第35話 食の祭典と燃費の悪いヒーロー
投函されたチラシを見て、澪は目を輝かせた。
「おお! うまそう!!」
本日オープンのショッピングモール。
その紙面には、澪の胃袋と興味を同時に刺激する単語が並んでいる。
「フードコートにレストラン、スイーツコーナー、しかも“食の祭典”まである!!」
叫ぶ勢いでチラシを握りしめ、すでに口元から涎が垂れている。
ソファでバラエティ番組を見ていた言真をチラッと見やり、澪は横移動でじりじりと擦り寄った。
「お兄ちゃん、俺……行きたいなぁ〜」
その甘ったるい声に、言真がぎょっとして澪の額へ手を伸ばす。
「……うん、熱なし。病気でもない」
「病気じゃないけど、行きたい」
言真はため息をつき、テレビを指差す。
「ほら、こっち見てみ。テレビでも巨大ピザ特集やってる」
「煽るな」
澪が頬を膨らませる。
じとりとした視線を送りながら、ぼそっと呟いた。
「……扇風機買うって言ってたよな」
その一言に、言真の肩がびくりと跳ねる。
「まあ……あるよ。ショッピングモールに家電コーナー。ついでに冷蔵庫の中もスッカスカだから、スーパーもある」
言真が淡々と返すと、澪の顔がぱぁっと明るくなった。
「行こう。今すぐ行こう」
「……チラシ見て数分で外出決定しないで」
「理性より食欲が勝っただけ!」
言真は額を押さえながら、苦笑いをこぼす。
「……ま、いいか」
「やったー!!」
澪のテンションが跳ね上がる。
その勢いに釣られるように、外の蝉の声が一段と賑やかに響いた。
***
ショッピングモールに辿り着くと、そこは戦場だった。
開店初日の熱気と人波。
吹き抜けを抜けるたびに、フードコートの匂いが胃袋を刺激する。
澪は、波に飲まれそうになりながら隣を歩く言真に顔を向けた。
「うわ、これ……波に逆らったら死ぬやつ」
「迷子になるなよ」
「ぐっ……俺もう子供じゃねぇ」
「事実、弟なんだよねぇ。さっき、澪からお兄ちゃんって言ってたし」
「やめろ! 恥ずかしい!!」
「ほらほら、こっち」
言真は肩をすくめつつも、無意識に澪の腕を掴んで人混みを避ける。
その動作に、警戒と優しさが同居していた。
「……兄貴風吹かせやがって」
「お前が風に流されそうだからでしょ」
「ぐぬぬ……反論出来ない!」
「はいはい。パンの匂いに釣られてどっか行くなよ」
言真の視線の先、通りの向こうではパン屋の行列ができていた。
その香りに、澪の表情が一気に緩む。
「……やばい、今パンの匂いで正気失いそう」
「扇風機買ってからだ」
「扇風機よりパンが先!」
「お前、炭水化物で構成されてんの?」
そんな掛け合いを交わしながら、人の波に揉まれつつ二人は歩き続けた。
その笑い声は、ざわめくモールの喧騒の中にゆっくりと溶けていった。
「お、澪くんじゃん。やっほー」
焼きたてパンの香りとともに手を振っていたのは、御影千尋だった。
片手に紙袋、もう片手にはメロンパン。
見た目は完全に休日の一般人である。
「え、なんでいんの!?」
「美味そうなチラシ見ちゃってさ。今日は食べ歩きツアー」
「それでいいのか、執行官」
「いいのいいの。任務は『現場の様子を見ろ』だし、俺の現場、今パン屋」
「言い切るなよ……」
澪が呆れた声を出す横で、千尋は満面の笑みを浮かべた。
「それにさ、澪くんが悪に闇堕ちしない限り、俺は殺さない。飯友でしょ?」
「飯友の基準おかしくね?」
「腹が減ってるときに会った仲は、もう親友クラス」
「どんな理屈だよ!」
人混みの喧騒の中、三人の会話だけが妙に明るく響いていた。
千尋の笑顔には殺気の欠片もなく、ただ食に全振りした幸せがあった。
「二人も食べ歩き? あ、澪くん食べる?」
千尋は、悪びれもなくメロンパンを半分に割って差し出した。
そして自分もためらいなく、がぶりと一口。
「うまっ! 表面サクサク、中ふわっふわ。文明って偉大だなぁ」
澪は呆れながらも、渡された半分を受け取る。
甘い香りが鼻をくすぐり、思わず笑みが零れた。
「うま」
「でしょ? で、二人はデート?」
軽口を叩く千尋の声に、澪がむっと眉を上げる。
「違う! 扇風機買いに来た。あと、冷蔵庫が絶望的だから買い物。それから、食の祭典!」
勢いよく指を折りながら言う澪。
その必死さに、千尋はふっと笑った。
「生活感すご。つよつよ異能者なのに普通すぎてウケる」
「生活できなきゃ異能どころじゃねぇんだよ」
澪の真顔のツッコミに、千尋は肩を震わせる。
食べ歩きの紙袋を指先で揺らしながら、楽しげに続けた。
「でも、なんで扇風機? 暑いじゃん」
「エアコン高いって言真が言ってた」
千尋は目を瞬かせ、わざとらしく首を傾げる。
「じゃあ、窓付きエアコン買ったら? 取り付けも自分でできるし」
「……窓付きエアコンって、なに?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、千尋が盛大に吹き出した。
「ぶわっははは!! 待って待って、文明知らなすぎ! お前ほんとに現代人!?」
腹を抱えて笑う千尋を見て、澪は顔を赤くしながら抗議する。
「去年まで昏睡してた人間に文明求めんな!」
「いや、可愛いじゃん。文明デビュー戦、扇風機からとか渋すぎる」
