第42話 普通であるという奇跡
検査室のドアが閉まる音が、やけに軽く響いた。
壁も床も白く、まるで空っぽの箱みたいだった。
「結果は、異能覚醒の可能性なし。体内因子は検出されませんでした」
事務的な声。
つばさは、思わず「へぇ」と相槌を打った。
「やっぱり、そうなんだ」
職員が首を傾げる。
「……“やっぱり”?」
「うん。ほら、イノ研に拉致された時も煙みたいなの吸っても平気だったし、異能があたしを拒否したのかもね」
冗談めかして笑ってみせる。
それで相手が安心したように頷いたから、もうそれで十分だった。
「異能を持たないのは、悪いことではありません」
「ですよねー」
診察券と一緒に手渡された書類をバッグにしまい、部屋を出る。
自動ドアが開いた瞬間、夏の光が刺さった。
外の空気は熱いのに、指先は冷えていた。
(異能なんか、いらない。あるべき人があればいい)
ビルの外壁に反射する光が眩しい。
つばさはスマホを取り出し、自撮りモードにして笑ってみた。
いつも通りの笑顔。
でも、撮った瞬間に消した。
「……ま、これでいいか」
軽く息を吐いて、画面を伏せる。
その背中に、蝉の声が遠くで響いていた。
***
アパートの一室。
ノートパソコンを広げ、因課の報告書類を確認した言真は胸を撫で下ろした。
澪の殺害命令が本部の一部の役員による指示で、特災観にバレた役員たちは、研修課……つまり、新人研修と同列に並ぶことになった。
「本部は倫理観終わってるんだよな。まあ、でも――」
マウスをクリックして別の書類を確認すると、口元が緩んだ。
「水島さんが本部長なら、穢れなきホワイトだ。……現場が息できる」
小さく笑いながら椅子にもたれ、天井を見上げる。
書類の端に「綾瀬澪・観察対象:安定」と打たれた文字。
その一行に、言真はようやく息を吐いた。
(よかった。収容もされず、自由に暮らせる)
窓の外では、夕陽が沈みかけていた。
「……ちゃんと、“普通”をやってんだから、ほんと偉いよな」
独り言のように呟いて、カップのコーヒーを口に運ぶ。
そして、その隣では腹の音が鳴り止まない。
言真の腹ではない。
ベッドで眠っている、オーバーライド消費後の二十四時間固定脳とろタイムに入ってる澪の腹から鳴っている音だった。
「ほんと、溶けてても体内コンサートは止まないんだねぇ」
言真は呆れたように眉を下げ、冷蔵庫を開ける。
カレー鍋を取り出し、ふっと笑う。
「カレーは二日目がうまいっていうけど、澪は初日で全部食べちゃうもんな」
鍋の底に少しだけ残っていたルーを見つめ、肩をすくめる。
小鍋に移してコンロにかけ、弱火で温めながらおたまで軽くかき混ぜた。
湯気越しに澪の寝顔をちらりと見る。
「……起きた後の飯乞い、すごいだろうな」
時計の針が、ちょうど十九時を指す。
タイマーのように、澪の指先がぴくりと動いた。
「お、来たな。二十四時間チャージ解除っと」
言真がコンロの火を止めたその瞬間、澪のまぶたがゆっくりと開く。
焦点の合わない目で天井を見上げ、かすかに口を開いた。
「……腹、減った」
「はいはい。お約束の開口一番」
言真は肩をすくめながら皿を取り出し、 温まったカレーを盛りつけて差し出す。
部屋に、スパイスの香りと湯気が広がった。
「ほら、立てる? 食わないと固まるぞ」
澪はまだ半分夢の中のような顔で、もぞりと身を起こす。
髪は爆発、目はとろん。
けれど、生きている。
確かに息をして、笑える顔で。
「カレー?」
澪が、ふんふんと鼻を鳴らして言真を見た。
「カレーだ! 絶対うまいやつ! 寝起きカレー最の高!!」
「喉に詰まらせるなよ」
言真がカレーをよそった皿とスプーンを置くと、
澪はがっつくように食べ始めた。
「……うまっ! やっぱカレー正義!! 米に合う!!」
「はいはい。食べながら喋らない」
口元に笑みを浮かべ、言真は自分の赤みが差した激辛カレーを口に運ぶ。
「なあ、言真のそれ……ちょっと食べていい?」
「ん? 大丈夫? 結構、辛いけど」
言真が言う間もなく、澪はスプーンで彼のカレーを掬って口に入れた。
「……あ」
「ほら、辛いでしょ。牛乳飲む?」
「うまい!!」
その言葉に、言真は少し驚いたように眉を上げた。
「……辛くないの?」
「ん? うまいよ」
「俺でもちょっと辛いのにな。ま、澪はなんでも美味いって言うし」
「だって、うまいもんはうまいだろ」
澪はそう言って笑う。
