表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日替わり異能、24時間後には人間以下  作者: 森鷺 皐月
第三章 変異日常編
48/55

第48話 それでも、響いている

 アパートのリビングには、昨日と同じ朝が流れていた。

 湯気のないコーヒー。洗っていない皿。

 止まった時間の中で、言真はいつものように澪の世話を続けていた。

 身体を拭き、髪を梳かし、着替えを手伝う。

 反応はない。それでも、声をかける。


「おはよう、澪。……今日は雨だよ。外、出なくて正解だな」


 当然、返事はない。

 けれど、習慣のように話しかける。

 声を出していないと、自分まで止まってしまいそうで。


「……なあ、澪」


 言真は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座っていた。

 静かな澪の手を、両手で包み込む。


「お前、まだここにいるんだろ」


 声は届かない。

 それでも、彼は止めなかった。


「牛丼の時、覚えてるか。あのとき……お前、味わってなかったんだよな」


 小さく笑う。

 乾いた、けれど優しい笑みだった。


「俺、気づいてやれなかった。……うまいって言ってくれる限り、お前が生きてる気がした。勝手に安心してたんだ」


 沈黙が降りる。

 窓の外では雨の音が鳴り、雨粒が窓を叩いた。


「なあ、澪。お前が人を助けるのは、優しいからじゃない。しんどそうって思うからだろ。放っとけないからって後先考えないで」


 言真は小さく笑った。

 その笑いは、責めるでも慰めるでもなく、ただ諦めにも似たあたたかさだった。


「ずるいよ、そういうとこ。頭より身体動いちゃうんだもんな」


 そう言って、彼は澪の頬に触れた。


 その瞬間――

 モニターの波形が、再びほんの一瞬だけ、跳ねた。


 “声”が届いたわけではない。

 けれど、“想い”が届いた気がした。


 静かな部屋の中で、わずかな光が澪の指先に宿る。


 それは、確かに息をした“生”の残響だった。


***


 ――音がする。


 暗い。けれど、光っている。

 冷たい。けれど、温かい。


 全てが矛盾している。

 触れても、掴めない。

 考えるたびに、思考が霧みたいに散っていく。


 ――“俺”って、誰?


