第52話 赤ん坊の火
検査室を出て、医療棟の廊下に出る。
白い照明が、床に淡い反射を落としていた。
「澪、疲れたとか具合悪いとかないか?」
言真が柔らかな声で問いかける。
澪は短く首を横に振った。
「……大丈夫。問題ない」
無表情のまま、規則的な足取りで歩く。
その動きが機械のように正確で、言真はほんの少しだけ表情を曇らせた。
次の瞬間、澪がふと足を止める。
言真が澪の視線の先を追うと、廊下の反対側から結衣と梢が歩いてくるのが見えた。
「滝口さん、ごめんなさい」
「無茶しないで。あなたのおかげであの人たちが救われたのは確かだけど……女の子なんだから、怪我しないようにね」
「はい」
梢の言葉に静かに頷いた結衣が、ふと顔を上げる。
視線の先、そこに立つ澪を見つけて足が止まった。
「……綾瀬さん?」
その声に、空気がわずかに揺れる。
澪の瞳が、ゆっくりと彼女を映した。
何かを思い出そうとするように、ほんの一瞬だけ、眉が動いた。
「……胸が、痛い。水瀬……結衣さん?」
遠くから聞こえた声のように、その名を口にした。
結衣は一瞬、息を呑む。
“何故ここに”と問おうとした唇から、違う言葉がこぼれた。
「……イメージ、変わりましたね」
その言葉に、澪は自分の胸元をぎゅっと握る。
指先がわずかに震え、呼吸が浅くなる。
「あなたを見ると、胸が痛いです。この痛みの、説明を」
静寂が落ちる。
結衣の瞳が揺れ、言真が息を呑んだ。
「澪、それは――」
「あなたは、私に好意を抱いていました」
凛とした声が廊下に響く。
あまりにもまっすぐなその言葉に、結衣の肩がわずかに跳ねた。
「あなたが向けた好意とは違うものですが、私はあなたの日常を守りたいと思っています」
言葉の温度は一定のまま。
けれど、その想いだけは確かに澪の中で育ち始めていた。
「好意は痛いものなんですか。何故、あなたが俺を守ろうと? ……敵がいるんですか」
澪の声は静かで、感情の起伏はない。
けれど、確かに“理解しよう”とする意志だけがあった。
結衣は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
「痛みは、私にもわかりません。日常の中に敵はいませんが……あなたの日常を脅かす存在を敵というなら、守りたいと思っています」
その声は柔らかく、けれどどこか揺れていた。
まるで、誰よりも優しい戦闘宣言のように。
「結衣ちゃん、強いね。流石、梢さんが担当官なだけある」
「九重さん、それどういう意味ですか」
「おっと、口が」
梢が鋭い視線を向けるが、言真はわざとらしく笑って肩をすくめた。
「強い……? 力のこと?」
澪がぽつりと呟くと、結衣が小さく首を横に振った。
「確かに鋼腕は怪力ですけど……。今日は、暴走してる人を止めた時、手に怪我をしてしまいました」
そう言って、結衣は右手をそっと持ち上げる。
包帯が、白い光の下で静かに反射していた。
「暴走……?」
澪が小さく首を傾げる。
結衣は一瞬だけ言葉を止め、視線を落とした。
「ええ、例の――」
その続きを言いかけた瞬間、梢がそっと結衣の肩を叩く。
「結衣ちゃん、綾瀬くんも検査で疲れてるから」
「あ……すみません。綾瀬さん、九重さん。どうか、ゆっくり休んでください」
結衣は軽く頭を下げ、廊下の向こうへ歩いていった。
包帯の巻かれた右手が、光の中で一度だけ揺れる。
それを見送る澪の胸の奥に、また“痛み”が走った。
「……また、痛い。心臓が熱いのは……俺、壊れた?」
自分の鼓動が速くなるのを感じて、澪は不安げに胸に手を当てた。
その様子を見て、言真は穏やかに微笑みながら澪の頭を撫でる。
「壊れたんじゃない。むしろ、いい刺激だよ」
「……刺激?」
「その胸の高鳴りは――“好き”ってことだ」
