第33話 豚骨スープに浮かぶ陰謀
ラーメン屋の暖簾が、夏の風にぱたぱたと揺れた。
冷房の効きが悪く、店内の空気はスープの湯気で満たされている。
三人が座るカウンターには、湯気と食欲と若干の緊張が漂っていた。
「お、きたきた! 豚骨!」
御影千尋は両手を合わせ、勢いよく箸を割る。
その目の輝きは、殺し屋よりも完全にラーメン好きのそれだった。
「うわ、湯気が尊い。これぞ命の汁」
「食レポみたいなこと言うな」
「九重くん、食の感動を共有しようよ。これ、アートだから」
「殺しに来たやつのセリフじゃない」
言真が呆れ顔で突っ込む横で、澪は黙ってレンゲを握っていた。
丼から立ち上るスープの香りが、空腹を一気に刺激する。
「うま」
「でしょ! この濃さがいいんだよなー。氷炎みたいでさ」
スープを啜りながら、千尋がぽつりと言った。
澪の手がわずかに止まる。
「うん。あれ、映像で見た。すっげー綺麗だったよ。青白い光が街を包んで、炎と氷が混ざって爆ぜるやつ。破壊の美ってやつ? 正直、鳥肌立ったよね」
無邪気に笑う千尋に、言真の眉がピクリと動く。
澪はスープの中を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……あれが綺麗? 冗談じゃねぇよ」
「うん?」
「俺、あの中にいたんだよ。綺麗どころか、熱と冷気で息もできなくて、誰かの悲鳴がずっと響いてんだ」
店内の喧噪が一瞬だけ遠のく。
湯気の向こうで、澪の表情は影を落としていた。
「俺さ、ただ普通に生きたいだけなんだよ。働いて、飯食って、寝て。それだけでよかったのに、気づいたら危険指定とか言われて、生きてるだけで誰かに監視されるんだぞ」
箸を置く音が静かに響く。
千尋は、スープを啜る手を止めた。
「あー、そりゃ生きづらいね。澪くん、当事者だもんな。かわいそ」
何気ない一言だった。
けれど、湯気の向こうで千尋の目は笑っていなかった。
「俺、やっぱ……殺されそうになっても、生きるために必死で抵抗する。でも、誰かを傷つけたくはないんだ」
澪の表情は湯気に隠れて見えない。
それでも、その声には冗談も防衛もなく、真面目さだけが滲んでいた。
「あー、そういうの好き」
千尋が笑う。
軽い声音なのに、言葉の芯だけが妙に柔らかい。
「殺さないよ。澪くん、人間くさくて俺、好きだわ。人を傷つけたくないって言いながら狙われてんの、そりゃしんどいよね」
スープを啜る音が、静かに混ざる。
その一言に、澪の肩の力がほんの少し抜けた。
――この人、本当に敵なのか?
澪がそんな疑問を胸の奥で反芻した、その瞬間。
「ま、それはそれとしてさ」
変わらない軽い口調で、千尋の視線が澪に向かう。
「ラーメン伸びるよ?」
あまりにも唐突で、澪は一拍置いてからむくれた顔をした。
「もっと早く言えよ!」
慌てて麺を啜る。
勢いよく音を立てながら、食わないと死ぬと言わんばかりに箸を動かす。
その様子を、千尋は楽しそうに眺めていた。
スープをひと口啜り、にやりと笑う。
「ははっ、おもしれー。澪くん、飯友にならね?」
「は? お前殺し屋だろ!」
「まぁ仕事は仕事。飯は飯」
「線引き雑すぎだろ!」
隣で言真が呆れ顔でため息をついた。
「……お前ら、今ラーメン屋の中で何の交渉してんの」
湯気が立ちこめるテーブル越しに、千尋の顔がふっとほころぶ。
その笑顔に、どこか得体の知れない暖かさが混ざっている。
「俺さ、澪くんのこと守りたくなっちゃった。澪くんが傷つけられないなら、俺が代わりに襲ってきたやつ全部、撃退しちゃうよ?」
言葉は冗談めいているが、どこか本気が滲む。
スープの表面が揺れ、澪は一瞬、箸を口から離して目を丸くする。
その純真な驚きに、言真が眉をひそめる。
「ちょ、ちょっと待て。何言ってんだお前」
「別に本気って言ってるわけじゃねえよ。……多分」
「『多分』じゃ安心できない」
言真の声には、怒りにも似た緊張が混ざる。
千尋はそれを鼻で笑い飛ばした。
「九重くん、肩凝りそうな顔してるよ」
軽く言いながら、湯気の向こうで澪を見つめる。
その目だけが、冗談ではなかった。
「あと……澪くん、純粋だね。無知な子供みたいで、未完成な感じが堪らない」
ぞくり、と空気が揺れた。
言真の箸が止まり、澪が小さく身を引く。
「褒めてるのか、馬鹿にしてんのか、どっちだよ」
「褒めてるって。俺、未完成なやつ好きなんだ。伸びしろ感じるし」
千尋の軽い笑みは消えない。だが、その声色にはいつもの脱力した明るさとは違う、すこしだけ冷たい芯が差した。
「たださ、騙されて不利に立ってほしくないんだよね。『事故に見せかけて処理しろ』って、本部から指示が来てる」
言葉はさらりと出た。
周囲の湯気と人声は相変わらずだが、三人の世界だけが一瞬、凍りついたように静まる。
言真の箸が止まる。
顔に怒りと焦りがにじみ、視線が千尋へ向く。
澪は目を丸くして麺を半分すすったまま動けず、スープの湯気の向こうで小さく震えた。
「――本当か」
言真の声は低い。
襟元に刃物があるかのような緊張感が、言葉になって漏れ出す。
千尋は箸を置き、ふと真面目な表情を浮かべる。
軽薄な笑みを崩さないまま、しかし言葉はいつになく真剣だ。
「本当だよ。『表向き事故、現場処理で』って。言い方は色々だが、要するに“始末しろ”ってことさ」
箸を持つ澪の手が止まった。
だが、怯えるよりも先に、眉がぐっと吊り上がる。
「澪くんの処分は、特災観が凍結させたんだけど、上の人たちは納得してないみたいだからね。君のことは一切考えてない。人として見られてるのかも謎」
ふざけた調子のまま千尋は笑う。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
無邪気さの奥に、ほんのわずかな殺気が潜んでいる。
「俺には人権ないってこと? 何それ。人の命なんだと思ってんだ……って、あっちぃ!!」
怒りに合わせるように、澪の髪がぼっ、と燃え上がった。
瞬間的に立ちのぼる火。
澪は慣れた手つきでグラスの水を掴み、頭からぶっかける。
「……鎮火」
じゅう、と小さく音を立てて煙が消える。
店内の空気が一瞬固まり、隣の席の客が小声でざわついた。
「やべぇ! 澪くん、怒ると物理的に燃えるタイプだったんだ! さっすが〜」
千尋が爆笑しながら拍手する。
言真はこめかみを押さえ、深くため息をついた。
「店燃やしそうなのに笑うな。……水、もう一杯もらえますか」
店員が震えながら差し出すグラス。
澪はそれを受け取り、黙ってちびちび飲みながらぼそりと呟く。
「……俺、異能制御できるようになったって思ってたのに」
「いや、十分制御できてるよ。頭だけで済んでるし」
「フォローが雑すぎる!」
千尋の無責任な笑い声と、澪のツッコミが響く。
湯気と笑い声に包まれたその空間だけが、外の世界より少しだけ平和だった。
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