第9話 氷点下から胃袋へ
玄関を開けて部屋に戻った澪は、ふと足元に視線を落とした。
そこには黒い封筒が置かれている。厚みがあり、差出人の名前はどこにもない。
先日の毒の件を思い出し、嫌悪感が背筋を走った。
しかし同時に、無視できないほどの好奇心が胸をざわつかせる。
「……寧ろ、めちゃくちゃ気になるんだよな」
布で包んで持ち上げ、慎重にハサミで開封する。
「……は?」
中に入っていたのは、一枚の手紙。
そして、その紙に貼り付けられるように添えられた小さなカプセル。
《他人に終わらせられるより、自分で終わらせろ》
ぞっとする文面に、息が詰まる。
間違いなく、口にしてはいけないものだ。
「……怖いって! ……なんなんだよ、マジで」
震える指で手紙とカプセルをまとめてゴミ箱に投げ込む。
だが胸の奥の不安は消えず、壁に手を突いた瞬間――
「うわっ!? 冷たっ……!」
床がまるで氷のように冷えている。
次の瞬間、頭の中がぐらりと揺れた。
「は……? 待て、まだ二十四時間……経ってな――」
視界が崩れ落ちていく。
職輪転化の代償である脳とろは、本来なら勤務終了から二十四時間後に訪れるはず。
今はまだ、三時間程度しか経っていない。
それなのに、脳が焼けるように熱く、溶けるようにぐしゃぐしゃになっていく感覚が襲う。
視界が闇に呑まれていく、その刹那。
——誰かが泣きながら叫んでいる。
『……起きろ!』
雫が頬に落ちる感触。
次の瞬間、鉄骨の軋む轟音と赤い警告灯の点滅。
そこまで見えたところで、世界は完全に暗転した。
***
言真はコンビニ袋を片手に、澪の部屋の前へと歩いていた。
(昨日の毒の件もあるし……脳とろ前後以外も、一緒にいた方がいいかもしれないな)
そんなことを考えながら、玄関のドアノブへ手を伸ばす。
「……っ、冷て」
思わず手を引く。
ドアノブは氷に覆われたように、あり得ないほど冷たかった。
まだ夏。
今日も太陽は容赦なく街を焼いている。
本来なら金属は熱を持っているはずだ。
それなのに――。
「……開け」
言霊律令の命令が空気に溶ける。
直後、氷が軋むような音を立て、玄関扉がぎしぎしと開いた。
――中は異常だった。
冷凍庫の中に迷い込んだような、息が白くなるほどの冷気。
カーテンも、壁も、薄い氷の膜で覆われている。
「澪っ!!」
言真は叫んだ。
床に倒れている澪。その周囲を起点に、放射状に氷が広がっていた。
駆け寄り、脈と呼吸を確かめる。
意識はなく、体の力は抜け切っている。
状態としては、普段の脳とろ状態と同じように見える。
額に触れると、熱い。なのに床は凍り付いている。
体の奥と周囲の現象が、噛み合っていない。
(……おかしい。職輪転化の代償が来るには、まだ二十時間以上あるはずだ。じゃあ、これは何だ?)
