第46話 残響の在処
一晩が過ぎた。
夜明けの光が白く部屋を照らす。
澪は電池の切れた人形のように、ベッドの上で虚ろな目を開けていた。
呼吸はある。瞳孔も反応する。
それでも、その中に“人”の焦点がなかった。
言真はその手を握ったまま、一度も眠っていない。
血の気の失せた顔で、ただ脈を確かめ続けていた。
インターホンが鳴る。
何度も。執拗に。
言真は無言で立ち上がり、鍵を外す。
「どうもー! 執行官でーす。九重くん、顔が死んでるけど生きてる?」
御影千尋の声はいつものように軽かったが、
目の奥には警戒の光が宿っていた。
「千尋くん、空気読んで」
背後から日菜の声。
白衣の裾を押さえ、彼女と医療班が並んでいる。
「言真さん。昨晩、澪くんの異能波形が直線になりました。確認させてもらってもいいですか?」
言真は頷き、部屋の中へ通す。
医療班が機材を運び込む間に、千尋はベッドへ歩み寄った。
澪の顔を見た瞬間、彼の軽口が止まる。
頬の色、唇の乾き、呼吸のリズム、そしてまぶたの動き――。
一瞬で全てを“見た”。
「……ダメだ。中身、空っぽだな」
その声に、日菜が振り向く。
「千尋くん、まだ検査も――」
「いや、分かるよ。呼吸が“自律”じゃない。筋肉の緊張も、心拍も、全部“反射”で動いてるだけ。魂がいない体って、こうなるんだよね」
静かな言葉だった。
けれど、誰よりも現実的で、残酷な宣告だった。
日菜は唇を噛み、端末を開く。
波形は一本の直線。
千尋の言葉が、データで裏づけられていく。
「……異能活動ゼロ。脳波、直線。でも生命反応は正常。“死んでいない”けど、“生きてもいない”。」
彼女の声が震えた。
千尋は短く息を吐き、目を閉じる。
「……こいつ、ギリギリで止まったな。もう一歩で、“完全な死体”だった」
その言葉に、言真の拳がわずかに震えた。
「……言真さん。これから言うことは言真さんを責めるつもりはありません。ただ、確認させて下さい」
言真は小さく頷く。
声も出ないまま、ただ息を飲む。
「澪くんが食事を摂る時の様子、どうでしたか」
「……食事?」
かすれた声で繰り返す。
思考を辿るように、ゆっくりと目を閉じた。
「いつもと変わらず、“うまい”って笑顔で……そう、笑ってた」
日菜は、ほんの少しだけ視線を伏せた。
そして静かに、もう一歩踏み込む。
「味の感想は? 特に好物。普段から澪くんは、味の感想を言うタイプでしたか?」
「まあ、そうだな……」
言真の言葉が途中で止まる。
何かが胸の奥で引っかかったように、眉が寄る。
「……いや、待て」
頭の中で、これまでの食卓の記憶が次々と蘇る。
焼肉、ラーメン、カレー、そして……牛丼。
どれも同じ言葉で終わっていた。
「……此処ずっと、“うまい”しか言ってない。言わない日もあった」
その言葉が落ちた瞬間、
部屋の空気がぴたりと止まった。
「……牛丼プロトコルのときから、澪はろくに感想を言ってない」
日菜は唇を結び、ゆっくりと目を閉じた。
端末の画面を見ず、まっすぐに言真を見て言う。
「……それが、“虚無相”の初期症状です」
淡々とした説明に、言真は思わず声を荒げる。
「ちょっと待て。うまいしか言わないなんて、そんなの普通だろ。毎回いちいち“辛い”“甘い”だの言うやつなんていない」
その反論に、日菜は首を横に振った。
けれど、責めるような口調ではない。
「……そうなんです。普通なら、そう。でも澪くんの場合、“うまい”しかないんですよね。他の言葉が全部、抜け落ちてた。“辛い”も“熱い”も、“お腹いっぱい”も。それは、感じなくなってたからです」
言真は何も言えず、目を伏せた。
その沈黙を切るように、千尋が口を開く。
「俺はさ、虚無相になる前の澪くんは知らないけど――」
軽い調子の声。けれど、目だけは鋭い。
「澪くん、味言わないタイプかなって思ってたもん。初めて会ったとき、飯食ってても、匂い嗅いでも、うまって一言で終わり。反応が均一っていうか、語彙力ないレベルじゃないよ」
日菜が振り向く。
千尋は続けた。
「……食べ物って、生きてる奴ほど“揺れる”んだよ。旨いも不味いも、熱いも冷たいも、全部“感情”に出る。でも、あいつは違った」
千尋の目は澪を見たまま動かない。
「うま! って言葉は出てんのに、体が反応してねぇ。舌も、喉も、呼吸のリズムも、食ってるふりだけしてる。俺、何人も殺してきたけど……あの感じ、“死んだ直後”に似てんだよ」
