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日替わり異能、24時間後には人間以下  作者: 森鷺 皐月
第三章 変異日常編
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第52話 赤ん坊の火

 検査室を出て、医療棟の廊下に出る。

 白い照明が、床に淡い反射を落としていた。


「澪、疲れたとか具合悪いとかないか?」


 言真が柔らかな声で問いかける。

 澪は短く首を横に振った。


「……大丈夫。問題ない」


 無表情のまま、規則的な足取りで歩く。

 その動きが機械のように正確で、言真はほんの少しだけ表情を曇らせた。


 次の瞬間、澪がふと足を止める。

 言真が澪の視線の先を追うと、廊下の反対側から結衣と梢が歩いてくるのが見えた。


「滝口さん、ごめんなさい」


「無茶しないで。あなたのおかげであの人たちが救われたのは確かだけど……女の子なんだから、怪我しないようにね」


「はい」


 梢の言葉に静かに頷いた結衣が、ふと顔を上げる。

 視線の先、そこに立つ澪を見つけて足が止まった。


「……綾瀬さん?」


 その声に、空気がわずかに揺れる。

 澪の瞳が、ゆっくりと彼女を映した。

 何かを思い出そうとするように、ほんの一瞬だけ、眉が動いた。


「……胸が、痛い。水瀬……結衣さん?」


 遠くから聞こえた声のように、その名を口にした。

 結衣は一瞬、息を呑む。

 “何故ここに”と問おうとした唇から、違う言葉がこぼれた。


「……イメージ、変わりましたね」


 その言葉に、澪は自分の胸元をぎゅっと握る。

 指先がわずかに震え、呼吸が浅くなる。


「あなたを見ると、胸が痛いです。この痛みの、説明を」


 静寂が落ちる。

 結衣の瞳が揺れ、言真が息を呑んだ。


「澪、それは――」


「あなたは、私に好意を抱いていました」


 凛とした声が廊下に響く。

 あまりにもまっすぐなその言葉に、結衣の肩がわずかに跳ねた。


「あなたが向けた好意とは違うものですが、私はあなたの日常を守りたいと思っています」


 言葉の温度は一定のまま。

 けれど、その想いだけは確かに澪の中で育ち始めていた。


「好意は痛いものなんですか。何故、あなたが俺を守ろうと? ……敵がいるんですか」


 澪の声は静かで、感情の起伏はない。

 けれど、確かに“理解しよう”とする意志だけがあった。


 結衣は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。


「痛みは、私にもわかりません。日常の中に敵はいませんが……あなたの日常を脅かす存在を敵というなら、守りたいと思っています」


 その声は柔らかく、けれどどこか揺れていた。

 まるで、誰よりも優しい戦闘宣言のように。


「結衣ちゃん、強いね。流石、梢さんが担当官なだけある」


「九重さん、それどういう意味ですか」


「おっと、口が」


 梢が鋭い視線を向けるが、言真はわざとらしく笑って肩をすくめた。


「強い……? 力のこと?」


 澪がぽつりと呟くと、結衣が小さく首を横に振った。


「確かに鋼腕は怪力ですけど……。今日は、暴走してる人を止めた時、手に怪我をしてしまいました」


 そう言って、結衣は右手をそっと持ち上げる。

 包帯が、白い光の下で静かに反射していた。


「暴走……?」


 澪が小さく首を傾げる。

 結衣は一瞬だけ言葉を止め、視線を落とした。


「ええ、例の――」


 その続きを言いかけた瞬間、梢がそっと結衣の肩を叩く。


「結衣ちゃん、綾瀬くんも検査で疲れてるから」


「あ……すみません。綾瀬さん、九重さん。どうか、ゆっくり休んでください」


 結衣は軽く頭を下げ、廊下の向こうへ歩いていった。

 包帯の巻かれた右手が、光の中で一度だけ揺れる。

 それを見送る澪の胸の奥に、また“痛み”が走った。


「……また、痛い。心臓が熱いのは……俺、壊れた?」


 自分の鼓動が速くなるのを感じて、澪は不安げに胸に手を当てた。

 その様子を見て、言真は穏やかに微笑みながら澪の頭を撫でる。


