第48話 それでも、響いている
アパートのリビングには、昨日と同じ朝が流れていた。
湯気のないコーヒー。洗っていない皿。
止まった時間の中で、言真はいつものように澪の世話を続けていた。
身体を拭き、髪を梳かし、着替えを手伝う。
反応はない。それでも、声をかける。
「おはよう、澪。……今日は雨だよ。外、出なくて正解だな」
当然、返事はない。
けれど、習慣のように話しかける。
声を出していないと、自分まで止まってしまいそうで。
「……なあ、澪」
言真は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座っていた。
静かな澪の手を、両手で包み込む。
「お前、まだここにいるんだろ」
声は届かない。
それでも、彼は止めなかった。
「牛丼の時、覚えてるか。あのとき……お前、味わってなかったんだよな」
小さく笑う。
乾いた、けれど優しい笑みだった。
「俺、気づいてやれなかった。……うまいって言ってくれる限り、お前が生きてる気がした。勝手に安心してたんだ」
沈黙が降りる。
窓の外では雨の音が鳴り、雨粒が窓を叩いた。
「なあ、澪。お前が人を助けるのは、優しいからじゃない。しんどそうって思うからだろ。放っとけないからって後先考えないで」
言真は小さく笑った。
その笑いは、責めるでも慰めるでもなく、ただ諦めにも似たあたたかさだった。
「ずるいよ、そういうとこ。頭より身体動いちゃうんだもんな」
そう言って、彼は澪の頬に触れた。
その瞬間――
モニターの波形が、再びほんの一瞬だけ、跳ねた。
“声”が届いたわけではない。
けれど、“想い”が届いた気がした。
静かな部屋の中で、わずかな光が澪の指先に宿る。
それは、確かに息をした“生”の残響だった。
***
――音がする。
暗い。けれど、光っている。
冷たい。けれど、温かい。
全てが矛盾している。
触れても、掴めない。
考えるたびに、思考が霧みたいに散っていく。
――“俺”って、誰?
返事は返ってこない。
“俺”という言葉が、壁にぶつかって消える。
ただ、その霧の向こうで――
ひとつだけ、確かなものがあった。
声らしきもの。
優しくて、懐かしい声。
何を言っているのかは分からない。
でも、その響きだけが、世界の形を与えていた。
……ああ、これが“外”だ。
でも、きっと外とは無縁だ。
自分が誰なのかわからない。
本当に誰かであるかもわからない。
何者でもない、誰か。
きっと、そうなんだろう。
喪失と一緒に、胸の奥がきゅうっと縮んだ。
それが“痛い”という感覚だったのかもしれない。
そう思った瞬間、
沈んでいた意識の底に、小さな波紋が生まれた。
***
因課・洛陽支部。情報管理室。
モニターの光が、ゆっくりと脈を刻むように明滅していた。
「おー、すげー。見た?」
千尋が顔を上げる。
日菜は瞬きを忘れたまま、指先で波形を拡大した。
「……動いてる。明確に波がある」
「誤検出じゃなくて?」
「違う。これは……“同調”」
画面の右下に、数値がひとつ浮かんでいた。
《同調率:3.7% → 7.2%》
日菜の息が震える。
それは、変化だった。
確かに、同調率が上がっていたのだ。
「言真さん……凄いよ」
呟くような感嘆の声が零れた。
千尋が飴を転がしながら、目を細める。
「へぇ。死人と心臓が繋がってるって、聞いたことないわ。おもろ」
「死人じゃないよ」
日菜はかすかに笑う。
「だって……まだ、響いてる」
モニターの波形が、再び小さく跳ねた。
澪の“心”が、遠くから応えたように。
「お、日菜ちゃん見て。これもすげーよ」
千尋が身を乗り出す。
「同調率、8.6%……いや、待って、上がってる。9.4……10.1……!」
日菜が目を見開く。
