第3話 重力と根性、あるいは乙女の尊厳について
数日後。
ヴァルドスタ辺境伯家の裏手に広がる、人払いがされた演習場。
そこは今、奇妙な熱気に包まれていた。
「――よし、前回の復習だ。魔力解放の維持はどうだ?」
俺はパイプ椅子(土魔法で適当に作ったものだ)に座り、目の前の少女を見上げた。
エレノア・フォン・アイスバーグ。
彼女は豪奢なドレスを翻し、少しだけ誇らしげに胸を張っている。
その周囲には、目に見えないが濃密な魔力の波が、以前よりずっと安定した状態で漂っていた。
「完璧ですわ! 寝ている間も、お風呂に入っている間も、一瞬たりとも途切れさせていません! おかげで万年睡眠不足で、肌荒れが気になりますけれど!」
「文句を言う元気があるなら上等だ。魔力回路が拡張され始めている証拠だな」
俺は満足げに頷いた。
やはり彼女の才能は素晴らしい。
普通の魔導師なら「魔力酔い」で三日は寝込むような負荷を、根性だけで乗り越えている。
「ところで今日は、新しい訓練に入る前に、少し確認しておきたいことがある」
「なんですの? 師匠」
「この世界の魔法使いの『常識』についてだ。魔法には属性……つまり得意分野があるよな?」
俺の問いかけに、エレノアは待ってましたと言わんばかりに表情を輝かせた。
前回の授業では、俺に一方的に常識を破壊されたため、自分の知っている知識を披露できるターンが来たことが嬉しいのだろう。
ご機嫌な様子で、彼女は人差し指を立てて解説を始めた。
「ええ、そうですわ! 基本的には家系、つまり血統によって、得意な魔法属性は決まりますの! わたくしの家なら『氷』、アルヴィス様の家なら『火』といった具合ですわね」
ふむふむ、と俺は頷くふりをする。
遺伝子レベルで魔力の波長が固定されているということか。不便な話だ。
「もちろん複数属性持ち(マルチ)もいることにはいますが、極めて稀ですわ。それに複数の属性に手を出すと、どれも中途半端になって大成しない、というのが通説です。ですから、自分の最も得意な魔法一つを極限まで磨き上げる……それが一流への道であり、この世界の常識ですわ!」
エレノアは自信満々に言い切った。
なるほど。一点突破主義か。
職人気質といえば聞こえはいいが、要するに「汎用性の欠如」を「専門性」という言葉で誤魔化しているだけだ。
「ついでに聞くが、身体能力強化はどうだ? 魔法使いが前線で殴り合うようなことはあるのか?」
「まさか! 野蛮ですわ!」
エレノアは即座に否定した。
「魔法使いは後衛職ですもの。身体強化魔法なんて、騎士になれない魔力無しの落ちこぼれか、あるいは一部の変わり者が嗜む程度ですわ。貴重な魔力を肉体の強化なんかに回すくらいなら、一発でも多く攻撃魔法を撃つのがセオリーです」
「……なるほど。得意分野以外の魔法は使えない、身体強化は二の次。それが常識と」
「ええ、この世界の真理ですわ!」
彼女は胸を張る。
俺は内心で、深く溜め息をついた。
(平和ボケが過ぎるな……)
俺の前世の世界では、そんな甘い考えは通用しなかった。
異能者は常に死と隣り合わせだ。
火炎使いだろうが、念動力使いだろうが、敵に接近された瞬間に首を折られるようでは、三流以下の雑魚扱いだった。
『最低限の近接格闘能力』と『自己治癒能力』、そして『あらゆる状況に対応できる汎用性』。
これがなければ、あの地獄のような現代異能戦争では生き残れなかった。
「……まあ、俺はあらゆることができるが……」
「えっ?」
「ん? ああ、なんでもない。独り言だ」
俺はボソリと呟いた言葉を、あえて聞き流させた。
今ここで「俺は全属性使えるし、なんなら未知の異能も一万個くらいあるぞ」と言っても、彼女のキャパシティがパンクするだけだ。
事実は小出しにしていくに限る。
「まあいいや。エレノアが言った通り、得意分野を磨く……これが先決だな」
「そうですわよね! では今日も、氷魔法の制御訓練を……」
「いや、それは自主練でいい。俺が教えるのは『生き残るための基礎』だ」
俺は立ち上がり、演習場の空を見上げた。
「戦争とかでは、魔法は使われているのか?」
