第43話 光の残響
因課・本部。
朝八時、オフィスの照明が一斉に点く。
誰もが淡々とデスクにつき、規定時間内に今日の仕事を片づける。
そう、ここはホワイト。
労働時間も給与も規定通り。残業は申請制。
形式上は、理想そのもの。
けれど、水島詩は知っている。
八時間という箱の中に、押し込まれた密度が人間の限界を超えていることを。
「……本日の承認案件、百四十二件。監査報告、十五。再教育進捗、六件」
デスクの端に積まれたファイルを見て、詩は一瞬だけ目を細めた。
ホワイトボードの隅には「定時で帰る」「心を壊さない」と書かれた標語。
自分が書かせた言葉なのに、少し笑ってしまう。
午前中で報告書を二十件処理し、昼の会議を終えた時点で、時計の針は十二時五十八分。
パソコンの通知欄はすでに赤く染まっている。
支部からのメール、特災観からの報告、査問委員会への返信。
そのすべてが、穏健派の机に集まる。
「すごいなぁ、みんな」
詩は書類を閉じ、息を吐いた。
自分以外の穏健派も、それぞれ限界ギリギリまで働いている。
誰も残業はしていない。
午後五時。
チャイムが鳴ると同時に、職員たちは立ち上がる。
スーツもなければ、上司の顔色を伺う者もいない。
「お疲れさまでした」の声が、自然にオフィスを満たす。
「……これで、いいんだ」
詩も立ち上がり、眼鏡を外した。
定時で帰る。
それが今の因課の方針であり、誇りだった。
扉を出た瞬間、腕に抱えた書類の重みがずしりとくる。
持ち帰りはしない。
けれど、頭の中で処理は止まらない。
(……誰かが、夜の分まで考えてる限り、完全なホワイトってやつは、きっと存在しないんだろうな)
思考を切り替えようとして、空を見上げる。
白い雲。遠くの街。
今日も世の中は、何事もなかったように光っていた。
但し、危機は少しずつ迫ってきていた。
***
翌朝になってもアパートの部屋には、カレーの匂いがまだ残っていた。
小さなテーブルを挟んで、澪と言真が並んで座っている。
「今日も求人アプリ?」
「うん。早くバイトしたい」
澪がスマホを見ながらぼそりと呟く。
光が瞳に反射して、細い影を落とした。
「清掃、飲食、交通整理……うーん、どれもやったことあるな」
「レンタル彼氏は?」
「二度とやらねぇ!」
言真は笑って麦茶を飲む。
机の向こうで、澪はスクロールを止めて首を傾げた。
「澪、食べないと冷めるぞ」
「んー、あとちょっとだけ」
ふと言真は目を丸くする。
「澪が……飯より、バイト優先?」
「何だよ、その言い方。胃袋に入れば一緒だから冷めても大丈夫!」
「お前それ、飯への冒涜だからな。大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。俺、冷めても美味しく食えるタイプだから」
「……前は出来立てが最高ってテンションあがってたのにねぇ」
呆れながらも、言真は小さく笑った。
澪はまだスマホを見つめたまま、指を動かしている。
「よし、これにしよ!」
澪がスマホを差し出す。
画面には、ジムのアルバイト募集が映っていた。
「……ジム?」
「うん。日雇いで、器具の清掃と受付の手伝い! 筋トレしながら働けるとか最高じゃね?」
テンション高く言う澪に、言真は眉を寄せた。
「お前さ、オーバーライド明けで筋トレって、正気?」
「軽く動かすくらいだって。ストレッチ感覚!」
「それは、筋トレとは呼ばない」
言真はため息をつき、パソコンに視線を戻した。
澪はそんなこと気にも留めず、笑いながら指で画面をスクロールする。
「ほら、これ。駅近で、昼帯。空調完備!」
「条件読む前に空調完備でテンション上げるなよ」
「でも大事だろ!? 夏だし!」
呆れながらも、言真の頬にわずかに笑みが浮かんだ。
「……まあ、動きすぎないでね。汗かきすぎて倒れたら俺が書類地獄だから」
「分かってるって。俺、ちゃんと人間だし」
その言葉に、言真は一瞬だけ手を止めた。
けれど、何も言わずに笑った。
“ちゃんと”という言葉の裏を、深く掘るのが少し怖かったから。
***
翌日、昼前。
駅前のスポーツジムは、冷房の効いた明るい空間だった。
受付の電子音と、トレッドミルのモーター音が静かに重なっている。
「清掃スタッフさんですね! よろしくお願いします!」
「はいっ! 綾瀬澪です!」