「壊れたんじゃない。むしろ、いい刺激だよ」


「……刺激?」


「その胸の高鳴りは――“好き”ってことだ」


「好き……?」


 澪は小さく首を傾げ、まだ知らない言葉の意味を探すように呟く。

 言真は苦笑しながら、少し視線を逸らした。


「……ま、今はまだ早いかもな」


「……好き」


 ぽつりと澪は呟いた。

 まるで、その言葉の“形”を確かめるように。


***


 因課近くのパン屋。

 昼の光が差し込むイートインスペースで、結衣と梢は軽い昼食を取っていた。


「……綾瀬さんが、そんなことに」


 澪の状態を聞かされた結衣の表情に、静かに影が落ちる。

 手にしたクロワッサンを見つめたまま、何も言えなかった。


「そう。今までのバイト青年じゃなくてね」


 梢はカップを傾けながら、柔らかく言葉を続ける。


「今は、心を覚えている途中。小さな芽に水をあげてる最中なの」


 湯気がふわりと立ち、パンの香ばしい匂いが漂う。

 結衣はそっと目を伏せた。


「……芽、ですか」


「そう。誰かの優しさとか、言葉とか。そういうものを受け取って、やっと少しずつ形になる。だからね、結衣ちゃんも――仲良くしてあげて」


 梢の声は、午後の日差しみたいに穏やかだった。

 結衣は小さく頷く。

 その目の奥に、ほんのわずかな決意が灯る。


「……私にできることなら」


 小さく息を吸い、結衣は言葉を継ぐ。


「綾瀬さんが変わってしまったのは驚きました。でも、それでも――」


「放っておけない?」


 梢が静かに問いかける。

 結衣は、少し恥ずかしそうに笑って頷いた。


「はい。つばさを助けに行ったとき、誰よりも怒っていたのは綾瀬さんでした。今は変わっても……根の優しさは、きっと変わらないと思うんです」


 梢はその言葉に目を細め、静かにコーヒーを口にした。

 窓の外では、昼下がりの風が街路樹の葉を揺らしていた。


***


 帰り道。

 夕方の風が、街路樹の葉を揺らしていた。

 澪と言真は並んで歩きながら、ゆっくりと坂を下っていく。


「隠れる意味もなくなったし……澪、新しい家に住むか? 前のボロアパートじゃなくて、マンションとか――」


 軽い調子で言った瞬間、澪の足が止まった。


「……わからない」


 掠れた声。

 視線は地面の一点に落ちたまま。

 その表情を見た瞬間、言真はハッとして口を閉じる。


「あ……ごめん」


 空気が沈む。

 自分が子どもに現実を急かす大人みたいなことを言ったと、すぐに分かった。


「無理に答えなくていい。今は……それだけで十分だよ」


 澪は何も言わず、ゆっくりと頷いた。

 その仕草がどこか幼くて、言真の胸がまた少し痛くなった。


「……あ」


 澪が立ち止まり、視線を一点に向けた。

 前方では、頭を抱えた男子中学生の周囲に、地面から蔓や草が勢いよく伸び、身体を絡め取っている。


「……澪、待ってろ。止めてくる」


 言真がすぐに走り出した。

 澪の瞳がその背中を追い、ゆっくりと細められる。

 胸の奥で、またあの熱い音が鳴った。


「……言真が、危ない」


 その言葉と同時に、澪の手が前に出る。

 反射的な動きだった。

 手のひらの中心に、赤い光が集まり――


 次の瞬間、炎が蛇のように蠢いて走る。

 熱風が路地を裂き、蔓を包み込みながら燃え上がった。

 火線はうねり、一直線に少年を飲み込もうとする。


「澪っ! ダメだ!!」


 言真の声が響く。

 だが、止めるには一瞬遅かった。


 ――パシャン。


 水溜まりを踏みしめる音が、焼けた空気を切り裂く。

 その直後、轟音とともに激しい水流が炎を呑み込み、

 蒸気と熱気が入り混じる中で、火は一瞬で消え去った。


「……今のお前、子供から目を離した親と同じ」


 落ち着いた声。

 蒸気の向こうに立っていたのは、空のような青髪の少年だった。


「九重。お前は、こいつが赤ん坊だってまだ自覚していない」


 蒸気がまだ漂う中、言真は言葉を失っていた。

 気だるげな姿勢のくせに、瞳だけは鋭く光っている。


 アキだった。


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