日菜が息を呑んだ。
千尋は淡々と続ける。
「生きてるのに、生理反応が追いついてない。心臓は動いてるのに、脳が“うまい”を理解してない。笑ってても、感情の筋肉が動いてなかった」
言真は俯いたまま拳を握る。
「……つまり、笑ってたけど、喜んでなかったってことか」
「そう。表情はあるのに、感情がない。人形が笑うのと同じ。澪くん、明るくていいやつだったじゃん。だから、この寒気が嘘だって信じたかったんだよ」
千尋の声が、部屋の空気を切った。目は逸らさず、しかしどこか遠くを見ている。
言真は背をぶつけるように壁に寄りかかり、拳を握り締めた。唇が震えているが、言葉は出ない。
「……だったって、澪を死んだみたいに」
小さく漏れたその言葉に、千尋は顔をしかめる。
「死んでるどころか、ないんだよ」
その一言は、救いを拒絶するように冷たかった。
日菜の指先が端末の縁を押さえ、画面の直線波形が白く瞬く。医療班の誰かが、かすかな咳払いをする。
言真はやっとのことで目を上げ、千尋を睨みつけた。
だがその視線は、抗議でもなく、哀願でもなく、ただ壊れかけた何かを探る目に変わっていた。
「……分かった。だが、まだやることはあるだろ」
言真の声は低く、掠れていた。
千尋は肩をすくめ、日菜は短く頷く。
医療班が手早く検査の続きを準備し、静かに動き出す。
部屋の外では、世界が普段どおりに回っている。だがこのベッドの周りだけは、時間が止まったようだった。
日菜は端末を操作し、ホログラムを切り替えた。
淡い光が空中に浮かび、澪の脳構造が立体映像として展開される。
「……やっぱり、根本は“オーバーライド”です」
言真が顔を上げる。
「職輪転化じゃないのか?」
「いえ。職輪転化は安全装置です」
日菜は小さく首を振った。
「その外殻ごと、今回の暴走で焼き切れてます」
千尋が眉を上げる。
「安全装置が焼けた? そりゃ暴走するわけだ」
「澪くんの脳は、本来“オーバーライド”で他人の異能を内包できる構造なんです」
日菜は画面を指差す。
「いわば、異能の“保管庫”みたいなものです」
「保管庫ねぇ。……そんなもん作れるのか」
千尋の声は半分呆れ、半分感心していた。
「理論上は。でも、限界はあります」
日菜は苦い表情で息を吐く。
「それが“コップ理論”です。器の容量を超えると、破裂する」
「つまり、コップが割れたってことか」
「異能の出力に脳が耐えきれなかった。普通なら、中身……精神や感情は全部こぼれて消えるんです」
言真が拳を握る。
「じゃあ、今の澪は……」
「中身がこぼれきる前に固まったんです」
日菜は画面の一点を拡大した。
「中に詰まっていた異能データが、器の破片ごと凝固している。意識だけ抜け落ちて」
「……つまり、異能のカタマリになってるってことか」
千尋の声は低い。
「はい。だから虚無相。生きてるけど、生きてない」
モニターの端で、微かな光が瞬く。
日菜が指先で示す。
「でも、完全には終わっていません。ここ、見てください。同調率3.7%」
言真の目が揺れた。
「……俺とのリンク?」
「そうです。澪くんのオーバーライドと、言真さんの言霊律令は構造が似ています。どちらも“意思と言葉”を媒介に現実を書き換える異能です」
「要は似たOSってことか」
千尋がぼそりと呟く。
「その共鳴が、澪くんの内部に純正データとして残っている」
日菜は頷き、淡い光を指でなぞった。
「混線した異能の中で、唯一“本人の意識”を覚えている破片です」
「つまり、九重くんが外付けのバックアップってわけか」
「この3.7%を使えば、理論上は再構築が可能です。割れたコップを、言真さんの器を足場にして“形を取り戻す”ことができる」
「……それで澪を取り戻せるのか」
言真の声は低く、掠れていた。
「成功すれば、あるいは」
日菜は小さく頷く。
「ただし、境界が曖昧になれば、言真さんの器も一緒に割れます。共鳴が強すぎれば、二人とも同じ“虚無”に沈む」
「命綱どころか、一緒に落ちるロープだねぇ」
千尋の苦笑が、静かな部屋に落ちる。
日菜は端末を閉じ、短く息を吐いた。
「……それでも、まだ繋がっている」
沈黙。
モニターに残る光が、かすかに揺れた。
再び静寂が戻る。
言真は、ベッド脇に座ったまま澪の手を握った。
「……なあ、澪。お前、まだそこにいるんだろ」
応える声はない。
けれど、指先がほんのわずかに温かかった。
――3.7%
それでも、ゼロじゃない。