「煽ってんだろそれ!」
通りの喧騒と、焼きたてパンの匂いの中で、笑い声が混ざり合う。
どこか呑気で、どこか温かい。
ほんのひととき、平和な午後……と思った時だった。
ドンッ、と腹の底まで響く重い衝撃。
床が大きくうねり、周囲の棚や看板ががたがたと揺れる。
悲鳴と同時に、人波が一気に崩れた。
反射的に目を向けると、吹き抜け広場の中央で一人の青年が立ち尽くしていた。
まだ学生のように見える。
彼の掌が床に触れた瞬間、地面が再びぐらりと震えた。
「え、すごすぎ……って、やば!! 強い強い! こんな強い異能いらないって!!」
本人も明らかにパニックだった。
周囲の客たちは悲鳴を上げ、逃げ惑い、荷物を投げ捨てて出口へと殺到する。
足音と泣き声、割れるガラスの音。
ショッピングモールの賑わいが、一瞬で地獄のような喧騒に変わった。
「あー、暴走か。大変だなー」
ひとりだけ異様に落ち着いた声が響く。
千尋はまるでテレビでも眺めているかのように、パンをもぐもぐと頬張りながら立っていた。
逃げる客たちの波を避けもせず、むしろ楽しそうに現場を観察している。
言真は、焦るような表情を浮かべる。
「まずい。異能暴走の混乱か。二次災害が出るぞ」
言真が顔をしかめ、即座に周囲の人の避難誘導を始める。
「澪、お前も避難……澪!?」
気がついたら澪の姿はなかった。
周囲を見渡す言真の肩をトントンと千尋が叩き、渦中の青年を指差す。
その近くに澪がいた。
澪の掌が、暴走している青年の胸に触れた。
その瞬間、世界の色が一瞬で反転する。
音が消えた。
崩れる天井の軋みも、客の悲鳴も、すべてが遠ざかっていく。
ただ、澪と青年だけが、真空のような静寂の中に閉じ込められた。
「……寄越せ」
低く呟いた声とともに、澪の瞳が淡い橙色に輝く。
彼の掌から放たれた光が、青年の身体を包み込んだ。
暴走の震動が吸い込まれるように消えていく。
床のひび割れが止まり、浮かび上がっていた瓦礫が重力を取り戻すように静かに落ちた。
青年の体を覆っていた光が収束し、やがて小さな火花を散らして消える。
全てが、終わった。
暴走していた青年は、その場で膝をつき、意識を失って倒れた。
「……止まった……」
言真の声が、ほっとしたように漏れる。
その横で千尋は、パンの袋を片手にひらひらと振りながら感心したように言った。
「いやー、やるじゃん。暴走止めるどころか、異能そのものを吸収した感じ?」
彼の言葉どおり、澪の体表には淡い光の残滓がまだ揺れている。
まるで他人の力を体内に取り込んだ証のように。
「……あ」
澪がよろめいた。
光が一気に消え、力が抜けるようにその場に膝をつく。
「澪!」
「……大丈夫?」
駆け寄る言真と千尋。
澪はうつむいたまま、手で腹を押さえた。
「……やば……腹減った……」
ぐぅぅぅ、と腹が鳴る。
あまりの素直な音に、言真は一瞬言葉を失った。
そして千尋が、吹き出す。
「ははっ! オーバーライドって燃費悪すぎじゃん!」
「笑いごとじゃない!」
言真が怒鳴るが、千尋は心底楽しそうに笑っていた。
パンの袋を指先でくるくる回しながら、まるでいいものを見つけた子供のような顔をしている。
「てかさ、オーバーライドって人救えるんじゃん」
「は……?」
澪が間の抜けた声を出す。
「だって、破壊だけの力じゃなくて暴走止められるんでしょ? すごいじゃん」
千尋の言葉は軽いのに、どこか真っ直ぐだった。
澪は少しだけ目を伏せてから、ぽつりと返す。
「……暴走するのしんどいだろ。気持ち分かるし、なんとかしようって思うの普通じゃねえの?」
その真っ直ぐな答えに、千尋が目を瞬かせ、次の瞬間に笑った。
「うわー、澪くんの普通、難易度たけー。純粋!」
「喧嘩売ってんのか!」
澪が思わず声を荒げると、千尋は両手をひらひらさせて首を横に振る。
「まさか! 好感度爆上がり!」
冗談めかして笑いながら、千尋はポケットからスマホを取り出す。
画面をスワイプして、何かを探すようにスクロールした。
「レストランコーナーに、キャベツおかわり自由のカツ屋あるから行かない?」
軽い調子で画面を見せてくる。
澪の目が輝いた。
「行く!」
即答。
勢いよく立ち上がった澪を見て、言真はこめかみに手を当てた。
焦げた空気の中、救助班のサイレンが遠くで響いている。
「……お前ら、さっきまでテロみたいな現場にいたんだけど」
現実感のない光景に、言真の声だけが冷静だった。
だが、当の二人は気にする様子もない。
「腹減って動けねぇし」
「全ては、カツ食ったら」
澪と千尋の声が揃う。
言真は大きくため息をつき、両手を上げて降参のポーズを取った。
「はいはい。好きにして」
疲れきったように言う言真に、千尋が片手を上げる。
「俺、ソース派ね。澪くんは?」
「なんでもいける!」
元気いっぱいに返す澪に、言真はもう何も言わなかった。
ただ、小さく肩を落としながら、二人の後をついていく。
湯気の残るモールに、笑い声が弾けた。
外ではまだ騒然とした音が続いているのに、三人の足取りだけが妙に軽かった
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