けれど、笑顔の奥に何も残っていないことに気づかない。
カラン……と澪の手からスプーンが滑り落ちる。
「あ、やべ。手滑った」
拾い上げる手が、わずかに遅い。
カレーのついたシャツを洗濯機に投げ込み、新しいシャツを着る。
「カレーうまいけど、汚れちゃうよな」
「ゆっくり食べないからでしょ、それは」
「え、でも早く食おうが遅く食おうが変わらなくね?」
言真は額を押さえ、深いため息をついた。
「……脳まで溶けてるんじゃないの、それ」
「なんだよ、それ。ま、さっきまで溶けてたけど!」
澪は悪びれもなく笑い、またスプーンを手に取った。
その笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
舌の上に何も残らない。
けれど、反射的に「うまい」と言葉だけが出た。
何も感じなくても、食べてる実感だけは欲しかった。
「あ、そうだ」
一口水を飲んだ言真が、思い出したように澪に笑いかけた。
「もう因課が澪を狙うこと、なくなったってさ」
「え、マジ?」
「うん。上の方の人らが勝手に暴走してただけで、今は全部止まってる。特災観が動いたから、もう誰も手出せないよ」
「……そっか。じゃあ、もう安心してバイトしてていい?」
「いい。好きに働きな。お前をどうこうしようってやつは、もういない」
澪は少しだけ目を瞬かせて、安堵の息を吐く。
でも、その安堵もどこか薄っぺらく感じた。
胸の中の何かが、ぽとりと落ちたような気がした。
「……へぇ、ちゃんと守ってくれたんだな」
「守るっていうか……お前が人を助けたからだよ。それを見てたやつらが黙ってなかった。それだけの話」
言真の言葉に、澪は小さく笑った。
「そっか。……じゃあ、これからも生きねぇとな」
「うん。食って寝て働け。それだけで充分だ」
言真の声は、夜風より穏やかだった。
カレーの香りがまだ部屋に残り、湯気がゆるやかに消えていく。
澪は空になった皿を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……うまかったな」
***
片付けが終われば、ソファに沈んだ澪がテレビをつけようとリモコンに手を伸ばした。
しかし、それを掴みきれず、床に落としてしまう。
「ん……?」
手を凝視する。
感覚が少しだけ遅い。
皮膚の内側が、自分のものじゃないみたいだった。
「ま、いっか」
ソファに沈んだまま、目を細める。
世界の音が、少し遠のいた気がした。
「澪、風呂入っちゃいな」
言真がキッチンから顔を出す。
「……うん。ちょっとだけ、あとで」
その声は、笑っているようで、何も乗っていなかった。
温度のない声に言真はおろか、澪自身も気付かなかった。
***
風呂場。
シャワーの音が一定のリズムで響く。
湯気が白く立ちこめ、鏡が曇っていく。
澪は無言でシャワーのノズルを握り、湯を頭からかぶった。
髪が張りつく。
額を伝う湯が目に入っても、まばたきすらしなかった。
「……熱い、か?」
呟くように言葉が漏れる。
だが、その声には“実感”がなかった。
腕に流れる湯を見つめながら、指先で触れる。
皮膚が赤くなっている。
それでも、痛くない。
「……温度、わかんねぇな」
ぼそりと呟いた言葉は、湯気に溶けて消えた。
湯を止め、浴槽に手を入れる。
ぬるい。けれど、何度なのか分からない。
ただ“違う”という感覚だけがあった。
少し迷ってから、澪はそのまま湯に身を沈める。
お湯が肩を包む。
熱くもなく、冷たくもない。
その“なにもない”が、なぜか心地よかった。
「……風呂ってこんなに静かだっけ?」
呟いた瞬間、 ぽたりと湯面に何かが落ちた。
自分の頬から伝った滴が、涙かどうかも分からない。
「……あれ。なんで、泣いてるんだ」
問いながらも、表情は動かない。
心が反応しているのに、顔がそれに追いつかない。
澪はぼんやりと手を見つめた。
湯に浮かぶ指先が、少しずつぼやけて見える。
鏡の中の自分が曇りに隠れて、形を失っていく。
その瞬間、澪の胸の奥で何かが切れた音がした。
感覚が一層、遠くなる。
「……まぁ、いっか」
立ち上がる。
滴る水の音が、やけに遠く感じた。
風呂場の灯りが、ぼんやりと滲んで見える。
息を吸っても、湯気の匂いが分からなかった。
その夜、澪は――“感覚”の半分を置いて眠った。
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