第32話 殺意よりも空腹が勝つ日
因課本部、最上階の防音会議室。
外の喧騒が嘘のように静まり返り、蛍光灯の白が冷たく反射していた。
テーブルの中央に、特災観からの通達文書が置かれている。
【特災観 洛陽監察局決裁】
【綾瀬 澪に関する処分決定を凍結】
【九重 言真の監察下における一時保護を承認】
その文面を前に、数人の幹部が無言で視線を交わした。
会議の空気は、報告書の文字よりもはるかに冷たい。
「……凍結だと。お情けか?」
初老の男が報告書を指で弾く。
乾いた音が会議室に響いた。
「特災観は“精神の安定が最大の抑止要因”だと言っているらしい。だが、安定など幻想だ。人間の心が、いつまで均衡を保てる?」
別の幹部が口を開く。
「特災観の決定は覆せません。ここで動けば、上層同士の摩擦が――」
「摩擦で済めばいいがな」
初老の男は机上のモニターを操作する。
画面には、八年前の氷炎事件の映像。
街を包む光、崩れ落ちるビル、風に巻き上げられた瓦礫。
「……この映像を見て、同じ言葉が言えるか?」
沈黙が落ちた。
誰もがその映像を直視できず、視線を逸らす。
「オーバーライドは一度制御を失えば、都市一つを吹き飛ばす。処分凍結など、ただの先送りだ。ならば、先に“事故”で処理しておく方が合理的だろう」
重い言葉。
それは命令ではなく、方針という名の殺意だった。
「……執行官を動かす、ということですか」
「そうだ。正式な処分命令ではない。だが現場で暴発したと報告すれば、上も黙認せざるを得ない」
「対象は九重言真の監察下にあります」
「だからこそ好都合だ。彼の現場判断として処理すれば、記録は残らない」
短い沈黙。
やがて、初老の男がデスクの引き出しから黒い封筒を取り出した。
机の上に静かに置かれる。
「執行官を動かす。特災観が手を出せない現場対応という形で、洛陽に送れ」
封筒の表には、赤い印章。
【極秘・局外任務】の文字が滲む。
若い職員が青ざめた顔で問う。
「……本当に、処分じゃないんですよね?」
初老の男は、笑わなかった。
「処分ではない。国民を守るための整理だ」
会議室の照明が一段階暗くなり、電子ロックが作動音を立てた。
その音が、何よりも冷たかった。
***
静まり返った廊下の先、重い金属扉がひとつだけ開いている。
中には、乱雑に散らかった机と、弁当の臭いが漂う。
扉の前に立つ男がひとり。
黒いスーツの職員の手が微かに震えている。
「執行官”ストリングス”で間違いありませんよね」
部屋の奥で、椅子を半回転させながら誰かが顔を出した。
黒いフード、乱れた髪。目の下には寝不足の影。
「んー? あー、俺だよ俺。なに? クビ?」
「いえ、その……任務の通達を」
封筒を差し出すと、ストリングスと呼ばれた男。
御影千尋は面倒くさそうに伸びをした。
「へぇ……事故死想定任務ねぇ。誰殺すの?」
「綾瀬澪。特災観の凍結対象です」
「おー、有名人。氷炎のやつ?」
「……はい」
「なるほどねー。ま、了解」
千尋は書類を一瞥しただけで、あっさりと封筒を机の隅に投げた。
代わりにカツ丼の蓋を開け、箸を取り出す。
「ちょ、ちょっと、待ってください! 今すぐ準備を――」
「いや、腹減ってんの。飯くらい食わせてよ」
命令書が放置され、カツ丼の湯気が上がる。
「お前さ、殺すのにも体力いるの知らないっしょ? まず飯。飯が俺を研ぎ澄ます」
「い、いえ、それは……そうかもしれませんが……」
「でしょ? あと寝不足。昨日寝てない」
「そ、それはご自身の生活管理の問題では……」
「管理って言葉、嫌いなんだよね」
箸でカツを摘まみながら、千尋はのんびりと笑った。
「うまっ!」
カツと米を口に含み、千尋の声が跳ね上がる。
お茶の入ったペットボトルを口につけて流し込み、食事半分に職員に目を向ける。
「まぁ、殺すかどうかは現場見て決める。……悪いやつならやるし、そうじゃなきゃ一緒に飯でも食う」
「は、はい……?」
「俺、そういうタイプ。暗殺者だって感情あるわけ」
職員は、口を開けたまま固まった。
千尋は、カツ丼を平らげると立ち上がる。
「じゃ、行ってくる。あとこの弁当、経費で落ちる?」
「……無理です」
「ケチじゃね? 他のとこは、夜勤の職員に差し入れくれるのに」