「好き……?」
澪は小さく首を傾げ、まだ知らない言葉の意味を探すように呟く。
言真は苦笑しながら、少し視線を逸らした。
「……ま、今はまだ早いかもな」
「……好き」
ぽつりと澪は呟いた。
まるで、その言葉の“形”を確かめるように。
***
因課近くのパン屋。
昼の光が差し込むイートインスペースで、結衣と梢は軽い昼食を取っていた。
「……綾瀬さんが、そんなことに」
澪の状態を聞かされた結衣の表情に、静かに影が落ちる。
手にしたクロワッサンを見つめたまま、何も言えなかった。
「そう。今までのバイト青年じゃなくてね」
梢はカップを傾けながら、柔らかく言葉を続ける。
「今は、心を覚えている途中。小さな芽に水をあげてる最中なの」
湯気がふわりと立ち、パンの香ばしい匂いが漂う。
結衣はそっと目を伏せた。
「……芽、ですか」
「そう。誰かの優しさとか、言葉とか。そういうものを受け取って、やっと少しずつ形になる。だからね、結衣ちゃんも――仲良くしてあげて」
梢の声は、午後の日差しみたいに穏やかだった。
結衣は小さく頷く。
その目の奥に、ほんのわずかな決意が灯る。
「……私にできることなら」
小さく息を吸い、結衣は言葉を継ぐ。
「綾瀬さんが変わってしまったのは驚きました。でも、それでも――」
「放っておけない?」
梢が静かに問いかける。
結衣は、少し恥ずかしそうに笑って頷いた。
「はい。つばさを助けに行ったとき、誰よりも怒っていたのは綾瀬さんでした。今は変わっても……根の優しさは、きっと変わらないと思うんです」
梢はその言葉に目を細め、静かにコーヒーを口にした。
窓の外では、昼下がりの風が街路樹の葉を揺らしていた。
***
帰り道。
夕方の風が、街路樹の葉を揺らしていた。
澪と言真は並んで歩きながら、ゆっくりと坂を下っていく。
「隠れる意味もなくなったし……澪、新しい家に住むか? 前のボロアパートじゃなくて、マンションとか――」
軽い調子で言った瞬間、澪の足が止まった。
「……わからない」
掠れた声。
視線は地面の一点に落ちたまま。
その表情を見た瞬間、言真はハッとして口を閉じる。
「あ……ごめん」
空気が沈む。
自分が子どもに現実を急かす大人みたいなことを言ったと、すぐに分かった。
「無理に答えなくていい。今は……それだけで十分だよ」
澪は何も言わず、ゆっくりと頷いた。
その仕草がどこか幼くて、言真の胸がまた少し痛くなった。
「……あ」
澪が立ち止まり、視線を一点に向けた。
前方では、頭を抱えた男子中学生の周囲に、地面から蔓や草が勢いよく伸び、身体を絡め取っている。
「……澪、待ってろ。止めてくる」
言真がすぐに走り出した。
澪の瞳がその背中を追い、ゆっくりと細められる。
胸の奥で、またあの熱い音が鳴った。
「……言真が、危ない」
その言葉と同時に、澪の手が前に出る。
反射的な動きだった。
手のひらの中心に、赤い光が集まり――
次の瞬間、炎が蛇のように蠢いて走る。
熱風が路地を裂き、蔓を包み込みながら燃え上がった。
火線はうねり、一直線に少年を飲み込もうとする。
「澪っ! ダメだ!!」
言真の声が響く。
だが、止めるには一瞬遅かった。
――パシャン。
水溜まりを踏みしめる音が、焼けた空気を切り裂く。
その直後、轟音とともに激しい水流が炎を呑み込み、
蒸気と熱気が入り混じる中で、火は一瞬で消え去った。
「……今のお前、子供から目を離した親と同じ」
落ち着いた声。
蒸気の向こうに立っていたのは、空のような青髪の少年だった。
「九重。お前は、こいつが赤ん坊だってまだ自覚していない」
蒸気がまだ漂う中、言真は言葉を失っていた。
気だるげな姿勢のくせに、瞳だけは鋭く光っている。
アキだった。




