表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日替わり異能、24時間後には人間以下  作者: 森鷺 皐月
第三章 変異日常編
50/54

第50話 再構築体

 黒い海の底。

 そこに、泡のような記憶が浮かんでいた。


 ひとつ、またひとつ。

 どれも形を保てず、指で触れた瞬間に崩れて消える。

 けれど、確かに温度があった。


 誰かが笑っていた。

 声の奥に、懐かしい匂いがある。


 熱い鉄板、甘いタレ、白い湯気。

 遠い遠い場所で、焼肉の音がした気がした。


 “うまい”と、誰かが言った。

 その言葉が、今になって胸を締めつける。


 思い出そうとした瞬間、視界が弾けた。

 暗闇がひび割れ、白い光が滲む。

 空気が流れ込むように、“世界”が戻ってくる。


 ――呼吸。

 俺は、息をしている。


***


 言真は、澪の手を握ったまま動けなかった。

 ぬるいコーヒーの香り。雨上がりの風。

 すべてが、変わらないはずの日常だった。


「澪……聞こえてるんだろ?」


 掠れた声に、反応があった。

 指先が、ほんのわずかに震える。

 それだけで、言真の胸が熱くなる。


「戻ってきてくれ、澪。頼むから……」


 息が震え、言葉が掠れた。

 その手の中で、もう一度、澪の指が動く。

 まるで、意識の奥から誰かが呼び返しているように。


 風も、息も、時間さえも止まったような静寂の中で――


 わずかな呼吸音が、確かに、空気を揺らした。


***


 因課・洛陽支部。情報管理室。

 日菜の視線が、モニターに釘付けになる。


 《同調率:45.8% → 52.3% → 56.7%》


「……きた。閾値突破」


 波形が跳ねる。

 呼吸のように、心臓のように。

 確かに、そこに“命”が宿り始めていた。


「澪くん……帰ってきてる」


 日菜の声が震える。

 梢はそっと目を細め、静かに呟いた。


「おかえりなさい、綾瀬くん」


 モニターの光が、あたたかい脈のように脈打っていた。


***


 白い光が、薄く瞼を透かしていた。

 世界が、ゆっくりと形を取り戻していく。

 音。空気。温度。

 ひとつずつ、順番に“認識”が戻ってきた。


 ――呼吸。

 肺が、勝手に動いた。


 意識の底で、何かが繋がる感覚。

 遠くで名前を呼ぶ声がする。

 けれど、それが誰の声かはわからなかった。


「……澪」


 声。

 近い。温かい。

 けれど、胸の奥は何も反応しない。


 まぶたがゆっくりと開く。

 白い天井。見慣れない光。

 そして、泣き笑いのような顔。


 何かを言おうとして、言葉が出ない。

 喉が乾いている。

 いや、違う――“喋り方”を思い出せない。


 時間が、ひどくゆっくりと流れていた。

 その中で、ようやく声が出た。


「……ここは、どこですか」


 無機質な声。

 抑揚も、温度も、何もない。


 言真の肩が、びくりと揺れた。

 手を握り返そうとするが、澪の指は動かない。


 ただ、視線だけが合った。

 そこに、かつての彼はもういなかった。


 感情の代わりに、“存在”だけがそこにあった。


 波形が、静かに脈を打つ。

 数字が安定していく。


 《同調率:56.7% → 100.0%》


 世界が、再構築された。

 けれど、その瞳は何も映していなかった。


「澪……」


 呼びかける声は、かすれていた。

 反応がないことは分かっていたのに、それでも言わずにはいられなかった。


「それは、俺の名前ですか」


 淡々とした声。

 抑揚がなく、感情の波もない。

 同じ声帯、同じ顔なのに、既にもう別の何かだった。


「ああ。お前の名前だよ」


 言真はそっと手を握り込む。

 だが、その指先は何の反応も返さない。


「……俺は、何をすればいいですか」


「何をって……生きればいい。戻ってきたんだから」


「“戻る”とは、どこへ戻ることですか」


 言真は息を詰めた。

 澪は、まるで意味そのものを確かめるように、まっすぐ見つめてくる。


「ここだよ。俺のところに」


「……わかりません」


 その一言が、静かに落ちた。

 言真は答えようとして、何も言えなかった。


 彼の中で、ようやく理解する。


 ――これは“帰還”じゃない。

 再構築された生命体だ。


 それでも。


「……おかえり、澪」


 言真は、痩せた体を抱きしめた。

 反応はない。

 それでも、確かに温かかった。


 冷たくなりかけた皮膚に、ゆっくりと血が戻っていく。

 機械でも人形でもない――確かに“生きている”温度。

 けれど、その中身はどこか遠くに置いてきたようだった。


 再構築された身体は、異常なく動いている。

 心拍、体温、呼吸。

 すべてが数値的に「正常」なのに、そこに心の所在はなかった。