ぼやきながらフードを被り、千尋はガムを口にして膨らませる。
軽い足取りで、まるでこれから殺しではなく散歩に行くように歩いて行った。
***
じりじりと太陽が地上を焼き尽くさんばかりの夏の晴天。
アスファルトが蜃気楼のように歪み、熱が靴底から跳ね返る。
澪は、言真と並んで歩いていた。
目的はスーパー。
冷蔵庫の中が壊滅的だったため、最低限の補給に出たのだ。
「なあ、オーバーライド使っていい? 氷しか使わないから」
「ダメ」
即答だった。
澪はがっくりと肩を落とす。
言真の笑顔はいつも通り柔らかいが、目が全然笑っていない。
「でもさ、ちょっとだけなら――」
「澪、それは“ちょっと火事起こす人”と同じ理屈」
「氷なのに!?」
「冷気で街の電線まとめて落とす人も氷タイプだよ」
言真の淡々とした説明に、澪は黙る。
通りの熱気が頬を撫で、蝉が頭の上でフルボリュームで鳴きわめいていた。
「……もう外出るだけで試練じゃん」
「夏だからね」
「俺、外の異能全部禁止にされるの理不尽じゃない?」
「じゃあ扇風機買おうか。オーバーライドしなくても文明が解決してくれる」
「せめてエアコン」
「エアコン高いし、この時期のエアコン業者は忙しい。つまり、取りつける頃には夏終わってる」
どこまでも真っ当な正論。
しかし、どこまでも救いがない。
澪は、腕に食い込むほど買い物袋の取っ手を握りしめて小声で呟いた。
「俺が世界に優しくしても、世界は全然優しくしてくれない!」
「それ、帰ったらTシャツにプリントしとこうか?」
「いらん!」
目的地のスーパーの自動ドアが開いた瞬間、冷気が顔にぶつかる。
澪はあからさまに生き返った顔をした。
「……ここが楽園か……」
「外との温度差で倒れるやつ出るぞ」
「俺、いま心臓が喜んでる」
言真が呆れたように肩を竦めながら、カゴを澪に渡す。
野菜コーナーを抜け、冷凍食品の前で足を止めたときだった。
そこに、見知らぬ男がいた。
銀でも黒でもない、陽の光を透かすような淡い髪。
Tシャツの裾を片手でぱたぱたと扇ぎながら、
冷凍ケースの前にしゃがみ込んでいる。
「……あー、最高。文明って偉大」
ぼそっとした声が聞こえる。
手にはアイス。両手に持っている。
左右で味が違う。明らかに真剣な顔で悩んでいる。
「バニラかチョコか……永遠の課題だな……」
完全にただの客。
だが、言真の目がわずかに細まる。
「……おい、澪。離れろ」
「え、なんで。冷凍コーナー最高じゃん。アイス食いたい」
「あいつ、本部の人間だ」
澪がきょとんと目を瞬かせる。
男がこちらに気づき、ゆっくり立ち上がった。
人懐っこい笑み。
「おー、九重くんじゃん。久しぶりー」
「……御影千尋」
「そ。コードネーム、ストリングス。一応、執行官」
軽い。あまりにも軽い。
執行官。つまり“処分担当”の最終ライン。
本来なら、言真たち現場職員の命令系統の最上位にあたる。
「わざわざ洛陽まで何の用ですか」
「んー、上の指令でね。『ちょっと様子見てこい』って。でも暑くて死ぬから、冷やしてた」
どこまでも脱力した返答。
その一言で澪は逆に緊張し、カゴをぎゅっと握る。
「様子って、もしかして……俺?」
澪の声が震える。
「綾瀬澪くん、だっけ? んー、どんな強い圧あると思ったら、意外と普通の顔」
にこにこと人懐っこく笑う千尋に薄寒さを感じる。
しかし、その仕草に殺意も圧も一切ない。
ただ、何かを測っている気配だけが残る。
「ま、別に殺しに来たわけじゃないよ」
「“別に”が怖いんですけど」
「腹減ってるからさ。ラーメン食いにいこ。夏場のラーメン好きなんだよね」
澪と言真の視線が同時に動く。
客の声がどこか遠く感じる冷凍コーナー。
店内BGMのポップソングが、妙に場違いに響いた。
「……なんで殺しに来た人が飯誘うんだよ」
「殺す気は今ないもん。腹が満たされるまでは平和主義」
「いや、命の軽さと胃袋の重さ逆だろ」
言真が額を押さえる。
千尋は気にも留めず、にこにこと澪を見た。
「澪くん、ラーメン、何の味好き?」
「え、豚骨」
「いいね、気が合いそう」
最悪のタイミングで意気投合した。
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