第2話 スパルタ教育と因果律の書き換え
ヴァルドスタ辺境伯家の庭園は、午後の柔らかな陽光に包まれていた。
手入れの行き届いた芝生、色とりどりの花々、そして心地よい風。
本来であれば優雅なティータイムを楽しむにふさわしい、平和な空間だ。
しかし今、この場所にはそんな牧歌的な空気とは無縁の、ピリついた緊張感が漂っていた。
「――さて、始めようか」
ガーデンテーブルに置かれた紅茶――すでに冷めてしまっている――を一口啜り、俺は目の前の少女を見据えた。
エレノア・フォン・アイスバーグ。
銀髪の公爵令嬢はドレスの裾を握りしめ、獲物を狙う肉食獣のような瞳で俺を凝視している。
「ええ、お願いしますわ。師匠」
彼女は深く頭を下げた。
先ほどの婚約破棄騒動(俺はどちらでもいいと言ったが)からの、まさかの弟子入り志願。
大人たちは呆気にとられ、その後「若い二人のことだ、好きにさせよう」と苦笑いを浮かべて退室していった。
つまりここには、俺とエレノアの二人きりだ。
邪魔者はいない。俺の持てる知識(異能理論)を叩き込むには、絶好の環境である。
「まず断っておくが、俺の授業は厳しいぞ。この世界の常識とはかけ離れているし、学校で教わる魔法理論とも矛盾する。それでもついてくるか?」
「望むところですわ。常識通りの授業で、あのようなデタラメな強さが手に入るとは思えませんもの」
いい返事だ。
素直さと向上心。そして何より、未知への耐性。
やはりこの子は伸びる。俺の隠居ライフを支える最強の防波堤として、最高の人材になりそうだ。
「よし。じゃあ、まずは座学だ。魔法の実技はそのあと」
「座学……? 実技からではありませんの?」
「基礎理論が間違っていたら、応用なんてできるわけがないだろ。家を建てるのに、設計図なしで柱を立て始めるバカがどこにいる」
俺は指をパチンと鳴らした。
異能『物質生成』と『幻影投影』の複合応用。
テーブルの上に光の粒子が集まり、小さな黒板とチョークが出現する。
エレノアが「ひっ」と息を呑むが、いちいち反応していては進まない。
「いいか、エレノア。君は『魔法』とは何か、定義できるか?」
俺の問いに、彼女は少し考え込んでから、教科書通りの答えを口にした。
「世界に満ちる魔力を用い、精霊や神々の御業を借りて現象を起こす術……ですわよね?」
「0点だ」
「ぜ、0点!?」
「それは『宗教』だ。俺が聞いているのは、『現象』としての定義だ」
俺はチョークを手に取り、空中に文字を書く。黒板など必要ないが、視覚情報は理解を助ける。
「魔法――あるいは異能とも呼ぶが、その本質は一つだ。『因果を意思の力で捻じ曲げる能力』。つまり『因果律改変能力』だ」
「いんがりつ……?」
「聞き慣れない言葉か。まあ、この世界じゃ概念自体が希薄かもしれないな」
俺は黒板に図を描く。
ボールが手から離れ、地面に落ちる図だ。
「因果律とは『ある原因(因)があれば、それに応じた結果(果)が生じる』という、宇宙の絶対法則だ。例えばこのチョークを手から離せばどうなる?」
「落ちますわ」
「そう、それが『重力』という法則による結果だ。水を火にかければ沸騰する。人を刺せば血が出る。これらは物理法則というルールに従った、当たり前の因果だ」
俺はチョークを離した。
本来ならテーブルに落ちて粉々になるはずのチョークは、しかし空中でピタリと静止する。
「なっ……?」
「だが、今結果が変わった。俺は手を離した(原因)。しかし、チョークは落ちなかった(結果)。なぜだ?」
「それは……アルヴィス様が魔法を使ったから……」
「その通り。俺の『意思』が『落ちる』という当然の結果を拒絶し、『止まる』という結果を世界に強制したんだ」
俺はチョークを再び指で摘まみ、エレノアの目の前に突き出す。
「因果律は絶対だ。物理法則は神が定めたルールと言ってもいい。だが、その絶対のルールに個人のエゴ……『意思の力』で介入し、捻じ曲げて、自分に都合の良い結果を上書きする。それが魔法だ」
エレノアは呆然としていた。
彼女にとって魔法とは、精霊にお願いしたり、呪文という儀式によって発動したりする、神秘的なものだったのだろう。
それを「ルール違反」「システムへの介入」と言い切られたのだ。ショックを受けるのも無理はない。
「魔法、奇跡、超能力……呼び方は様々だが、根っこは全部一緒だ。アプローチが違うだけで、やってることは『現実へのハッキング』に過ぎない」
「ちちょうのうりょく? というのは分かりませんが……『奇跡』は分かりますわ! 聖女様や高位の聖職者が起こす癒やしや浄化の力ですわね? あれは神への祈りによってもたらされる聖なる御業で、魔法とは別物だと教会の教えには……」