床に白く霜が広がり、澪の周囲から冷気が噴き出していた。
呼吸は浅く、意識もなく、まるで夢遊病者のように眠ったまま。
だが、その身体の奥から、異能の波動だけが勝手に漏れ出している。
(本人の意思じゃない……無意識で発動している。こいつ、何も自覚してないのに)
言真はスマホを取り出し、声を低くした。
「九重です。綾瀬澪に異常発現。異能が暴走しています。保護対象として即時許可を」
受話口の向こうで一瞬、息を呑む音。
やがて重々しい声が返ってきた。
『……了解した。搬送班を至急向かわせよう。彼の異能は、無意識発動?』
「その可能性が高いです。意識的に澪がこんなことをするなんてありえない」
『……そうか。ひとまず、九重くんは綾瀬くんの側にいてあげて。彼、起きた時に混乱するだろうし』
「はい、そのつもりです。手配の件、お願いします」
通話を切り、言真は澪を抱き上げた。
その胸元からは冷気が脈打つように広がり、腕の中で小さな氷片が舞った。
(これ……覚めかけてるのか。澪のアレが……)
言真は歯を食いしばり、冷気に肌を切られながら搬送班の到着を待った。
***
ぼやけた視界がゆっくりと澄んでいく。
白い壁と天井がやけに清潔に見えて、かすかに消毒液の匂いがする。
「ん?」
自分がどこにいるのか、状況がまったくつかめない。
確か、脅迫文が来て……足元が冷たくなって。
そして、いつもより早く脳とろが来た。
今は、病室のベッドの上だった。
頭にはカラフルな電極と機械、指先にも同じく電極がサージカルテープで留められている。
「なにこの状況……」
首をゆっくり回すと、機械のディスプレイに波打つ曲線が映っていた。
それをぼんやり眺めていると、隣から声がした。
「おー、起きた。おはよ」
傍らにいるのは言真だった。
いつもの飄々とした表情で、どこか軽い調子だ。
「俺、死ぬの? 何これ」
「死なない死なない。いつもより脳とろが早かったから、脳の検査してもらってるだけ。ヨーグルト食べる?」
言真はヨーグルトとスプーンを差し出す。
澪がそれを受け取り、一口すくって口に運ぶと、甘さと酸味がじんわり広がった。
「……うま」
「でしょ。コンビニの新商品」
「腹減った」
「わーお、食いしん坊健在」
いつも通りの軽口。
ここが病院でなければ、普段と何も変わらない時間のように思えた。
「待ってて。なんか買ってくるから」
言真はそう言って立ち上がり、軽い足取りで病室を出ていく。
静けさが戻り、澪は小さく息をついた。
「……今のうちに、新しいバイトでも探すか」
ベッドの上、スマホを手にした澪の横で、モニターの脳波が、ピコピコとリズム良く跳ねる。
まるで「働け!」と急かしているように。
「脳波にまで労働強いられるって、なんだよ……!」
***
病院に併設されたコンビニで、言真は弁当コーナーの前に仁王立ちしていた。
棚には唐揚げ弁当、幕の内、焼き魚定食、オムライス、カツ丼……よりどりみどり。
「……澪くん、こういう時どっち派だっけ?」
腕を組んで首をひねる。
「唐揚げは好きそう……でも、脳とろ明けで消化悪いかも。いやでも“揚げ物うめぇ”ってテンションで食う可能性もある。幕の内はバランスいいけど、絶対“量足んねぇ”って文句言うんだよな」
そして、視界はオムライスへ。
「オムライス? あいつケチャップご飯好きそうだけど、さすがに病院でオムライスはチャラすぎるか」
真剣な顔で弁当とにらめっこしていると、通りすがりの看護師がくすっと笑った。
「あの人、そんなに食べるんですか?」
「ええ、食べます。一生、育ち盛りなんで」
結局、悩んだ末に唐揚げ弁当と焼き魚弁当の二つをカゴに入れる。
「まあ、どっちでも正解にしとこ。選択肢は多い方が人生楽しいし」
軽口を叩きつつ、レジへ向かう言真の背中は、どこか保護者じみていた。
***
病室に戻った言真は、ドヤ顔で二つの弁当を掲げた。
「はい、唐揚げと焼き魚。好きな方選んでいいよ」
「おっ、待ってた!」
澪は勢いよく起き上がり、唐揚げ弁当を受け取る。
しかし、一口食べてからぽつり。
「……うーん、オムライス食いたかったかも」
「うん?」
言真の笑顔が一瞬で凍る。
「いや、さっきテレビでドラマやってて……主人公がオムライス食べてたから」
その瞬間、焼き魚弁当に箸を入れようとした言真は、ゆっくり眉間を押さえた。
「……そっちかー」
病室に脱力した空気が広がった。
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