 返事は返ってこない。

 “俺”という言葉が、壁にぶつかって消える。


 ただ、その霧の向こうで――

 ひとつだけ、確かなものがあった。


 声らしきもの。


 優しくて、懐かしい声。

 何を言っているのかは分からない。

 でも、その響きだけが、世界の形を与えていた。


 ……ああ、これが“外”だ。


 でも、きっと外とは無縁だ。

 自分が誰なのかわからない。

 本当に誰かであるかもわからない。


 何者でもない、誰か。

 きっと、そうなんだろう。


 喪失と一緒に、胸の奥がきゅうっと縮んだ。

 それが“痛い”という感覚だったのかもしれない。


 そう思った瞬間、

 沈んでいた意識の底に、小さな波紋が生まれた。


***


 因課・洛陽支部。情報管理室。

 モニターの光が、ゆっくりと脈を刻むように明滅していた。


「おー、すげー。見た?」


 千尋が顔を上げる。

 日菜は瞬きを忘れたまま、指先で波形を拡大した。


「……動いてる。明確に波がある」


「誤検出じゃなくて?」


「違う。これは……“同調”」


 画面の右下に、数値がひとつ浮かんでいた。

 《同調率:3.7% → 7.2%》


 日菜の息が震える。

 それは、変化だった。

 確かに、同調率が上がっていたのだ。


「言真さん……凄いよ」


 呟くような感嘆の声が零れた。

 千尋が飴を転がしながら、目を細める。


「へぇ。死人と心臓が繋がってるって、聞いたことないわ。おもろ」


「死人じゃないよ」


 日菜はかすかに笑う。


「だって……まだ、響いてる」


 モニターの波形が、再び小さく跳ねた。

 澪の“心”が、遠くから応えたように。


「お、日菜ちゃん見て。これもすげーよ」


 千尋が身を乗り出す。


「同調率、8.6%……いや、待って、上がってる。9.4……10.1……!」


 日菜が目を見開く。

 波形が鼓動のように脈打ち、

 希望の色が、確かにそこに灯った。


「……生きてる。今も、ちゃんと」


 日菜の瞳が潤み、千尋は息を吐く。


「じゃ、俺は帰るわ。どうせ夕方には、イノシードの暴走関係で連絡来るだろうし、腹満たさないとねー」


 軽く手を振って扉へ向かった千尋が、ふと足を止める。


「あ、そうだ。俺の感想、言っとくね」


 くるりと振り返り、飄々と笑う。

 けれど、その目だけはどこまでも優しかった。


「テセウスの船、澪くんバージョン。俺はさ、中身が変わっても澪くんだと思うよ。ガワを知ってるからこそ、人間って、そう思いたくなるんだろうね」


 言い残して、千尋は手をひらりと上げた。

 扉が閉まる音が、静かな部屋に吸い込まれていく。


 モニターの波形が、再びかすかに跳ねた。

 まるで――その言葉に、誰かが微笑んだかのように。


***


 廊下を歩く千尋の向かい側から、背の低い少年が歩いてくる。

 空のような青い髪の少年は、手にした携帯ゲーム機を操作しながら近づいてきた。

 すれ違いざまに、二人はほぼ同時に足を止める。


「千尋、あいつのことどんだけ気に入ってんの。課長、千尋が構ってくれないって泣いてたよ」


 まだ声変わりもしていないその少年は、横目で千尋をちらりと見る。


「アキくんこそどうしたの? 引きこもりが洛陽に来ちゃって」


 千尋がからかうように笑うと、アキと呼ばれた少年は無言でゲーム機をリュックにしまい、代わりに四つ折りの紙を取り出して差し出した。


「異動。僕と千尋。洛陽支部の執行官として。但し、暗殺じゃなくて秩序の安定。……今で言えば、イノシードの件で市民を守ること」


 ヒュウと口を鳴らし、千尋は紙を受け取る。


「俺とアキくんか〜。こりゃ楽になれるかも」


「僕が楽をする。千尋が頑張って」


 気だるげに答えたアキの髪を、千尋は乱暴にくしゃっと撫でた。


「ひとまず飯食わない? アキくん、ご飯食べようよ」


「……スイーツなら」


「ご飯じゃないじゃん。じゃ、カフェ行こうか」


 返事を待たずに、千尋は軽快な足取りで歩き出す。

 アキは小さくため息をつき、振り返って情報管理室の扉を見た。


「……綾瀬澪、か」


 その声は、廊下の奥に吸い込まれるように消えた。


***


 皆上遼は、デスク上に積まれた報告書の山を見下ろした。

 どれもイノシードによる市民暴走の記録だ。


「……多いな」


 ため息混じりに、ぬるくなったコーヒーを飲む。

 印鑑を押すたびに、書類の山がわずかに減り、またすぐ新しい束が届く。


「執行官が二人に増えたのは助かるけど、暴走者の登録も比例して増えるからな。はあ……忙しい、忙しい」


 そう言いつつも、遼の声は淡々としていた。

 彼のデスクの隅には、小さな張り紙が一枚。


『トイレは我慢しない 定時で帰る』


 ――青いマーカーで丸がついている。


「……そうだな、トイレは行こう。身体に悪い。あと定時で帰ろう」


 ひとりごとのように呟き、肩を回す。

 その口元には、ほんの少し笑みが戻っていた。


 端末がまた小さく震える。

 新規報告:洛陽西区、異能干渉反応。


「……ったく。帰り支度してるときに限って、これだ」


 遼は椅子を回し、書類を抱えながら立ち上がった。

 壁の時計は、すでに十七時を三分過ぎている。


「今から残業申請、通るかな……」


 誰にともなく呟く。

 因課は、定時退社厳守。

 勝手に残っていようものなら、「働き方指導票」が即日メールで届く。


「あー、これ出したら間に合わないな……いやでも、放っとくと怒られるし……」


 遼は眉間を押さえながら、電子申請端末を開いた。

 システムのログイン音が無駄に明るく響く。


「トイレ行って、申請して、定時で帰る。それが因課の誇り。今日はもう定時過ぎてしまったけど」


 独り言のように呟き、苦笑を浮かべた。

 その背中が、妙に公務員らしい疲労で滲んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