第7話 不意の訪問
――カツ、カツ、と乾いた靴音。
緊張で凍りつく。
ドクンドクンと心臓が跳ね、背中を冷たい汗が伝う。
――足音の正体は。
「おー、ただいま。……なにその顔?」
平然とした、いつも通りの軽い声。言真だった。
「お前かよ!? てか、それ何持ってんだよ!!」
澪が震える指で指差す。
言真は片手に旅行帰りのスーツケース。
もう片方では、ぐったりした男をズルズル引き摺っていた。
「いやー、有給旅行してたらさ、ついでに未登録拾っちゃって。ほら、因課へのお土産」
「お土産のセンスおかしいだろ!? 人間持ち帰るな!!」
澪の絶叫が路地裏に木霊する。
「う、うぅ……」
青ざめた男が目を覚ます。
「はっ!? てめぇ! 因課の野郎、ぶっこ」
「眠れ」
言真が一言。
バタンと再び気絶する未登録者。
「あ、もう定時になりそうだから急ぐわ。澪くん、バイトの件は明日からねー」
笑顔でさらっと言い残し、男を引き摺りながら去っていく言真。
ゴロゴロ……ガタッ。
キャスターの車輪と、人間を引き摺る摩擦音が妙に響いた。
「……地味に強いのやめてくれ」
澪の小声が、誰に聞かれることもなく夕方の風に流れた。
「……帰りますか?」
隣に並んだ結衣が、いつも通りの無表情で尋ねる。
「……そっすね」
澪は頬をかきながら、力の抜けた笑みを返す。
気づけば夕暮れの風が心地よく吹き抜け、さっきまでの騒ぎが嘘のようだった。
二人は並んで歩き出す。
隣の都市で事件があろうと、犯罪者がうろつこうと。
洛陽市は、今日もどこか呑気に平和である。
***
言真が因課で男を引き渡すと、上司は書類を受け取りながら深いため息を吐いた。
「九重くんさぁ……なんで君はこういうの拾ってきちゃうの。これ、洛陽の管轄外でしょ?」
「まあ、外で見つけたんで。どっちかと言えば灯影の案件かもしれませんけど、向こうに持っていくのって……ちょっと怖いじゃないですか」
軽い調子で笑う言真に、上司の溜息はますます重くなる。
「今回の件といい……それに綾瀬くんのことといい、君は未登録と縁があるのかな」
その一言で、言真の笑みがふっと消えた。
「……澪は未登録じゃないですよ。更新が多いだけで」
「……悪い、言いすぎたね」
「まあ、異能者のときと一般人のときがあるんで、複雑なのは確かですけど」
上司は気まずそうに頷き、デスクの書類に視線を落とす。
「……可哀想だよね。毎回異能が変わるたびに手続きが必要だし……代償もあるし」
短い沈黙が部屋を満たした。
「脳とろのときは、俺が見てますから。心配しなくて大丈夫です」
言真の声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
上司は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「綾瀬くんの代償……正直、君が思ってる以上にきついと思うよ」
言真は眉をひそめる。
「……まあ、わかってます」
「脳が溶けるような状態が毎回必ず来るなんて、普通なら活動停止レベルのリスクだ。あれを“副作用”で済ませてるのは、この街ぐらいだよ」
「……洛陽らしいっちゃ、らしいですね」
言真は苦笑した。
しかし視線は笑っていなかった。
「でも、澪は自分から動く。止めても動くんです。だったら俺がついてる方が安全でしょ」
上司は机を軽く叩き、しばらく言葉を探すように黙った。
「……君が背負う必要はないんだよ、九重くん」
「背負うとかじゃないです。俺がそうしたいだけですから」
言真はあくまで軽い調子で返す。
だが、その軽さは逆に強い決意をにじませていた。
上司は観念したように肩を落とした。
「ほんと、君も綾瀬くんも、因課にとっては扱いづらい存在だよ」
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取っときますね」
言真は立ち上がり、書類の山をひょいと置いて部屋を出ていく。
廊下を歩きながら、ひとりごとのように呟いた。
「……生き抜いてくれりゃ、それでいい」
カーン――。
定時のチャイムが、オフィスの蛍光灯に反響するように鳴り響く。
「……お疲れさまでーす!」
「あー、今日も無事に平和だったな」
職員たちの気楽な声があちこちで上がり、ざわめきが廊下に広がっていく。
異能管理課は今日も、ホワイトに業務を終えていく。
***
夜。
澪はコンビニの鮭おにぎりに熱湯を注いでいた。
「……即席茶漬け。これ、マジでうまいんだよな」
箸でおにぎりをざくざく解しながら、湯気を吸い込むように一口。
鮭の塩気とだし汁が混ざり合って、安っぽいのに妙に沁みる味だ。
テレビをつけると、国民的アニメの映画が流れていた。
何度見ても不思議と飽きない。
冒険のシーンで流れるあのテーマ曲を耳にしただけで、胸がわくわくする。
「……やっぱ名作って異能級だわ」
頬張りながら、ぽつりと呟く澪。
外では隣市の事件で騒がしいはずなのに、部屋の中はどこまでも平和で居心地がいい。
そんなときだった。
――ピンポーン。
インターホンが鳴る。
茶漬けをかき込みながら澪は眉をひそめた。
「言真? ……いや、あいつ、鍵かけてても勝手に入ってくるしな」
独り言ちているうちに、再びインターホンが鳴る。
間を置かず連打され、部屋中に電子音が響き渡る。
「あーもー! 誰だよ!! チャイム連打すんな!!」
茶碗を置き、ぶつぶつ文句を言いながら玄関へ向かう澪。
だがドアスコープを覗こうとした瞬間、脳裏に不穏な想像がよぎる。
(宅配か……?)