「ああ、それも魔法だな」
俺はあっさりと断言した。
エレノアの目が限界まで見開かれる。
「同じ……? そんな不敬ですわ!」
「不敬も何も、観測事実だ。聖女が祈る。『怪我を治したい』と願う。その意思が魔力を触媒にして、細胞の再生速度を加速させる。あるいは時間を巻き戻す。プロセスは魔法と何一つ変わらない」
俺は前世のことを思い出す。
超能力者、魔術師、気功使い、宗教家。
あらゆる異能者がいたが、結局のところ彼らが使っているエネルギーのソースは同じだった。
自分の脳(精神)で世界(物理)を騙す。ただそれだけのことだ。
「『神の力』だと思えばありがたみが増すし、『精霊の力』だと思えば親しみが湧く。それは単なる『思い込み(プラシーボ)』だ。魔法を発動させるための精神的なスイッチに過ぎない」
「スイッチ……」
「自分が『できる』と信じ込むための儀式さ。だが俺たちは科学者だ。神頼みで機械が動くか? 動かないよな。理論と構造を理解して、正しくエネルギーを流す。それが最短ルートだ」
エレノアはごくりと喉を鳴らした。
彼女の常識がガラガラと音を立てて崩れ去り、その瓦礫の上に俺が提示した、冷徹で機能的な新しい論理が組み上がっていく。
柔軟だ。普通の魔術師なら「異端だ!」と叫んで席を立つところだが、彼女は恐怖よりも好奇心を優先させている。
「なるほど……なるほど……。常識として、魔法は因果律改変能力……これは覚えておきますわ」
彼女はブツブツと呟きながら、必死に俺の言葉を咀嚼している。
よし、第一段階はクリアだ。
次は具体的な技術論に移ろう。
「じゃあさっき君が使った氷魔法の話だ」
「はい! 《アイス・バレット》ですわね!」
「原理は何だ?」
「えっ……? それは大気中の精霊にお願いして……」
「違う」
俺は即答で否定する。
ダメだ、まだファンタジー脳が抜けていない。
「いいか、氷魔法ってのは熱エネルギーを奪い、空気中の水分を凝固させて氷にしている現象だ」
「ねつ……? すいぶん……?」
「物は熱くなると動き回り、冷めると固まる。水も同じだ。冷やせば氷になる。君がやったのは、魔力を使って強制的にその空間の温度を下げただけだ」
俺は空中に水の玉を作り出し、それを瞬時に凍らせて見せる。
「そして君の詠唱だ。『大気満たす水精よ、我が意に従い氷の礫となれ』。……長すぎる。無駄が多すぎる」
「む、無駄とおっしゃいますか! これは由緒あるアイスバーグ家に伝わる高速詠唱の一節で……」
「解析してみよう」
俺は彼女の反論を手で制し、黒板に詠唱を書く。
「まず前半。『大気満たす水精よ』。これは術者の意識を『周囲の大気(水蒸気)』に向けさせ、魔力を接続させるための工程だ。要するに『ターゲット指定』だな」
「はあ……そうですわね。大気中の水に働きかけている感覚はありますわ」
「つまり大気中の水を自分の配下に置いているわけだ。そして後半。『我が意に従い氷の礫となれ』。これが『実行コマンド』だ。リンクした水を氷に変え、形状を整え、射出する」
「完璧な手順ではありませんか」
「手順としてはな。だが俺が言いたいのは『前半は不要だ』ということだ」
俺はチョークで『大気満たす水精よ』の部分にバツ印をつける。
エレノアが目を丸くする。
「不要!? で、ですが対象を指定しなければ魔法は発動しませんわ!」
「その通り。だから『常に指定しておけ』って言ってるんだ」
「……はい?」
エレノアの思考が停止した音が聞こえた気がした。
俺はニヤリと笑う。ここからが俺のスパルタ授業の真骨頂だ。
「いちいち詠唱で『これから繋ぎますよー』なんてやるから遅いんだ。戦闘中に電話番号をダイヤルしてるようなもんだぞ。そんな暇があったら、最初から回線を繋ぎっぱなしにしておけばいい」
「つ、繋ぎっぱなし……?」
「つまり魔力を自分の肉体の内側だけに留めるんじゃなく、常に周囲数メートル……そうだな、まずは半径五メートルくらいの空間に自分の神経のように張り巡らせておくんだ」
俺は自分のオーラを可視化する。
薄い青色の光が俺を中心に球状に広がっている。
庭園の草木、空気、塵の一つ一つに至るまで、俺の魔力が浸透している状態だ。
「こうやって周囲の空間そのものを、自分の『領域』にしておく。そうすれば『大気満たす~』なんて言う必要はない。すでにそこにある水は、お前の体の一部も同然だからな」
「そ、そんな……!」
「それだけで『氷となれ(フリーズ)』の一言――いや、意思一つで即座に魔法が発動する。0.1秒もかからない」
エレノアの顔色が青ざめていく。