「ええ、使われているらしいですわ。広範囲殲滅魔法による遠距離攻撃が主力だと、父様が言っていました。わたくしはまだ参加したことないですけど……」
「ふむ。なら、敵も同じことを考えているはずだ。遠距離からの砲撃戦。だが、もし敵の暗殺者が懐に潜り込んできたら? あるいは、魔法を無効化する結界の中に放り込まれたら?」
俺の問いに、エレノアは言葉を詰まらせる。
「そ、それは……護衛の騎士が守ってくれますわ」
「騎士が全滅したら?」
「……」
「想定が甘い。自分の命を他人に預けるな。最強を目指すなら、最後の砦は自分自身であるべきだ」
俺はエレノアに向き直り、ニヤリと笑った。
それは教育者の顔であり、同時に獲物を甚振る捕食者の顔でもあった。
「うーん、エレノア。お前の指導方針だが……『あらゆる魔法(現象)を、身を持って味わい、耐性をつけさせる』ことにした」
「は……? 味わう……?」
「ああ。食わず嫌いは良くない。重力、熱、電気、精神干渉……全部体験しておけば、いざ敵に使われた時にパニックにならずに済むだろ? ワクチンみたいなもんだ」
俺は軽やかに指を立てる。
まずは手始めだ。
「じゃあ、とりあえず浮くか」
「は?」
エレノアが間の抜けた声を上げた瞬間。
俺は異能ライブラリから『重力操作』を引き出し、対象座標の重力係数をゼロに書き換えた。
「――ふわっと」
物理法則が書き換わる音がした気がした。
次の瞬間、エレノアの身体がふわりと地面を離れた。
「う、うわぁぁぁぁ!? なんですのこれぇぇぇ!!」
悲鳴が上がる。
ドレスの裾がめくれ上がり、長い銀髪が、無重力空間に広がる海藻のように揺らめく。
彼女は手足をバタバタさせるが、地面を蹴ることもできず、空中でくるくると回転し始めた。
「か、身体が浮きますわ! 空を飛んで……いいえ、これ制御できませんの!? 助けて師匠ー!」
「ハハハ、凄いだろ。重力操作の一種だ」
俺は椅子に座ったまま、空中で泳ぐ弟子を鑑賞する。
魔法による飛行とは違う。
あれは風や魔力で身体を持ち上げるものだが、これは『重力そのもの』を消している。
三半規管へのダメージが段違いだ。
「人間は地面に足がついているから力を出せる。こうやって無重力に放り出された時、どうやって姿勢制御するか。どうやって反撃するか。それを身体で覚えろ」
「む、無理ですわー! 気持ち悪っ、目が回りますのー!」
「甘えるな。宇宙空間での戦闘訓練だと思えば、楽しいだろ?」
「意味が分かりませんわー!」
エレノアが涙目になって叫ぶ。
うん、いい反応だ。
だが無重力(浮遊)は、あくまで前座。
本当の地獄はここからだ。
「さて、浮遊感は楽しんだな? そしてこれが逆の……『重力加重』だ」
俺は指を下に向ける。
係数変更。対象エリアの重力加速度を、通常の十倍(10G)に設定。
ズドンッ!!
凄まじい音と共に、空中にいたエレノアが地面に叩きつけられた。
「ぶへっ!!」
お嬢様らしからぬ、潰れたカエルのような声が出る。
彼女は演習場の硬い土の上に大の字……いや、重力に押し潰されてへばりつくシミのようになっていた。
「ぐぅ……ううぐ……っ!」
「おっと、いきなり10倍はキツかったか? まあ、骨は折れてないから大丈夫だ」
俺はのんびりと、彼女に歩み寄る。
エレノアはピクリとも動けない。
指一本動かすのにも、全身に鉛を巻きつけたような負荷がかかっているはずだ。
「な、なん……ですの……これ……身体が、鉛のように……」
「重力だ。星が物を引っ張る力。それをちょっと強めただけだ」
「ちょっと……!? く、苦し……」
「たんま、たんまですわとか言うなよ? 敵は待ってくれないからな」
俺は彼女の顔を覗き込む。
美しい顔が苦悶に歪み、地面の土で汚れている。
可哀想に。
だが、ここで甘やかしては将来彼女が死ぬことになる(そして俺の隠居計画が破綻する)。
「ダメだ。そのまま『身体能力強化』で立ち上がれ」
俺の指示に、エレノアが絶望的な目でこちらを見た。
「……は?」
「聞こえなかったか? 魔法で筋力と骨格強度を強化して、この重力に逆らって立ち上がるんだ」
「ぐぬぬ……と立ち上がろうと……してますけれど……!」
彼女の身体から、微弱な魔力の光が漏れる。
