第49話 揺らぐ世界、呼ぶ声
――暗闇の底で、何かが揺れた。
音でも光でもない。
けれど、確かに“外”があった。
遠くから、誰かが呼んでいる。
その声が波紋になって、意識を打つ。
痛い。
でも、懐かしい。
これが“生きている”ということなら――
――俺は、ここにいる。
***
言真は机の上のコップを横目に、澪の手を拭っていた。
冷えた指先を包み、息を吐く。
「……無茶だけはするな。お前、無意識で頑張ろうとするから」
小さく笑う声が、空気に溶ける。
その瞬間――
部屋の灯りが、かすかに明滅した。
風もないのに、カーテンがふわりと揺れた。
言真は動きを止める。
指先の下、澪の皮膚が微かに温もりを取り戻していた。
「……澪?」
掠れた声で呼びかける。
返事はない。
けれど、手の中で確かに心臓のような拍動があった。
「……生きてるじゃん」
言真の口元が、僅かに緩む。
雨の音が、静かに遠のいていった。
***
因課・洛陽支部。情報管理室。
無音の波形が、一瞬だけ跳ねた。
「反応あった」
日菜が息を呑む。
《同調率:10.1% → 15.6% → 19.4%》
「……言真さん、届いてるよ。澪くんに、その声が」
口元を綻ばせる。
胸の奥で、緊張と安堵がせめぎ合っていた。
波形が脈を打っている。
小さな光が、現実に触れた気がした。
モニターに食い入るように見つめていると、背後で扉が開いた。
「そんなに顔を近づけると、目が悪くなるわよ」
コンビニ袋を片手に入ってきたのは梢だった。
香ばしい匂いと、雨上がりの空気が一緒に流れ込む。
「少し休憩しない? 食べてないだろうから、簡単なもの買ってきた」
「ありがとうございます! でも、もう少しだけ……」
日菜は視線を外さないまま答えた。
梢は彼女の肩越しにモニターを覗き込み、わずかに目を細める。
「……動いてる。これ、綾瀬くんの」
「はい。反応がありました。同調率、上昇中です」
言葉にすると、胸の奥の熱が増した。
届かないと思っていた呼び声が、徐々に形になっている。
「ふふ。やっぱりあの子、簡単には沈まないわね」
梢は小さく笑い、コンビニ袋を机に置いた。
「じゃあ、その奇跡を見届けながら食べて。冷めたらもったいない」
日菜は一瞬だけ笑って、頷いた。
指先でパンの包みを受け取りながら、再びモニターを見やる。
《同調率:19.4% → 23.6%》
波形が、心臓の鼓動みたいに跳ねた。
そのリズムが、確かに“生”を告げていた。
***
「本当に、これで大丈夫なんですか?」
糸を解かれた気弱なサラリーマンが、千尋の袖を掴んで尋ねた。
その背後では、ぐったりと地面に座り込む数人の市民たち。
全員ずぶ濡れで、足元にはまだ薄く水が広がっている。
千尋はへらりと笑い、ガムを噛み直した。
「大丈夫。みんなちょっと“冷やされた”だけだから。不安なら因課に行きな。不眠とか幻覚とか出てたら、専門医も紹介してくれるよ」
「は、はい……」
サラリーマンは深く頭を下げ、逃げるように立ち去った。
残された千尋は、ため息混じりに空を仰ぐ。
「まーた暴走だよ。洛陽も広いけど、人のストレスも広いねえ」
その背後で、ぱしゃり、と水音。
振り返ると、青い髪の少年――アキが立っていた。
「お、出た出た。犯人」
「……うるさい。ゲームしてたのに」
アキは面倒くさそうに言いながら、足元の水を見下ろした。
濡れた地面には、先ほどの暴走者たちが横たわっている。
息はあるが、動けそうにはなかった。
「……まさか、お前。ゲームのロード中に暴走鎮圧した?」
「うん。どうせ暇だったし」
「いや、暇の使い方ウケる」
千尋がケタケタと笑う。
アキはあくびをひとつして、スマホを取り出した。
「でも、帰ってケーキ食べたい」
「お前ほんとに人間? 胃袋でしか動いてないじゃん」
「千尋にだけは言われたくない」
「それもそっか!」
千尋は頭を掻き、笑った。
「じゃあ、そこのカフェ行かない? 俺も仕事したし、お前もロード中に働いたし、腹減ったし」
「パンケーキ?」
「パンケーキ」
「行く」
アキの返事は、驚くほど早かった。
千尋は肩をすくめながら、空に手を伸ばす。
「ほんっと、イノシードよりお前のが制御不能だよね」
「糖分は正義」
「わかるー」
ふたりは並んで歩き出す。
アスファルトに残る水たまりが、彼らの足跡を淡く映していた。
***
カフェの窓際。
アキはふわふわのパンケーキを口に含み、幸せそうに笑った。
さっきまでの気だるげな様子とは打って変わって、その表情はどこか輝いて見える。
「糖分、神」
一欠片を飲み込んだ後、メロンソーダをひと口。