元気よく頭を下げる澪。
支給されたシャツは少し大きく、袖が手の甲にかかっているので袖を捲った。
モップと洗剤を受け取り、更衣室の前を通り抜けた。
周囲では、筋トレ中の客たちが汗を流している。
その中をすり抜けながら、澪は無意識に息を合わせていた。
まるで、リズムが身体に入り込んでくるような感覚。
(ジムって、案外静かだな……)
掃除を始めてすぐ、視界の奥がふっと明るくなった。
モップを押し出した瞬間、腕が軽い。
重さが、消えている。
「……ん?」
一瞬、指先がチリ、と熱を持つ。
だが、すぐに引いた。
汗のせいだろうと澪は思い、気にせず作業を続ける。
――気づかない。
鏡越しの自分の目が、わずかに光を帯びていることに。
(あれ、これ……めっちゃ楽)
モップを持ち替える。
手のひらに微かな熱。
脈拍が速い。
だが、それが妙に心地よかった。
鏡越しに映る自分の姿が、汗に濡れて光っている。
肩の線が、少しだけ太い。
呼吸が軽い。
(職輪転化、もう発動してんのかな)
澪の唇がわずかに上がった。
この軽さが懐かしい。
いつもは反動のことばかり気にしていたのに、今だけは、体が思い出したように動くことが楽しかった。
その時だった。
トレッドミルの上で走っていた男性客の機械が、急にエラー音を鳴らす。
「うわっ、止まらねぇ!?」
ベルトが高速回転し、男の体が投げ出された。
周囲が悲鳴に包まれる。
澪は反射的に前へ踏み出した。
瞬間、空気が歪む。
誰よりも早く、男の身体を受け止めていた。
床に落ちる前に、腕の中で衝撃が吸収される。
筋肉でもない。スキルでもない。
力が流れた。それだけが確かだった。
「大丈夫ですか!?」
客は呆然としながら頷く。
周囲から拍手が起こった。
「すげぇ……反射神経どうなってんの!?」
「ジムスタッフの鑑じゃん!」
澪は笑って手を振った。
その背後で、壊れたトレッドミルの液晶が一瞬だけ点滅する。
――ERROR:EXCESS OUTPUT。
***
夕方。
ジムを出るころには、陽が傾き始めていた。
熱気がアスファルトから立ち上り、空気がかすかに揺れている。
「ふー……一日で汗だくだな。けど、悪くなかったかも」
澪は、ゆっくり息を吐いた。
身体は軽い。
疲れているのに、どこか浮いているような感覚。
(やっぱ、体動かすのって気持ちいい……)
足元に落ちた影が、少しだけ遅れて動いた。
それに気づかないまま、澪は信号を渡る。
その先に、ふらつく人影が一つ。
「……あれ?」
若い男だった。
スーツ姿のまま、路上の真ん中で立ち尽くしている。
肩が震え、掌が赤く光っていた。
澪の背筋を冷たいものが走る。
(なんだ、あれ?)
イノ研が言っていたサプリが脳裏をよぎった。
異能暴発するという話は、確かにあった。
でも、それが目の前で起きるなんて。
男が叫んだ。
「頭の中が、燃える……ッ!!」
次の瞬間、爆ぜた。
掌から炎のような光が広がり、街灯が弾け飛ぶ。
人々が悲鳴を上げて逃げ出す。
「っ……!」
澪の心臓が跳ねた。
反射的に走り出していた。
周囲の音が遠ざかる。
足音だけが、やけに鮮明に響く。
(あんなん、しんどいだろ……!)
手を伸ばした瞬間、視界が真っ白に染まった。
胸の奥、焼けたような痛み。
脳の奥で、なにかが軋む音がする。
オーバーライド。
解放の衝動が、一気に爆ぜた。
「……っ、落ち着け!」
腕が、勝手に光を放つ。
熱い。
けれど、その熱はどこか懐かしい。
焼けるほどの力を押し込みながら、澪は暴走者に飛び込んだ。
「寄越せ!!」
瞬間、世界が反転する。
音が途切れ、色が崩れ、街が光の粒になった。
炎の中心で、澪と男の姿だけが残った。
異能の奔流が、二人を包む。
それは暴走ではなく、抑制だった。
炎が消えたあと、そこには沈黙だけが残っていた。
男は気を失って倒れ、澪は膝をつき、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……止めた。良かった」
息を整えながら、掌を見つめる。
指先が少し震えていた。
それを見て、澪は笑った――つもりだった。
けれど、ガラス片の中の自分は、微動だにしていなかった。
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