必死に身体強化を行おうとしているのだが、効率が悪すぎる。
「身体能力強化……あまり得意じゃありませんわ……! わたくしは後衛……」
「言い訳無用。さっき言ったろ? 『常識を捨てろ』と」
俺は冷徹に告げる。
「いや、そんなことはない。特化型でも、身体能力強化・自己治癒くらいは簡単に出来る。これは俺が実証済みだ」
前世で俺の部下だった『発火能力特化』の男も、『絶対防御特化』の女も、基礎的な身体能力はオリンピック選手以上だった。
そうでなければ、異能の反動に耐えられないからだ。
魔法も同じだ。
強大な魔力を扱うなら、その器である肉体も強靭でなければならない。
「だから、気合入れて立て。もっと死ぬ気でやれ」
「き、気合で……どうにかなるレベルでは……!」
「なる。魔力を細胞の一つ一つに浸透させろ。ミトコンドリアを活性化させ、筋繊維の収縮率を限界まで引き上げろ。イメージしろ、お前は今、鋼鉄の巨像だ」
俺は無慈悲にも、さらに重力を強める。
10Gから12Gへ。
メリメリメリ……。
地面がエレノアの身体の形に沈み込む音がする。
「更に加重がかかるぞ」
「いぎ……っ!?」
「おっと、息が出来ないのはまずいな。肺が潰れると面倒だ」
俺は微調整を行う。
胸郭周りの重力だけ、わずかに弱め、呼吸はできるようにしてやる。
だが、手足や背中にかかる負荷はそのままだ。
「はぁっ、はぁっ……! お、鬼……悪魔……!」
「最高の褒め言葉だ。さあ、今日は立てたら合格だ。立てなければ夕飯は抜き、明日もこのままだ」
「あ、明日も……!?」
エレノアの顔色が絶望に染まる。
だがその絶望が、彼女の底力を引き出した。
(……負けたくない)
彼女の瞳に、反骨の炎が宿るのが見えた。
プライドの高い公爵令嬢。
こんな地面に這いつくばった無様な姿のまま終わってたまるか、という意地。
「身体能力強化は必須だから、この練習方法で頑張れ。なに、簡単なことだ。魔力で肉体の強度を、この重力よりも強くすればいいだけなんだから」
俺は言い捨てて、再びパイプ椅子に戻った。
そして虚空から一冊の本を取り出す。
『異世界転生したらスライムだった件について』……ではなく、この世界の歴史書だ。
暇つぶしに読んでおこうと思っていたのだ。
「じゃあ、俺は本でも読んでるから。終わったら声をかけてくれ」
俺はパラパラとページをめくり始める。
背後からは、少女のうめき声と地面がきしむ音、そしてバチバチと弾ける魔力の放電音が聞こえてくる。
「うううううぅぅぅぅぅ!! 絶対……絶対に立ってやりますわぁぁぁ!!」
「おー、その意気だ。声が出せるなら、まだ余裕があるな。13Gにするか?」
「や、やめ……っ! 今のまま! 今のままでお願いしますわぁぁ!!」
必死の懇願。
俺は小さく笑った。
彼女はまだ気づいていない。
今、彼女が展開している身体強化魔法の密度が、通常の魔導師が使うレベルを遥かに超え始めていることに。
極限状態での生存本能。
重力という「逃げ場のない物理的圧力」に対して、肉体が適応しようと進化を始めているのだ。
(魔術師が弱いのは、肉体というボトルネックがあるからだ。だがエレノア。お前がこの重力下で動けるようになった時……お前は『動ける砲台』どころか、『超高速で移動する要塞』になる)
それは、俺がかつて対峙した敵たちですら、脅威に感じるレベルの怪物だ。
「ぐぐぐぐ……あ、足が……膝が……!」
「膝に魔力を集中させろ。関節を魔力でコーティングして摩擦を消せ。物理的に持ち上げるんじゃない、魔力で持ち上げるんだ」
読書をしながら、適当にアドバイスを投げる。
エレノアの身体が、ミリ単位で浮き上がる。
震える手足が、地面を掴む。
美しいドレスは泥だらけ。
髪はボサボサ。
顔は汗と土でぐちゃぐちゃ。
だが今の彼女は、初めて会った時の着飾った人形よりも、数百倍美しく、そして強そうに見えた。
「……ふふ。頑張れよ、弟子一号」
俺はページをめくりながら、午後の日差しの中で目を細めた。
平和な(?)午後だ。
彼女が立ち上がるまで、あと数時間。
それまで、この心地よい悲鳴をBGMに、読書を楽しむとしよう。