彼女も優秀な魔導師の卵だ。俺の言っている理屈は理解できたのだろう。
だが同時に、それがどれほど無茶なことかも理解してしまった。
「で、でも! 魔力が持ちませんわ!」
悲鳴のような反論。
当然だ。魔力を体外に放出し続け、しかも空間を支配し続けるなど垂れ流し状態もいいところだ。
普通の魔導師なら、数分でガス欠(魔力切れ)を起こして気絶するだろう。
「まあな。魔力の消費は激しいだろう」
「激しいどころではありません! 自殺行為です!」
「だがそれは『慣れ』だ」
俺は涼しい顔で言い放つ。
「な、慣れ……?」
「筋肉と一緒だ。使えば使うほど強くなる。切れたら回復させて、また使う。それを繰り返せば、器は勝手に大きくなる」
前世でもそうだった。
異能の出力は才能だけでなく、どれだけ酷使したかで決まる。
限界ギリギリまで使い込み、脳が焼き切れる寸前まで演算する。
その負荷こそが、魂の領域を拡張する唯一の手段だ。
「常に魔法を使えば、魔力量は鍛え上げられていく。簡単な理屈だろ?」
「の、脳筋ですわね……」
エレノアが呆れたように呟く。
お上品な公爵令嬢の口から「脳筋」という言葉を引き出せたのは愉快だ。
「そうだな。魔法とは繊細な技術だと思われがちだが、その実、エネルギーの総量が物を言うパワーゲームだ」
俺は立ち上がり、エレノアを見下ろす。
「魔力が全てだ! 魔力が全てを凌駕する! テクニックなんてものは、圧倒的な出力の前では紙屑同然だ。今の君に必要なのは、小手先の技術じゃない。世界そのものをねじ伏せるための『基礎体力』だ!」
俺の言葉に熱がこもる。
これは前世で、生徒たちに言い聞かせてきたことでもある。
小細工で勝てるのは同格まで。
格上――それこそ『厄災の王』のような理不尽な存在に立ち向かうには、こちらも理不尽なまでの暴力を持たねばならない。
「だから今後は、大気中の水を常に配下にするようにしろ。寝ている時も、食事の時も、風呂に入っている時もだ」
「24時間ずっとですの!?」
「そうだ。無意識レベルで維持できるようになるまでな。呼吸をするように魔力を垂れ流せ」
俺は右手を突きつける。
「レッスン1は『常に魔力で周囲の水を配下に置くこと』! さあ今すぐやれ。維持できなくなったら今日のオヤツは抜きだ」
「そ、そんな理不尽な……!」
エレノアは涙目になりながらも、歯を食いしばった。
そして意を決したように、両手を広げる。
「くっ……やりますわ! やればいいんでしょう!」
彼女の身体から魔力が噴き出す。
最初は荒々しく、不均一な波。
周囲の空気がビリビリと震え、花瓶の水が勝手に波打つ。
「雑だ! もっと繊細に、薄く広く展開しろ! 水分子の一つ一つに挨拶して回るつもりでな!」
「む、無茶言わないでくださいまし! んぐぐぐ……!」
エレノアの額に脂汗が滲む。
可愛い顔が苦悶に歪む。
全身が小刻みに震え、呼吸が荒くなる。
それはまるで重たいバーベルを必死に持ち上げている、ウェイトリフティングの選手のようだ。
優雅な魔法使いの修行とは程遠い、泥臭く肉体的な負荷との戦い。
(いいぞ。筋がいい)
俺は内心で舌を巻いた。
普通なら一分も持たずに霧散するところを、彼女は意地で維持している。
魔力のコントロールセンスは一級品だ。
あとはその「器」を、無理やりこじ開けて広げてやるだけでいい。
「あ、ああぐ……頭が割れそう……ですわ……」
「脳が情報を処理しきれてない証拠だ。水分の位置情報、密度、温度……全部把握しろ。脳の処理領域を空けろ。余計なことを考えるな、ただ世界を感じろ」
俺の声に、彼女はコクコクと頷く。
その瞳から光が消えかけている。
魔力欠乏の初期症状だ。
強烈な脱力感と頭痛、そして吐き気が襲っているはずだ。
だが彼女は止めなかった。
俺が「止めろ」と言うまでは絶対に倒れないという執念すら感じる。
(……こいつ本当に化けるかもな)
俺は冷めた紅茶を飲み干した。
その日エレノアは三度気絶し、そのたびに俺の回復魔法(という名の細胞活性化異能)で叩き起こされ、夕方にはげっそりと痩せこけた顔で帰宅していった。
別れ際、フラフラになりながらも彼女は言った。
「あ、明日は……もっと長く維持してみせますわ……!」
その目だけは、ギラギラと燃えていた。
俺は思わず笑ってしまった。
「ああ、楽しみにしてるよ。一番弟子」
こうして、現代最強の異能者による魔法世界への「脳筋理論」の侵略が始まったのである。
エレノアが「氷の女帝」として世界を震撼させるようになるまで、あと数年。
その第一歩は、この地味で過酷な「魔力垂れ流し訓練」から始まったのだった。




