されるがまま、エレノアは地面を蹴った。
ただ軽く「走ろう」と思っただけだった。
ドゴォッ!!!
轟音。
彼女が立っていた地面が、爆発したかのようにクレーター状に陥没した。
「え?」
彼女がそう認識した瞬間、彼女の身体はすでに演習場の対極、百メートル先の壁に叩きつけられていた。
「がっ……!?」
壁に激突した衝撃で、ようやく自分が「移動した」ことを理解する。
音速を超えていた。
本人の認識が、自らの動きに全く追いついていなかった。
「……何が起きたの……?」
壁からずり落ちながら、彼女は呆然と呟く。
アルヴィスがいつの間にか(瞬間移動したのだろう)彼女の隣に立っていた。
「言っただろ。お前は強くなった。今のお前は、そこらの騎士が束になっても、触れることすらできないぞ」
「……これが、わたくし……?」
「そうだ。肉体の常識を書き換えた結果だ。これでようやく、スタートラインに立てたな」
アルヴィスは、未だに状況が飲み込めていない弟子に、次の課題を突きつけた。
「いいかエレノア。お前の身体は今、高性能な『エンジン』を積んだ状態だ。だが肝心の『武器』、お前の氷魔法は旧式のままだ」
「わ、わたくしの氷魔法が……旧式……?」
「ああ。詠唱に頼り、精霊に祈るあの非効率なやり方だ。せっかくの超高性能な身体が泣いている」
アルヴィスは、演習場の隅にある池を指差す。
「次のレッスンだ。あの池を凍らせてみろ。詠唱なしでだ」
「む、無理ですわ! あんな広範囲、無詠唱だなんて……!」
「さっきまでの常識で考えるな。今の、強化されたお前の脳と肉体ならできる」
アルヴィスは、彼女の耳元で悪魔のように囁いた。
「思い出せ。魔法とは何か?」
「……因果律改変能力……」
「氷魔法の原理は?」
「……熱エネルギーを奪うこと……」
「そうだ。ならやることは一つ。あの池から熱を『奪え』。ただそれだけを意思しろ」
エレノアはフラフラと立ち上がり、池に向かって手をかざす。
さっきまでの彼女なら、魔力を集中させ「氷よ来たれ」とイメージしただろう。
だが今の彼女は違った。
十三倍の重力に耐え、肉体を魔力で再構築した彼女の「意思」は、鋼のように研ぎ澄まされていた。
(熱を奪う……)
彼女がそう念じた瞬間。
世界から「音」が消えた。
ゴボッという水の沸騰するような音ではない。
パリパリという凍結音でもない。
ただ静かに。
池の水面から水底まで、一瞬にして「絶対零度」の領域に叩き込まれたのだ。
水は氷になる「過程」すら許されず、その場にあった分子構造のまま「停止」した。
美しい氷像となった池。
それは、彼女が今まで使っていた「氷魔法」とは似ても似つかぬ、物理法則の「死」そのものだった。
「……あ……」
エレノアは、自分の指先から放たれた現象を見て震えた。
「上出来だ。それがお前の新しい力だ。使いこなせ」
アルヴィスは満足そうに頷き、ポンと彼女の頭(泥だらけだが)に手を置いた。
「おめでとう、エレノア。お前は今日、ただの『天才』から、一人の『化物』になった」
その言葉は、彼女にとってどんな賛辞よりも甘美な響きを持っていた。
こうして、泥まみれの公爵令嬢は、最強への第一歩を踏み出したのである。




