第39話 効かない女
白い壁。
消毒液の匂い。
冷たい金属が、手首に食い込んでいる。
――拘束具。
ぼやけた視界の先で、誰かの声がした。
「あ、起きた? 元気?」
白衣の男だった。
柔らかい笑顔。だが、目だけが笑っていない。
手元のタブレットを軽く操作しながら、椅子に腰をかけている。
「……え、誘拐?」
かすれた声でそう言うと、男は愉快そうに肩をすくめた。
「いやいや、そんな物騒なことしないよ。ちょっと話を聞きたかっただけ。確認とか、諸々ね」
言葉の調子は軽いのに、足音だけがやけに重かった。
男は立ち上がり、机の上のケースから透明なカプセルを一つ取り出す。
中身は淡く光っている。
あの“イノシード”と呼ばれていたもの。
「君さ、これ持ち帰ったよね」
男の声が、途端に冷たくなる。
「宣伝はいいんだけど、外に持ち出されるのは困るんだ。セミナーを受けた人には、その場で飲んでもらう決まりでね」
その言葉に、つばさの心臓が一瞬止まった気がした。
背中を伝う汗が、冷たく空気を切る。
「……違法でしょ、こんなの」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも震えていた。
男は小さく鼻で笑う。
「ふーん、詳しいね。賢そうだなとは思ってたけど」
軽くタブレットを指先で叩きながら、楽しそうに続ける。
「受付で写真撮るし、セミナーの動画回すし……正直、摘み出そうと思ったけどね」
その言い方は、冗談のようでいて、どこまでも本気だった。
つばさの喉が、乾いた音を立てる。
「空気悪くなっちゃうでしょ? だから、“補講”ってことにしたの。今」
タブレットをパタンと閉じる。
その小さな音が、やけに部屋に響いた。
男が立ち上がる。
足音が、近づいてくる。
つばさは反射的に椅子の背にもたれた。
けれど、逃げ場はどこにもない。
「君、やばかったら因課に通報しようとしてたでしょ?」
男の声が、真っ直ぐに突き刺さる。
息が詰まった。
心臓が跳ねた音が、自分でも聞こえる気がした。
「――ッ」
男は、にこりと笑う。
その笑顔は、皮だけの仮面みたいだった。
「あはは、そんなに僕らバカに見えたかな?」
軽口のようでいて、言葉の奥に鋭い刃が潜んでいる。
視線だけで、息を奪われそうになる。
「大丈夫。乱暴なことはしないよ」
その優しい声が、逆に恐ろしく感じた。
何かが始まる。そう直感で分かった。
「その代わり……」
男は笑顔を崩さぬまま、ゆっくりと前に出た。
距離が、近い。
息がかかるほどの近さで、低く囁く。
「試させてもらうけどね」
その言葉が、耳に張り付く。
つばさの喉が、音を立てずに動いた。
「は……? はぁ!? いやいやいや、何言ってんの!?」
荒げた声が、かすかに震えていた。
だが男は楽しげに首を傾げる。
「いいじゃん。インフルエンサーとして、ネタ作るのに最適でしょ?」
にこりと口角を上げた瞬間――
部屋の奥で、何かの機械が低く起動音を立てた。
「……分かった! うん、ちょっと急ぎすぎだから、その前に話しよ? その後に試していいから! 話し合いって大事だよ!」
つばさは必死に声を張った。
心臓が早鐘を打っている。
とにかく時間を稼がなきゃ。そう思って口が勝手に動いていた。
男の笑顔がわずかに崩れる。
一歩引いて、興味深そうに首を傾げた。
「話ってどんな?」
軽い調子。けれど、視線の奥は油断がない。
つばさは喉を鳴らし、無理に笑顔を作った。
「実はね、あたし、セミナーの取材したかっただけなんだ。異能って、持てば便利だけどリスクもあるじゃん? その辺の実態を知りたくて」
言葉を並べながら、脳内では必死に出口を探していた。
視線だけで部屋の構造を確かめる。
ドアは一つ、窓はなし。逃げ道ゼロ。
「ふうん、取材ね」
男がタブレットを指で回す。
その仕草ひとつにも、圧がある。
「そう。あたしの知り合いなんか、脳がとろとろになっちゃう人もいれば、怪力になって落ち込んじゃう友達もいるし」
言葉を出した瞬間、空気がピリッと変わった。
男の表情が、わずかに静止する。
「……脳とろ」
短く呟き、ゆっくりと視線を上げた。
今度は笑わなかった。
「ああ……綾瀬くんと、知り合いなんだ」
つばさの全身が強張った。
冷たいものが背骨を駆け上がる。
(なんで……澪くんを知ってるの)
つばさの心臓が、音を立てて跳ねた。
息がうまく吸えない。
まるで空気そのものが、ゆっくりと凍りついていくようだった。
男はその反応を楽しむように、唇の端をゆっくりと吊り上げた。
笑顔の形だけを保ちながら、目はまるで人形のように冷たい。
「サービスで教えてあげる」
軽い口調で、爆弾のような言葉を落とす。
「綾瀬くんのデータを使って、イノシードを作ったんだ」
時間が止まった。
心臓の鼓動が、はっきりと耳に響く。
今聞いた言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
「……は?」
つばさの声が掠れる。
だが男は構わず続けた。
「素晴らしい素材だったよ。事故の記録、脳波、反応値、全てが想定を超えていた。人間という枠を超えるには、あれほど最適なデータはなかったね」
机の上のカプセルを、指先でコツコツと叩く。
淡く光る粉が、わずかに揺れた。
「君が飲まなかったそれも、彼の“断片”なんだよ」
ぞわりと、背筋を何かが這い上がる。
理解した瞬間、体の奥で心臓が嫌な音を立てた。
(澪くんの……データ……?)
男は楽しげに肩を竦める。
「本人は生きてるけどね。あくまで“データ”を参考にしただけ。倫理的にはグレー、ってやつ」
その言葉を、平然と笑いながら言える神経。
そこに“人間”という感情は欠片もなかった。
「さて。彼由来の因子がどこまで君に適合するか、試してみようか」
男が指を鳴らす。
直後、天井の換気口から、微かに白い煙が立ちのぼった。
白い煙がゆらりと立ちのぼる。
甘い薬品の匂いが鼻を刺し、つばさは反射的に息を止めた。
けれど、次の瞬間にはもう吸い込んでいた。
喉の奥が焼けるように熱い。
目の前がにじみ、耳鳴りが遠くで響く。
男は興味深そうにタブレットを操作しながら、淡々と呟く。
「どう? 熱くなってきたでしょ。血中濃度が上がれば、すぐに反応が出るはずなんだけどね」
しかし、何も起きなかった。
時間だけが、静かに流れていく。
脈拍の音も、呼吸も、ただの“人間”のまま。
男の眉が、わずかに動いた。
「……おかしいな」
タブレットの数値を何度も確認する。
指先で画面をスクロールしては、唇を噛んだ。
「何も効かない。濃度も上げてるし、少しは変化あると思ったけど……何やっても効かない」
初めて、男の声に焦りが滲んだ。
つばさは息を荒げながら、かすかに笑った。
「おもろ。……効かなくてよかった」
それは、ほとんど掠れた声だった。
だが男はその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
笑っていなかった。
「へぇ……面白い。“効かない”ということは、抵抗値が想定外に高いってことだ」
目の奥が、ぎらりと光る。
「綾瀬くんのデータ以上に、貴重かもしれないね。もしかして君――」
男がつばさの肩に手を伸ばした、その瞬間。
部屋の照明が、パチッと一度だけ明滅した。
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