第50話 再構築体
黒い海の底。
そこに、泡のような記憶が浮かんでいた。
ひとつ、またひとつ。
どれも形を保てず、指で触れた瞬間に崩れて消える。
けれど、確かに温度があった。
誰かが笑っていた。
声の奥に、懐かしい匂いがある。
熱い鉄板、甘いタレ、白い湯気。
遠い遠い場所で、焼肉の音がした気がした。
“うまい”と、誰かが言った。
その言葉が、今になって胸を締めつける。
思い出そうとした瞬間、視界が弾けた。
暗闇がひび割れ、白い光が滲む。
空気が流れ込むように、“世界”が戻ってくる。
――呼吸。
俺は、息をしている。
***
言真は、澪の手を握ったまま動けなかった。
ぬるいコーヒーの香り。雨上がりの風。
すべてが、変わらないはずの日常だった。
「澪……聞こえてるんだろ?」
掠れた声に、反応があった。
指先が、ほんのわずかに震える。
それだけで、言真の胸が熱くなる。
「戻ってきてくれ、澪。頼むから……」
息が震え、言葉が掠れた。
その手の中で、もう一度、澪の指が動く。
まるで、意識の奥から誰かが呼び返しているように。
風も、息も、時間さえも止まったような静寂の中で――
わずかな呼吸音が、確かに、空気を揺らした。
***
因課・洛陽支部。情報管理室。
日菜の視線が、モニターに釘付けになる。
《同調率:45.8% → 52.3% → 56.7%》
「……きた。閾値突破」
波形が跳ねる。
呼吸のように、心臓のように。
確かに、そこに“命”が宿り始めていた。
「澪くん……帰ってきてる」
日菜の声が震える。
梢はそっと目を細め、静かに呟いた。
「おかえりなさい、綾瀬くん」
モニターの光が、あたたかい脈のように脈打っていた。
***
白い光が、薄く瞼を透かしていた。
世界が、ゆっくりと形を取り戻していく。
音。空気。温度。
ひとつずつ、順番に“認識”が戻ってきた。
――呼吸。
肺が、勝手に動いた。
意識の底で、何かが繋がる感覚。
遠くで名前を呼ぶ声がする。
けれど、それが誰の声かはわからなかった。
「……澪」
声。
近い。温かい。
けれど、胸の奥は何も反応しない。
まぶたがゆっくりと開く。
白い天井。見慣れない光。
そして、泣き笑いのような顔。
何かを言おうとして、言葉が出ない。
喉が乾いている。
いや、違う――“喋り方”を思い出せない。
時間が、ひどくゆっくりと流れていた。
その中で、ようやく声が出た。
「……ここは、どこですか」
無機質な声。
抑揚も、温度も、何もない。
言真の肩が、びくりと揺れた。
手を握り返そうとするが、澪の指は動かない。
ただ、視線だけが合った。
そこに、かつての彼はもういなかった。
感情の代わりに、“存在”だけがそこにあった。
波形が、静かに脈を打つ。
数字が安定していく。
《同調率:56.7% → 100.0%》
世界が、再構築された。
けれど、その瞳は何も映していなかった。
「澪……」
呼びかける声は、かすれていた。
反応がないことは分かっていたのに、それでも言わずにはいられなかった。
「それは、俺の名前ですか」
淡々とした声。
抑揚がなく、感情の波もない。
同じ声帯、同じ顔なのに、既にもう別の何かだった。
「ああ。お前の名前だよ」
言真はそっと手を握り込む。
だが、その指先は何の反応も返さない。
「……俺は、何をすればいいですか」
「何をって……生きればいい。戻ってきたんだから」
「“戻る”とは、どこへ戻ることですか」
言真は息を詰めた。
澪は、まるで意味そのものを確かめるように、まっすぐ見つめてくる。
「ここだよ。俺のところに」
「……わかりません」
その一言が、静かに落ちた。
言真は答えようとして、何も言えなかった。
彼の中で、ようやく理解する。
――これは“帰還”じゃない。
再構築された生命体だ。
それでも。
「……おかえり、澪」
言真は、痩せた体を抱きしめた。
反応はない。
それでも、確かに温かかった。
冷たくなりかけた皮膚に、ゆっくりと血が戻っていく。
機械でも人形でもない――確かに“生きている”温度。
けれど、その中身はどこか遠くに置いてきたようだった。
再構築された身体は、異常なく動いている。
心拍、体温、呼吸。
すべてが数値的に「正常」なのに、そこに心の所在はなかった。
言真の胸に、ひたすら静寂だけがあった。
その静けさを切り裂くように、澪がわずかに首を傾ける。
そして――