 言真の胸に、ひたすら静寂だけがあった。

 その静けさを切り裂くように、澪がわずかに首を傾ける。

 そして――


「……音、がする」


 それが、再構築後に発した“最初の自発的な言葉”だった。


「音……?」


 言真は思わず問い返す。

 部屋は静かだった。

 雨上がりの匂いが窓の隙間から入り、カーテンが微かに揺れている。

 ただ、ふたりの呼吸音だけがそこにあった。


「規則的な……音。あなたの心臓が、よく聞こえます」


 淡々とした声だった。

 まるで新しい世界を観察する研究者のように。

 そこには、喜びも、驚きもなかった。

 ただ、無垢で、空っぽな好奇心だけ。


 言真は息を飲む。

 胸の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響いていた。


「……そうか。聞こえるのか」


 言真の声は震えていた。

 自分の心臓の音が、こんなにも不安を伝えるものだったのかと知る。


 澪の瞳は、それをじっと見つめていた。

 焦点は合っていないのに、確かに“こちら”を見ている。

 その琥珀の奥には、感情ではなく、ただ“反射”だけがあった。


「……生きているんですね、あなたは」


 小さく、淡々と。

 まるで自分とは別の種を観察するような声音。


 言真は答えられなかった。

 澪の声が遠く、冷たく、どこか懐かしかったからだ。


 静かな部屋の中で、ふたりの鼓動がずれて響く。

 ひとつは確かに人の音。

 もうひとつは、“再構築された存在”の、生まれたばかりのリズムだった。


***


「つまり、赤ちゃんってこと」


 休憩室のソファで、千尋は缶コーヒーをひと口飲み、軽く息を吐いた。

 カフェインの苦味が舌に残る。

 その隣で、アキは相変わらず携帯ゲーム機を手に、無表情のまま画面を見つめている。


「心がないから、育てるところから? まるで育成ゲームだね」


「まあ、再構築ってそういうことなんだろうなー」


 千尋は背もたれに身体を預け、缶をくるくると回す。


「育て甲斐あるじゃん。しかも、九重くんとセットじゃないとダメな仕組み」


「九重が電源か」


 アキがボタンを押しながら、わずかに眉をひそめた。


「一蓮托生兄弟だね。人生ハードモードすぎ。育てられる側は難易度知らないけど」


「まあ、今回は“動いた”だけで十分だよ。動かないより百倍マシ」


 千尋はソファから身を起こし、足を組み直す。


「でも、あれだね。中身ゼロで、外だけ本人って……九重くん、しばらく大変だろうなあ」


「放置したら壊れる?」


「そりゃあね。あの状態で放置したら、“次の段階”に行けずに固まる。再構築体は、思考も感情も、刺激で少しずつ形作るから」


「刺激って?」


「……人との関わり。言葉、表情、匂い、手の感触。そういう“記録できない情報”」


 千尋は空になった缶を見つめながら、小さく笑った。


「要は、“生きてる”を覚えさせる感じだね」


「ふーん。めんどくさい仕様」


 アキは短く言い、再びゲーム画面に視線を戻した。


「修正パッチの方が早そう」


「はは、それやったら人間やめるね」


 千尋が軽く肩をすくめる。


「でもさ、心を入れ直すっていうのは、案外それくらい面倒なもんなんだよ。時間も手間も、愛情もいる」


「……九重に、それできるの?」


 珍しくアキがゲームの手を止めて、目を上げた。

 千尋はその視線を受け、少しだけ黙った。

 天井の蛍光灯が、薄く二人の顔を照らしている。


「できると思う。澪くんを想う心は真っすぐだから」


「まっすぐでも、折れたら終わり」


「そのときは……俺らが支えるしかないね」


 千尋は笑いながらも、目の奥だけは笑っていなかった。


「再構築なんて、人間にやらせる作業じゃないのになぁ」


「でもやるんでしょ。人間だから」


「……まぁね」


 カン、と空き缶をテーブルに置く音が響く。

 外では、風がビルの間を抜け、夕焼けがガラス越しに滲んでいた。


「心をもう一回作るってさ、簡単に言うけどゼロから育てるってことだもんなー」


「だから、赤ちゃん」


 アキはそう言って、またゲームに視線を戻した。

 その目は、光の反射で少しだけ冷たく見えた。


 しばらくの沈黙。

 千尋は、ゲーム機の反射光に照らされた横顔を見つめながら、ぽつりと呟く。


「……執行官の俺らが命を語るの、滑稽じゃない?」


 アキの親指が、カチ、とボタンを押した。

 静寂が再び戻る。


 そして、わずかに口元が動いた。


「……本当、それ」


 千尋が、肩を揺らして笑う。

 乾いた笑い声が、薄い空気に滲んで消えた。


 夕焼けが沈む。

 風が止む。

 ふたりの会話だけが、世界の端で微かに生きていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