波形が鼓動のように脈打ち、
希望の色が、確かにそこに灯った。
「……生きてる。今も、ちゃんと」
日菜の瞳が潤み、千尋は息を吐く。
「じゃ、俺は帰るわ。どうせ夕方には、イノシードの暴走関係で連絡来るだろうし、腹満たさないとねー」
軽く手を振って扉へ向かった千尋が、ふと足を止める。
「あ、そうだ。俺の感想、言っとくね」
くるりと振り返り、飄々と笑う。
けれど、その目だけはどこまでも優しかった。
「テセウスの船、澪くんバージョン。俺はさ、中身が変わっても澪くんだと思うよ。ガワを知ってるからこそ、人間って、そう思いたくなるんだろうね」
言い残して、千尋は手をひらりと上げた。
扉が閉まる音が、静かな部屋に吸い込まれていく。
モニターの波形が、再びかすかに跳ねた。
まるで――その言葉に、誰かが微笑んだかのように。
***
廊下を歩く千尋の向かい側から、背の低い少年が歩いてくる。
空のような青い髪の少年は、手にした携帯ゲーム機を操作しながら近づいてきた。
すれ違いざまに、二人はほぼ同時に足を止める。
「千尋、あいつのことどんだけ気に入ってんの。課長、千尋が構ってくれないって泣いてたよ」
まだ声変わりもしていないその少年は、横目で千尋をちらりと見る。
「アキくんこそどうしたの? 引きこもりが洛陽に来ちゃって」
千尋がからかうように笑うと、アキと呼ばれた少年は無言でゲーム機をリュックにしまい、代わりに四つ折りの紙を取り出して差し出した。
「異動。僕と千尋。洛陽支部の執行官として。但し、暗殺じゃなくて秩序の安定。……今で言えば、イノシードの件で市民を守ること」
ヒュウと口を鳴らし、千尋は紙を受け取る。
「俺とアキくんか〜。こりゃ楽になれるかも」
「僕が楽をする。千尋が頑張って」
気だるげに答えたアキの髪を、千尋は乱暴にくしゃっと撫でた。
「ひとまず飯食わない? アキくん、ご飯食べようよ」
「……スイーツなら」
「ご飯じゃないじゃん。じゃ、カフェ行こうか」
返事を待たずに、千尋は軽快な足取りで歩き出す。
アキは小さくため息をつき、振り返って情報管理室の扉を見た。
「……綾瀬澪、か」
その声は、廊下の奥に吸い込まれるように消えた。
***
皆上遼は、デスク上に積まれた報告書の山を見下ろした。
どれもイノシードによる市民暴走の記録だ。
「……多いな」
ため息混じりに、ぬるくなったコーヒーを飲む。
印鑑を押すたびに、書類の山がわずかに減り、またすぐ新しい束が届く。
「執行官が二人に増えたのは助かるけど、暴走者の登録も比例して増えるからな。はあ……忙しい、忙しい」
そう言いつつも、遼の声は淡々としていた。
彼のデスクの隅には、小さな張り紙が一枚。
『トイレは我慢しない 定時で帰る』
――青いマーカーで丸がついている。
「……そうだな、トイレは行こう。身体に悪い。あと定時で帰ろう」
ひとりごとのように呟き、肩を回す。
その口元には、ほんの少し笑みが戻っていた。
端末がまた小さく震える。
新規報告:洛陽西区、異能干渉反応。
「……ったく。帰り支度してるときに限って、これだ」
遼は椅子を回し、書類を抱えながら立ち上がった。
壁の時計は、すでに十七時を三分過ぎている。
「今から残業申請、通るかな……」
誰にともなく呟く。
因課は、定時退社厳守。
勝手に残っていようものなら、「働き方指導票」が即日メールで届く。
「あー、これ出したら間に合わないな……いやでも、放っとくと怒られるし……」
遼は眉間を押さえながら、電子申請端末を開いた。
システムのログイン音が無駄に明るく響く。
「トイレ行って、申請して、定時で帰る。それが因課の誇り。今日はもう定時過ぎてしまったけど」
独り言のように呟き、苦笑を浮かべた。
その背中が、妙に公務員らしい疲労で滲んでいた。




