最終話 芽吹くもの
焼けるような暑さは過ぎ去り、風はすでに秋の匂いを帯びていた。
言真は、澪を起こしに行こうと部屋の扉を軽くノックする。
「澪、朝だぞ。そろそろ起き──」
扉を開けた途端、一縷の風が吹き抜けた。
窓の外を眺める澪の瞳は、穏やかで静かだった。
その視線の先。
窓際の植木鉢から、小さな芽が顔を出している。
季節外れの、何もないはずの土から――
新しい“何か”が、確かに生まれていた。
言真は息を飲む。
澪はその芽を見つめ、ほんの少し微笑んだ。
「……おはよう」
柔らかな声が、秋の朝の空気に溶けていった。
「澪、お前……」
その続きを言うのが怖くて、言真の喉に言葉が引っかかる。
「言真、俺さ……」
澪は芽を見つめたまま、静かに言った。
「本当の俺になったんだと思う」
「……本当の?」
「うん。昨日の俺とは違う。これからの俺」
澪の笑みは、光を受けてやわらかく滲んだ。
「多分……いや、もう俺の中に異能はないんだ」
そう言って、澪はポケットから一枚のカードを取り出す。
異能者登録のIDカード。
かすかに光を反射するそれを、言真の前に差し出した。
「今日の検査が終わったら、返すよ」
言真は一瞬、言葉を失ったままカードを見つめる。
「……何でわかるんだ。異能がないって」
「分かるんだ。ほら、こうしたら」
澪は右手を翳した。
指先に意識を集めても、何も起こらない。
昨日までなら、炎や氷が生まれていたはずの掌。
そこにあるのは、ただ温かな皮膚の感触だけだった。
窓から差す光が、その手のひらを包む。
澪は小さく息をついて笑った。
「ね、もう俺には異能なんてものは残ってない」
少しだけ冷たい風が頬を撫でた。
***
因課・洛陽支部。医療棟の検査室。
目を伏せ、診察台の上で静かに眠る澪。
日菜は端末から検査結果を出力していた。
機器の微かな作動音と、紙が排出される音だけが室内に響く。
画面に映し出された波形を確認した瞬間、
彼女の指が止まる。
「……異能波、完全にゼロ」
信じられない。
そう呟くように、日菜は隣の言真へと向き直った。
「でも、生命反応は安定しています。まるで……“普通の人間”です」
言真はモニターの波形を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……それで、いいんだ」
言真は、モニターから目を離した。
「ただ、はっきりしてるのは――」
言真は静かに続ける。
「今の澪は、昨日までの澪とは違う人格だ」
「……違う、って?」
「感情の波も、反応の仕方も、全部が違う。同じ形をしていても、根っこが別のものになってる」
日菜は小さく頷く。
「じゃあ……前の澪くんは」
「もう、いない」
言真の声には迷いがなかった。
「でも、今ここにいる“澪”は、生きてる。それだけで、俺は充分だ」
静寂が戻る。
モニターの上で、澪の心拍が穏やかに刻まれ続けていた。
***
登録課へ向かえば、澪の書類には【失効】の判が押される。
その瞬間、長く続いた“異能者としての記録”が終わった。
返還されたIDカードを受け取った言真は、しばらく無言でそれを見つめる。
そして、寂しそうに笑った。
「……これで、俺の役目は終わったか」
静かな声だった。
誰に聞かせるでもなく、ただ空気に溶けていく。
「言真は、もう担当官じゃないけど……これからも一緒に住んでくれるか? 一人じゃ、分からないことしかないし……生きていけない」
澪は、薄い笑みを浮かべながら言真に手を差し出した。
その仕草はどこか幼く、けれど確かな意志を感じさせた。
言真はしばらく黙ってその手を見つめ、それからゆっくりと息を吐く。
「……はいはい。しょうがないやつだね、お前は」
苦笑まじりの声が、静かな部屋に落ちた。
差し出された澪の手を取ると、その指先はほんのりと温かかった。
***
廊下の待合室で、言真の仕事が終わるのを待っていた澪は、ふと顔を上げた。
廊下の向こう――そこに、結衣の姿があった。
お互いの目が合い、静かに会釈を交わす。
「また、イメージ変わりましたね。綾瀬さん」
無感情に聞こえる声。
けれど、その奥にはほんのわずかな弾みがあった。
「……そうかな。俺には分からないけど。でも、きっと結衣さんにも……心配かけた」
「……そんなことはありません」
結衣は首を横に振り、澪の手にある書類へと視線を落とした。
そこには、登録失効の判が押された控え。
「綾瀬さん、それ……」
「……うん。俺、もう異能ないから」
澪はそう言って、静かに笑った。
その笑顔は、どこまでも穏やかだった。
「異能がなくなる、というのは……初めて聞きました」
結衣は言葉を区切りながら続けた。
「街では、まだイノシードの件が蔓延っています。人為的に異能を目覚めさせられた人たちが、後を絶たないんです」
澪はわずかに眉を寄せた。
「結衣さんも、遭遇したことが?」
「ええ。何度か……。暴走まではいかなくても、恐怖の匂いはすぐ分かります」
結衣は手のひらをそっと見つめた。
「……力って、本当に人を選ばないんですね」
今も、何かを壊してきたのだろうか。
結衣の手のひらは赤く腫れていた。
だが、その腫れは見る間に引いていく。
「……え?」
結衣は思わず顔を上げた。
目線の先、澪が不思議そうに首を傾げている。
風が通り抜け、カーテンが小さく揺れた。
澪の周囲だけが、ほんの少しあたたかい。
(やっぱり、綾瀬さんは不思議な人……)
結衣が、そっと微笑んだ。
会うたびに表情が違う。
あの、無邪気に笑っていた頃の澪はもういない。
――それでも。
「……変わらないんですね」
澪は首を傾げ、静かに目を瞬かせた。
その仕草さえも、どこか懐かしかった。
それでも、澪は確かに“澪”としてそこにいた。
変わり続ける世界の中で、ただ穏やかに息をしていた。
誕生を果たした澪が穏やかに笑む傍ら。
誰にも知られずひとつの種が今、芽吹こうとしていた。
風に揺れるその小さな芽は、かつて街を蝕んだイノシードと同じ波を、かすかに宿していた。
だが、それはもう毒ではなかった。
力でも、渇望でもない。
ただ、生きようとする微かな鼓動だった。
陽が昇り、光がその芽を照らす。
新しい朝の気配の中で、街は静かに息をした。
再構築された世界の片隅で――
澪は、穏やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……おはよう、洛陽市」
その声は、静かに風に溶けていった。
風はビルの谷を抜け、川を越え、次の街へと流れていく。
まるで、新しい“物語”の始まりを告げるように。
――芽吹くものは、今日も息をしている。
再構築体として異能を失った澪の人生はこれからも続きますが、此処で区切りとさせていただきます。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