「……音、がする」
それが、再構築後に発した“最初の自発的な言葉”だった。
「音……?」
言真は思わず問い返す。
部屋は静かだった。
雨上がりの匂いが窓の隙間から入り、カーテンが微かに揺れている。
ただ、ふたりの呼吸音だけがそこにあった。
「規則的な……音。あなたの心臓が、よく聞こえます」
淡々とした声だった。
まるで新しい世界を観察する研究者のように。
そこには、喜びも、驚きもなかった。
ただ、無垢で、空っぽな好奇心だけ。
言真は息を飲む。
胸の鼓動が、耳の奥でやけに大きく響いていた。
「……そうか。聞こえるのか」
言真の声は震えていた。
自分の心臓の音が、こんなにも不安を伝えるものだったのかと知る。
澪の瞳は、それをじっと見つめていた。
焦点は合っていないのに、確かに“こちら”を見ている。
その琥珀の奥には、感情ではなく、ただ“反射”だけがあった。
「……生きているんですね、あなたは」
小さく、淡々と。
まるで自分とは別の種を観察するような声音。
言真は答えられなかった。
澪の声が遠く、冷たく、どこか懐かしかったからだ。
静かな部屋の中で、ふたりの鼓動がずれて響く。
ひとつは確かに人の音。
もうひとつは、“再構築された存在”の、生まれたばかりのリズムだった。
***
「つまり、赤ちゃんってこと」
休憩室のソファで、千尋は缶コーヒーをひと口飲み、軽く息を吐いた。
カフェインの苦味が舌に残る。
その隣で、アキは相変わらず携帯ゲーム機を手に、無表情のまま画面を見つめている。
「心がないから、育てるところから? まるで育成ゲームだね」
「まあ、再構築ってそういうことなんだろうなー」
千尋は背もたれに身体を預け、缶をくるくると回す。
「育て甲斐あるじゃん。しかも、九重くんとセットじゃないとダメな仕組み」
「九重が電源か」
アキがボタンを押しながら、わずかに眉をひそめた。
「一蓮托生兄弟だね。人生ハードモードすぎ。育てられる側は難易度知らないけど」
「まあ、今回は“動いた”だけで十分だよ。動かないより百倍マシ」
千尋はソファから身を起こし、足を組み直す。
「でも、あれだね。中身ゼロで、外だけ本人って……九重くん、しばらく大変だろうなあ」
「放置したら壊れる?」
「そりゃあね。あの状態で放置したら、“次の段階”に行けずに固まる。再構築体は、思考も感情も、刺激で少しずつ形作るから」
「刺激って?」
「……人との関わり。言葉、表情、匂い、手の感触。そういう“記録できない情報”」
千尋は空になった缶を見つめながら、小さく笑った。
「要は、“生きてる”を覚えさせる感じだね」
「ふーん。めんどくさい仕様」
アキは短く言い、再びゲーム画面に視線を戻した。
「修正パッチの方が早そう」
「はは、それやったら人間やめるね」
千尋が軽く肩をすくめる。
「でもさ、心を入れ直すっていうのは、案外それくらい面倒なもんなんだよ。時間も手間も、愛情もいる」
「……九重に、それできるの?」
珍しくアキがゲームの手を止めて、目を上げた。
千尋はその視線を受け、少しだけ黙った。
天井の蛍光灯が、薄く二人の顔を照らしている。
「できると思う。澪くんを想う心は真っすぐだから」
「まっすぐでも、折れたら終わり」
「そのときは……俺らが支えるしかないね」
千尋は笑いながらも、目の奥だけは笑っていなかった。
「再構築なんて、人間にやらせる作業じゃないのになぁ」
「でもやるんでしょ。人間だから」
「……まぁね」
カン、と空き缶をテーブルに置く音が響く。
外では、風がビルの間を抜け、夕焼けがガラス越しに滲んでいた。
「心をもう一回作るってさ、簡単に言うけどゼロから育てるってことだもんなー」
「だから、赤ちゃん」
アキはそう言って、またゲームに視線を戻した。
その目は、光の反射で少しだけ冷たく見えた。
しばらくの沈黙。
千尋は、ゲーム機の反射光に照らされた横顔を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……執行官の俺らが命を語るの、滑稽じゃない?」
アキの親指が、カチ、とボタンを押した。
静寂が再び戻る。
そして、わずかに口元が動いた。
「……本当、それ」
千尋が、肩を揺らして笑う。
乾いた笑い声が、薄い空気に滲んで消えた。
夕焼けが沈む。
風が止む。
ふたりの会話だけが、世界の端で微かに生きていた。




