第47話 声のない、うまい
因課・洛陽支部。情報管理室。
部屋には、電子音と微かな呼吸の音だけが残る。
日菜は長い息を吐いた。
その背中に、千尋が壁にもたれながら声をかける。
「ねえ、日菜ちゃん」
「ん?」
「なんで言わなかったの? “元の澪くんには戻らないかも”ってやつ」
日菜は少しだけ目を伏せる。
モニターの光が、頬に淡く反射した。
「それ、言真さんの顔見て言える?」
千尋は眉を寄せた。
日菜は机に手をつき、ゆっくりと息を整える。
「私はね、現実を伝える仕事をしてるけど……絶望を渡す仕事じゃないんだよ」
「へぇ……」
千尋がポケットから飴を取り出し、口の中に放り投げる。
「……テセウスの船だね。九重くんはどっちだろ。中身が変わっても“動く澪くん”を澪くんだと思うかな? それとも――」
「千尋くん。……やめよ」
日菜は静かに笑った。
でも、その目は強かった。
「今は、“壊れた”ことより、“繋がってる”ことを信じようよ。だって、そういう信じ方ができる人がいないと、この仕事って、ただの死体管理になっちゃうから」
千尋は少し黙ってから、息を吐いた。
「……太陽だねぇ」
「照らすの、得意なんで」
二人の間に、小さな沈黙が落ちる。
モニターの光が一瞬だけ瞬き、波形が微かに揺れた。
***
カーテンの隙間から、昼の光が差し込んでいた。
澪と言真の住むアパート。
小さな鍋の中で、おかゆがゆっくりと泡を立てている。
時折、沸々と音を立て、白い湯気を立ちのぼらせた。
言真は火を止め、木の匙でひと口すくって味を見る。
舌にのせた瞬間、ほとんど味がしない。
「……薄いな」
思わず笑って、湯気の向こうを見た。
ベッドの上、澪はまぶたを閉じたまま静かに呼吸している。
器を持ち、スプーンを手に取る。
「澪。食えるか」
返事はない。
それでも、言真はスプーンを唇の端へ運ぶ。
わずかに喉が動いた。
反射のような仕草でも、それだけで十分だった。
「そうだ、それでいい」
もう一口、また一口。
白いおかゆがゆっくりと減っていく。
部屋には、スプーンの音と、ふたりの呼吸だけがあった。
「お前さ、前は“熱っ”とか“味しねぇ”とか、うるさかったのにな」
かすかに笑い、澪の頬に目をやる。
ほんの少し、色が戻ってきていた。
「今は、何も言わないか。……でも、いいよ」
言真はスプーンを置き、澪の手をそっと包む。
体温が確かにそこにあった。
「味なんてどうでもいい。こうして、生きているならそれでいい」
言真の声は低く、静かに震えていた。
その時、澪の喉がかすかに鳴った。
息か、音か、言葉の残滓か。
ほんの一瞬だけ、声にならない声が響いた。
言真は息を止めた。
けれど、次の瞬間にはまた沈黙が戻る。
「……そっか。焦るなよ」
小さく笑い、彼は澪の髪を撫でた。
その指先が、かすかに動いたことに気づかぬまま。
同じ頃、因課のモニターが再び光を放った。
ほとんど平坦な波形の中で、
一瞬だけ、微かな脈が跳ねた。
まるで、遠くで心臓が再び動いたかのように。
***
一年前。
言真が澪の担当になった頃、七年の記憶を失った澪には、世界の全てが目新しかった。
「おー、これがIDカードか! えーと……職輪転化? これ使うと色んな異能使えるんだ!」
傷ひとつない登録証を手に、目を輝かせる澪。
その笑顔を見て、言真は思わず笑った。
(今度こそ、普通に生きられるように。俺が、絶対に守る)
幼少期のオーバーライドで、澪は記憶と共に長い眠りについていた。
それを見届けたのも、自分だった。
だからこそ、二度と壊させたくなかった。
「九重さん! これからよろしくお願いします!!」
「言真でいいよ。仲良くしていこ?」
その言葉に、澪は無邪気に笑った。
子供のように純粋で、疑いも恐れも知らない笑顔。
まるで磨かれた宝石のように澄んでいた。
「じゃあ、ご飯食べようか。澪くん、焼肉好き?」
「んー、多分?」
昏睡から目覚めて以来、病院食ばかりだった澪にとって、食事に“楽しみ”の感情はなかった。
皿を空にしても、ただの義務。
生きるための作業にすぎなかった。
しかし、この焼肉が――すべての始まりだった。
煙の立つ鉄板の上で、肉がじゅっと音を立てる。
タレの香りが鼻をくすぐり、油が跳ねて光る。
澪は思わず目を丸くした。
「わっ……すげ、音が……うまそう……!」
言真はトングで肉を返しながら笑う。
「焦がさないようにね? きみ、こういうの得意そうに見えて不器用だから」
「見てから言ってください!」
軽口を交わしながら、澪は慎重に一枚を皿に移し、タレをつけて口に運んだ。
一瞬、表情が止まる。
そして――
「……あっつ! でも、うまいっ!! 肉とタレの甘さの相性最高!! 噛む度に肉汁染み込む〜!」
言真はその素直な声に、ふっと目を細めた。
「だろ。人間、これができりゃ立派に生きてるよ」
「へへ……これ、生きてるって感じなんですね」
その言葉に、言真の胸が静かに熱を帯びた。
火の粉がぱちりと弾ける。
澪の頬に、ほんの少し赤みが戻っていた。
「じゃあ次はこれ食べてみな。カルビ。タレ多め派? 塩派?」
「タレ! ……あ、でも両方!」
「欲張りだな。ちゃんと火通して食べなよ」
二人の笑い声が混じって、換気音の中に溶けていく。
あの日、確かにそこには“生”があった。
噛むたびに、世界が戻ってくるような味がした。
――あの時はまだ、“うまい”という言葉に、ちゃんと心があった。
***
それから、何度も一緒に食卓を囲んだ。
焼肉の夜も、カレーの昼も、夜食のカップラーメンも。
どれも同じように、澪は笑って「うまい」と言った。
味の話もよくした。
「今日のはちょっと焦げてる」「昨日のより甘い」「塩入れすぎ」
その全部に、感情の温度があった。
けれど――あの日を境に、少しずつ言葉が減っていった。
オーバーライド再暴走の一週間後、牛丼を食べた日。
あれから、本当のうまいが減った。
「うまい」
「本当に何でもうまそうに食べるね」
「うん、だってうまいから!」
笑ってはいる。
でも、その笑い方がどこか均一になっていた。
同じ言葉、同じ表情。
音だけが残って、熱が消えていく。
その頃の言真は、何もおかしいとは思わなかった。
本当に、気づかなかったのだ。
彼の中では、澪が笑っている限り“無事”だった。
湯気の立たないスープ。
冷めたままの皿。
それでも澪は、同じように言った。
「うまい」
その夜も、言真は気にせず皿を片付けた。
それが“異変”だと知るのは、ずっと後になってからだった。
あのとき、澪が笑った理由を、今なら分かる気がする。
それは“生きているふり”だった。
――そして今。
目の前の澪は、もう“うまい”すら言わなくなった。




