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日替わり異能、24時間後には人間以下  作者: 森鷺 皐月
第三章 変異日常編
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第47話 声のない、うまい

 因課・洛陽支部。情報管理室。

 部屋には、電子音と微かな呼吸の音だけが残る。


 日菜は長い息を吐いた。

 その背中に、千尋が壁にもたれながら声をかける。


「ねえ、日菜ちゃん」


「ん?」


「なんで言わなかったの? “元の澪くんには戻らないかも”ってやつ」


 日菜は少しだけ目を伏せる。

 モニターの光が、頬に淡く反射した。


「それ、言真さんの顔見て言える?」


 千尋は眉を寄せた。

 日菜は机に手をつき、ゆっくりと息を整える。


「私はね、現実を伝える仕事をしてるけど……絶望を渡す仕事じゃないんだよ」


「へぇ……」


 千尋がポケットから飴を取り出し、口の中に放り投げる。


「……テセウスの船だね。九重くんはどっちだろ。中身が変わっても“動く澪くん”を澪くんだと思うかな? それとも――」


「千尋くん。……やめよ」


 日菜は静かに笑った。

 でも、その目は強かった。


「今は、“壊れた”ことより、“繋がってる”ことを信じようよ。だって、そういう信じ方ができる人がいないと、この仕事って、ただの死体管理になっちゃうから」


 千尋は少し黙ってから、息を吐いた。


「……太陽だねぇ」


「照らすの、得意なんで」


 二人の間に、小さな沈黙が落ちる。

 モニターの光が一瞬だけ瞬き、波形が微かに揺れた。


***


 カーテンの隙間から、昼の光が差し込んでいた。

 澪と言真の住むアパート。


 小さな鍋の中で、おかゆがゆっくりと泡を立てている。

 時折、沸々と音を立て、白い湯気を立ちのぼらせた。


 言真は火を止め、木の匙でひと口すくって味を見る。

 舌にのせた瞬間、ほとんど味がしない。


「……薄いな」


 思わず笑って、湯気の向こうを見た。

 ベッドの上、澪はまぶたを閉じたまま静かに呼吸している。


 器を持ち、スプーンを手に取る。


「澪。食えるか」


 返事はない。

 それでも、言真はスプーンを唇の端へ運ぶ。


 わずかに喉が動いた。

 反射のような仕草でも、それだけで十分だった。


「そうだ、それでいい」


 もう一口、また一口。

 白いおかゆがゆっくりと減っていく。


 部屋には、スプーンの音と、ふたりの呼吸だけがあった。


「お前さ、前は“熱っ”とか“味しねぇ”とか、うるさかったのにな」


 かすかに笑い、澪の頬に目をやる。

 ほんの少し、色が戻ってきていた。


「今は、何も言わないか。……でも、いいよ」


 言真はスプーンを置き、澪の手をそっと包む。

 体温が確かにそこにあった。


「味なんてどうでもいい。こうして、生きているならそれでいい」


 言真の声は低く、静かに震えていた。


 その時、澪の喉がかすかに鳴った。

 息か、音か、言葉の残滓か。

 ほんの一瞬だけ、声にならない声が響いた。


 言真は息を止めた。

 けれど、次の瞬間にはまた沈黙が戻る。


「……そっか。焦るなよ」


 小さく笑い、彼は澪の髪を撫でた。

 その指先が、かすかに動いたことに気づかぬまま。


 同じ頃、因課のモニターが再び光を放った。

 ほとんど平坦な波形の中で、

 一瞬だけ、微かな脈が跳ねた。


 まるで、遠くで心臓が再び動いたかのように。


***


 一年前。

 言真が澪の担当になった頃、七年の記憶を失った澪には、世界の全てが目新しかった。


「おー、これがIDカードか! えーと……職輪転化? これ使うと色んな異能使えるんだ!」


 傷ひとつない登録証を手に、目を輝かせる澪。

 その笑顔を見て、言真は思わず笑った。


(今度こそ、普通に生きられるように。俺が、絶対に守る)


 幼少期のオーバーライドで、澪は記憶と共に長い眠りについていた。

 それを見届けたのも、自分だった。

 だからこそ、二度と壊させたくなかった。


「九重さん! これからよろしくお願いします!!」


「言真でいいよ。仲良くしていこ?」


 その言葉に、澪は無邪気に笑った。

 子供のように純粋で、疑いも恐れも知らない笑顔。

 まるで磨かれた宝石のように澄んでいた。


「じゃあ、ご飯食べようか。澪くん、焼肉好き?」


「んー、多分?」


 昏睡から目覚めて以来、病院食ばかりだった澪にとって、食事に“楽しみ”の感情はなかった。

 皿を空にしても、ただの義務。

 生きるための作業にすぎなかった。



 しかし、この焼肉が――すべての始まりだった。



 煙の立つ鉄板の上で、肉がじゅっと音を立てる。

 タレの香りが鼻をくすぐり、油が跳ねて光る。

 澪は思わず目を丸くした。


「わっ……すげ、音が……うまそう……!」


 言真はトングで肉を返しながら笑う。


「焦がさないようにね? きみ、こういうの得意そうに見えて不器用だから」


「見てから言ってください!」


 軽口を交わしながら、澪は慎重に一枚を皿に移し、タレをつけて口に運んだ。

 一瞬、表情が止まる。


 そして――


「……あっつ! でも、うまいっ!! 肉とタレの甘さの相性最高!! 噛む度に肉汁染み込む〜!」


 言真はその素直な声に、ふっと目を細めた。


「だろ。人間、これができりゃ立派に生きてるよ」


「へへ……これ、生きてるって感じなんですね」


 その言葉に、言真の胸が静かに熱を帯びた。

 火の粉がぱちりと弾ける。

 澪の頬に、ほんの少し赤みが戻っていた。


「じゃあ次はこれ食べてみな。カルビ。タレ多め派? 塩派?」


「タレ! ……あ、でも両方!」


「欲張りだな。ちゃんと火通して食べなよ」


 二人の笑い声が混じって、換気音の中に溶けていく。

 あの日、確かにそこには“生”があった。

 噛むたびに、世界が戻ってくるような味がした。


 ――あの時はまだ、“うまい”という言葉に、ちゃんと心があった。


***


 それから、何度も一緒に食卓を囲んだ。

 焼肉の夜も、カレーの昼も、夜食のカップラーメンも。

 どれも同じように、澪は笑って「うまい」と言った。


 味の話もよくした。


 「今日のはちょっと焦げてる」「昨日のより甘い」「塩入れすぎ」


 その全部に、感情の温度があった。


 けれど――あの日を境に、少しずつ言葉が減っていった。

 オーバーライド再暴走の一週間後、牛丼を食べた日。


 あれから、本当のうまいが減った。


「うまい」


「本当に何でもうまそうに食べるね」


「うん、だってうまいから!」


 笑ってはいる。

 でも、その笑い方がどこか均一になっていた。

 同じ言葉、同じ表情。

 音だけが残って、熱が消えていく。


 その頃の言真は、何もおかしいとは思わなかった。

 本当に、気づかなかったのだ。

 彼の中では、澪が笑っている限り“無事”だった。


 湯気の立たないスープ。

 冷めたままの皿。

 それでも澪は、同じように言った。


「うまい」


 その夜も、言真は気にせず皿を片付けた。

 それが“異変”だと知るのは、ずっと後になってからだった。


 あのとき、澪が笑った理由を、今なら分かる気がする。


 それは“生きているふり”だった。


 ――そして今。

 目の前の澪は、もう“うまい”すら言わなくなった。

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