ドア越しに胸の鼓動が早まる。
こんな時間に宅配が来るはずもない。心当たりはゼロだ。
恐る恐るドアスコープを覗く。
だが、そこには誰の姿もない。
「……は?」
次の瞬間、ガサリと音を立てて玄関ポストから一枚の紙が投げ込まれた。
床に落ちたそれを拾い上げると、小さな粉の入った袋がテープで無理やり貼り付けられている。
「なんだこれ……」
紙には短い走り書き。
《本来の君に必要なものだ》
「……っ、きっ………っしょ!!!」
澪は全身に鳥肌が立つのを感じながら、即座に袋ごと紙を丸めた。
そのままゴミ箱にダンクシュート。
「うわうわうわ! 鳥肌ぞくっとした! 無理無理無理!! 怖いって!!」
息を荒げながら額の汗を拭った。
(……いや、何だよこれ……誰の仕業!?)
***
翌朝。
澪の部屋のドアがガチャリと開く。
「おーす、おはよー……って、何その格好」
言真の目に映ったのは――毛布にぐるぐると包まり、目だけを覗かせて怯えている澪の姿だった。
「……来たな……犯罪者……」
「いや違うし。担当官だから。あと、その状態から早く脱皮して」
苦笑しながら部屋に上がり込んだ言真は、ふとゴミ箱に目を止めた。
丸められた紙。その隙間から、ビニール袋に入った粉が覗いている。
「……これ」
爪で軽くつまみ上げた瞬間、言真の顔から笑みが消えた。
「おい、澪。これ触った?」
「え? どうだっけ……きっしょくてすぐ捨てたけど……」
「馬鹿、手洗ったか!?」
珍しく声を荒げた言真に、澪は目を白黒させる。
「な、なに……?」
「猛毒。少量でも皮膚から侵入するやつとやばいやつ」
言真が低い声で言い切る。
その言葉に澪の背筋がぞわりと凍った。
澪は飛び跳ねるようにキッチンへ駆け込み、手首から指の隙間、爪の裏まで真っ赤になるほど力任せにゴシゴシと擦り続けた。
水しぶきが飛び、湯気に混じって澪の浅い息が弾く。
(こんな……こんな粉、触っただけで終わるのかよ……!)
手は止まらず、指先の皮膚がひりつく感覚すら気にできないほどに必死だった。
「ん? ……待てよ」
確かこれを捨てた時は、開封してないし中身を触っていない。
「……触ってないじゃん、俺」
呟いた瞬間、膝から力が抜けた。
猛毒なら、もうとっくに終わっている。
なのに、今もこうして生きて、手を洗いすぎてガサガサになった指を眺めている。
「俺……生きてるわ」
安堵の息が漏れる。
だがすぐに、ぞわっと背筋を這う感覚。
じゃあ、何でこんなものが届いたのか。
何故、わざわざ毒なんて送りつけてきた?
「……マジで、気持ち悪ぃ」
澪は耳を塞ぎ、小さく震えていた。
その様子を見て、言真は粉袋と紙をジップロックに入れ、ひょいと持ち上げる。
「取り敢えず、これは回収ね。……心当たりある?」
「あるわけねぇだろ! 俺、命狙われるほどの悪事してねぇし!」
「だよねー。ま、因課で調べとくよ」
軽い調子で答える言真は、次の瞬間コンビニ袋を差し出した。
「ひとまず、朝ご飯買ってきたから」
中からは、おにぎり、菓子パン、温かい缶コーヒー。
怯えていた澪の鼻先に、現実的すぎるコンビニの匂いが広がった。
「……空気ぶち壊しすぎだろ、お前」
「毒より飯。生きてる証拠でしょ」
言真があっけらかんと笑った。
おにぎりを受け取る澪。
震える手でビニールを開けて、ひと口かじった。
「……うま」
涙目で呟くその姿に、言真は小さく笑う。
ジップロックに封じた粉を見やりながら、目の奥だけがわずかに冷えていた。
(……こんなもん、冗談で済むわけないだろ)
だが口には出さない。
ただ明るく肩をすくめて、缶コーヒーを澪に差し出した。
「ほら、飯食ったら元気出るから。平和ボケしてていいんだよ、澪くんは」
コンビニの袋がくしゃりと鳴り、部屋の中に静けさが戻る。
けれどその静けさは、決して無害ではなかった。
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