口の中で炭酸が弾けると、アキの目がぱっと輝いた。
「炭酸、最高……!」
「いやあ、相変わらず糖にメロメロにされるアキくん、おもれーわ」
向かいに座る千尋の前には、大盛りのナポリタン。
フォークをくるくる回しながら、呑気に笑っている。
「うるさいな。糖分は正義って言ったろ。……ていうか、マルチタスクできるようになったんだね、千尋」
「ん?」
「綾瀬澪。仕事でもないのに、関わろうとしてるじゃん」
「え、興味ある?」
にやりと笑う千尋。
メロンソーダをもう一口飲んだアキは、無表情のままこくりと頷いた。
「虚無相になるやつなんて、そうそういない。言わば、廃人。正確には、OSが飛んだパソコンだね」
千尋がフォークを止める。
「……うん?」
「本体は動くけど、データも部品もない。電源入れても、黒い画面のまま。九重の同調っていうのは、外部OSで強制起動してるようなもんだよ」
「おおー、アキくんらしい例え。で、そのOSの持ち主が九重くんってわけだ」
「うん。問題は、それを“綾瀬澪”って呼べるかどうか、でしょ」
アキはストローをくるくる回しながら、視線を落とした。
氷が溶ける音だけが、静かに響く。
「復活っていうより、リサイクル。外側は同じでも、入ってるプログラムは別物。人間の形をした“新しい機械”。僕はそう見てる」
千尋は、紙ナプキンを引き抜き、ボールペンで落書きを始めた。
線の上には、船と歯車。
ぐちゃぐちゃで、何が描きたいのかも分からない。
「でもさ。動いてるなら“生きてる”でいいと思うよ」
「……動いてるだけの機械でも?」
「そう。進むなら、それでいい。船が海を渡る限り、それは“生きてる船”なんだ」
アキは少しだけ眉を上げた。
パンケーキを切りながら、静かに言う。
「生きてればいい、ね。積み上げたものが消えても、同じ人として見られるの?」
「見られるよ」
即答。
千尋の声はやけにあっさりしていた。
「澪くん、いいやつだったし。根っこが変わらないなら、全部忘れてもまた同じとこに帰ってくる気がする。……願望かもだけど」
軽く笑って見せたその顔に、ほんの少し影が落ちる。
アキはじっとそれを見て、低く言った。
「でも、千尋は裏切られた側でしょ。美味しいって言ってた相手が、味を感じてなかったんでしょ」
フォークの先が止まる。
ナポリタンの麺が、皿の上でひとすじ垂れた。
「よく知ってるね」
千尋は、かすかに笑った。
その笑いには、どこかひりつくような痛みが混じっていた。
「話題出すからにはね」
アキはそう言って、皿のパンケーキを最後のひと切れまで食べきる。
外は、窓越しに雨上がりの光。
その光を見上げながら、千尋は小さく呟いた。
「……でもさ。味がしなくても、一緒に食ってた時間は本物なんだよね」
その言葉に、アキはストローを止め、目線を外にやった。
通りを走る子どもたちの笑い声が、遠くに小さく響く。
「……そういうの、わかんないや」
「だろうね」
千尋はナポリタンの皿を空にして、立ち上がる。
「ま、理解より共感ってやつだ。お前はゲームで十分」
「そうする」
アキはスマホを取り出し、画面をタップした。
その指先が光を受けて、ほんの少しだけ揺れる。
窓の外。
光の粒がゆらりと浮かび、千尋の頬を照らした。
まるで誰かの“想い”が形を持ったように――。
***
因課・洛陽支部。情報管理室。
モニターの光が、突如として跳ね上がった。
「……え?」
日菜が身を乗り出す。
波形が荒れるように振れ、数値が瞬時に変わった。
《同調率:23.6%→ 32.8% → 38.1%》
「上昇幅……大きすぎる。これ、何か起きてる……!」
彼女の瞳がモニターに釘付けになる。
数値はなおも揺らぎながら、ゆっくりと上がっていく。
《同調率:38.1% → 41.2% → 45.8%》
「……言真さん、これ……!」
日菜の声が震える。
画面には、確かな“生”のリズムが刻まれていた。
まるで、止まっていた心臓が“再び動き出そうとしている”かのように。
***
暗闇の底。
浮遊する意識の中で、“音”が生まれた。
遠くで誰かが笑っている気がした。
柔らかくて、あたたかい響き。
でも、それは“声”というより――残響。
誰かが、確かに“本物”って言ってた気がする。
それだけが、鮮明だった。
音の形も、言葉の意味も掴めないのに、
心の奥が、不思議とあたたかくなる。
胸の内側で、なにかがひとつ、静かに動いた。
かすかに、息を吹き返すように。
――ピッ。
どこかで、音が跳ねた。
生の波紋が、再び息を吹き返した瞬間だった。




