第45話 静寂の果て、鼓動のない夜に
翌日の夕方から夜に差しかかる頃。
何度も澪の額を冷やしては、ぬるくなったタオルを取り替える。
その繰り返しがようやく終わった。
汗の熱が落ち着いた頃、澪の瞼が僅かに震えた。
言真は息を詰める。
長い眠りの果てに、彼の睫毛がかすかに持ち上がり、ゆっくりと瞳が開く。
「……よし、目が覚めた。ほら、まだ熱があるから横になってな。何か作るよ」
ほっとしたように、柔らかく笑みを浮かべる言真。
けれど、その安堵が伝わる前に、澪の唇が動いた。
「…………あ」
かすれた声。
それは言葉でも、吐息でもなく、ただ「音」だった。
「澪?」
次の瞬間。
澪の目が、震えた。
黒目がかすかに揺れ、瞳孔がじわりと開いていく。
何かを見ている。けれど――その焦点は、どこにも合っていなかった。
「……あ、あ……っ」
震える手が髪を掴む。
爪が頭皮に食い込んでも止まらない。
涙があふれ、頬を伝ってシーツを濡らした。
「……ッ、ああああああああああっ!!!」
叫びが爆ぜた。
喉が裂け、空気が震え、部屋の温度が一瞬にして上がる。
澪は頭を抱え、体を折り曲げながら叫び続けた。
「誰っ、俺!! いや、僕!? 誰なんだよ!! 俺!! ここどこ!? お前、誰だっ!!」
「澪!? 落ち着け、俺だよ! 言真だ!」
「言真!? 嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘!! 知らない人!! なんで、なんでここにいるんだよ!!!」
声は次第に濁音を帯び、言葉にならなくなった。
喉の奥から漏れるのは、もはや悲鳴でも言葉でもない。
壊れた機械の軋みのような音。
澪は泣きながら暴れた。
シーツを掴み、壁を蹴り、爪で自分の腕を引っ掻く。
言真は何度も抱きしめようとする。
押しのけられても、爪で引っかかれても構わなかった。
「やめろ、落ち着け! 澪、俺だ! ここは家だ、俺たちの部屋だ!」
「うるさい! 違う! ここじゃない!! ここ、どこだよおおお!!!」
叫びに混ざって、息が詰まるような咳が出る。
涙と唾が飛び、呼吸が荒くなる。
そのたびに、体の熱がさらに上がっていった。
言真は腕を回し、澪を強く抱きしめる。
暴れても、爪が腕に食い込んでも離さなかった。
何度も、何度も呼びかけた。
「大丈夫だ、ここにいる。お前は澪だ、俺がいる!」
澪の叫びが、次第に小さくなっていく。
息が続かず、喉が焼けるように乾いている。
やがて、糸が切れたように力が抜けた。
――叫びが、途切れた。
息を吸うことすら忘れたように、澪の瞳だけが虚空を見つめる。
涙の跡が頬に残り、唇がかすかに震えている。
「……澪?」
呼びかけても、反応はない。
頬を伝っていた涙が、途中で止まっていた。
世界が、静まった。
エアコンの駆動音が聞こえるはずなのに、音が消えた。
冷蔵庫のモーター音も、外の車の音も……何も聞こえない。
澪の体から、熱がすうっと抜けていく。
さっきまで燃えるようだった体温が、嘘のように冷たい。
呼吸はある。心臓も動いている。
だが、“生きている”気配がない。
「…………」
言真の手が震えた。
澪の手を握るが、指先の温もりが薄れていく。
まるで、魂ごと遠ざかっていくようだった。
脈はある。
でも、空っぽ。
言真は息を呑んだ。
目の前の青年が、“生きたまま死んでいく”のを、ただ見ているしかなかった。
「……おい、戻ってこいよ……澪……」
声が、掠れた。
返事は、ない。
代わりに――澪の胸の奥で、光がひとつ、淡く瞬いた。
熱でも呼吸でもない。
異能の残響。
それは、かすかな電流のように澪の身体をめぐり、静かに、すべての音を飲み込んでいった。
***
……あれ。
音が、遠い。
誰かが何かを言ってる。けど、聞こえない。
あれ、誰だ。
――誰?
俺? 僕? どっち?
なんで声が二つある。
いや、違う。声が全部、混ざってる。
耳の奥で、知らない人たちの声が鳴ってる。
(やめろ……)
頭の奥が焼ける。
熱い。
痛い。
……でも、それよりも怖い。
“俺”がどこにいるのか、わからない。
身体がある。けど、動かない。
目を開けても、視界が割れてる。
言真の顔。知らない街。誰かの叫び。誰かの笑顔。
全部、一瞬ずつ流れて、消えていく。
――過去の記憶が、ガラスみたいに砕けて落ちていく音。
胸が熱い。
でも、冷たい。
息をしてるのか、してないのかもわからない。
“異能”って、なんだっけ。
“職輪転化”って、なんだ。
“オーバーライド”……聞いたことがあるかも。
でも、それを思い出すたびに、また頭の奥が溶けていく。
(やめろ、思い出すな)
――ドロリ。
音がした。
脳が溶ける音。
世界が、色を失っていく。
白と黒のあいだ。
その境界で、俺は足を取られて沈んでいく。
痛みも、怖さも、全部どこかへ流れていった。
何も感じない。
もう、“誰かを助けた”ことすら覚えていない。
俺が誰かを救ったのか、それとも悲しませたのか。
その違いすら、どうでもよくなる。
意識の底で、何かが囁く。
――これが“代償”だよ。
(代償?)
誰の声だ。
男? 女? 自分? わからない。
音が歪んで、まるで世界の裏から聞こえるようだった。
光が見える。
でも、それは温かくない。
燃えてる。
世界が。俺が。
目を閉じる。
焼けつくような白だけが残った。
(……俺は……)
最後の思考が、途切れた。
その瞬間。
世界のすべてが、凍りついた。
静寂。
心臓が動いているのかさえ、もう確かめられない。
“俺”という存在が、完全に境界を失って、
“ただの容器”になっていく感覚だけが、そこにあった。
時間も、痛みも、呼吸もない。
それでも――どこか遠くで、“言真”の声だけが響いていた気がした。
……音は、もう届かないのに。
***
因課・洛陽支部。
夜のオフィスは、空調の風とキーボード音で満ちていた。
「残業すんなって言われるとしちゃいたくなっちゃうんだよねー」
カップの中ではインスタントコーヒーの泡がまだ残っている。
その香りを吸い込みながら、篠原日菜はモニターに顔を寄せた。
モニターに、一瞬だけ波が跳ねた。
一瞬の異常反応に、彼女の目が止まった。
「……あれ? 発動源:洛陽東区、登録者ID……綾瀬澪?」
篠原日菜は画面を拡大し、眉をひそめた。
洛陽市の観測網・InSenseは、登録者が異能を発動した瞬間を記録する。
誰が、どこで、どの出力で。
それが、因課が“抑止力”として機能する理由だった。
「でも……これ、波形おかしい」
画面のグラフは、呼吸のように揺れているはずだった。
感情・集中・生命――その全部が波になる。
けれど、そこに表示されたのは一本の直線。
振幅ゼロ。静止。
「……待って、オーバーライドの三段、どれ使ってもこんなの出ないって。澪くんの脳のコップ、どうなってんの……?」
喉の奥が乾く。
画面の中の波形は、まるで死んだ心拍計みたいに真っ直ぐで。
生きているはずなのに、生きている“反応”がどこにもない。
「もし異能が溢れ出てたら、暴走のはず。だけど――」
息を飲む。
静かすぎる。
世界ごと凍りついたみたいな、底のない“無音”。
「この静けさは……」
指先が震える。
自分でも、何に怯えているのか分からなかった。
ただ、この波形を“死”と呼ぶことだけは間違っている。
「……澪くん。……何者になっちゃったの?」
ぽつりとこぼれた言葉が、情報管理室に落ちた。
無音の波形は、彼女の声すらも吸い込むように沈黙を保っている。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
画面の向こうに映るのは、彼の軌跡。
誰よりもまっすぐで、誰よりも純粋で。
そして、いま誰よりも静かな存在になってしまった。
「……少しでも、やれることを探さなきゃ」
自分でも驚くほど、声が震えていなかった。
唇を噛み、指先を再びキーボードへ伸ばす。
涙よりも先に、データを掘り起こす。
「人を助けて壊れるなんて……そんなの、絶対認めない」
短く息を吸い、目元に宿る光が変わる。
職員ではなく、仲間としての表情。
日菜の指が、無音の波形へと再び命を吹き込むように動き出した。




