第30話 それでも生かす側へ
「どうしても支部に戻らなきゃダメ?」
澪の掠れた声。
その響きに、言真はわずかに目を伏せた。
「大丈夫だよ」
短く答え、スマホを取り出す。
画面の向こう、皆上遼の名前が表示されている。
通話ボタンを押すと、数回の呼び出しの後、穏やかな声が響いた。
『ああ、九重くんか。綾瀬くんは見つかったか?』
「はい。見つかりました。ただ、少し……精神的に参ってる」
ほんの一瞬、遼の声の調子が変わる。
だが、言真は間を与えず続けた。
「本人が今、支部に戻るのを拒んでいます。興奮状態に近い。なので、俺の方で一時的に預かります。落ち着くまで、外部で静養させます」
『オーバーライドの対処は?』
「沈静化していますし、対処方法は把握しています。……念のため、通信だけは繋いでおきます」
通話の向こうで短い沈黙。
やがて、低く息を吐く音がした。
『……わかった。正式な手続きは後でいい。彼が落ち着いたら、改めて報告してくれ』
「了解です。助かります」
通話を切ると、言真はスマホをポケットに戻した。
その動作のまま、少しだけ息を吐く。
隣で澪が、ぼんやりとその様子を見ていた。
「嘘つき野郎」
「嘘じゃない。“落ち着くまで預かる”って言ったろ」
「精神的って……俺、病人かよ」
「いや、“俺が心配で放っておけない”って意味だ」
「どっちにしても過保護じゃん」
「お前を放っといたらまた誰かに狙われるだろ」
言真の声は軽いが、瞳だけは真剣だった。
澪は視線を逸らす。
その真剣さが、かえって胸に刺さった。
「どこ行くの?」
「俺の知り合いが持ってる空きアパートがある。セキュリティもいいし、外からじゃまず見つからない」
「隠す気満々じゃん」
「保護だよ。上にはそう言っとく」
冗談めかした言葉の中に、確かな決意があった。
澪は何も言い返せず、黙って頷く。
熱風の中、二人の影が長く伸びる。
ビルの隙間から流れる風が、ほんの少しだけ涼しかった。
「……なぁ、言真」
「ん?」
「俺、もう誰かを傷つけたくない。……誰かに殺されたくもない」
「わかってる」
「俺、別に言真を殺したいわけじゃなかった。あの時は、理性より先に出ちゃって」
「うん」
言真は前を見据えたまま、静かに頷く。
「……弟扱いしてるよな?」
「事実、兄弟だし」
へらりと笑う言真に、澪はその笑顔を横目で睨み、顔をしかめた。
「なんで怒らねぇの。ムカついただろ。理不尽に攻撃されて」
「理不尽じゃない」
言真は遮るように即答した。
淡々としているが、優しさよりも確信のこもった声だった。
「澪は俺を殺したかったわけじゃない。『殺される』って現実に、反射的に抗っただけだ。恐怖に身体が動いた。それだけだよ」
澪は顔を伏せた。
両手の拳を強く握る。
あの時の、自分の叫びと冷気の音が耳に残っていた。
「……俺、言真のこと信じてなかった。また隠されてるって思ってさ」
「ま、当然だよね。あんなの見たら澪じゃなくても混乱するよ」
「それでも、言真は違うって言おうとしたのに俺、聞かなかった」
唇が震える。
その震えを見て、言真は澪の頭を撫でた。
「仕方ないさ」
「……仕方なくねぇだろ」
「俺が怒ったら、お前どうすんの?」
「謝る」
「それで終わるなら、怒る意味ないじゃん」
軽口のように言って、言真は少し笑った。
だがその笑みの奥には、わずかな痛みが滲んでいた。
「言真」
「ん?」
視線を澪に向けると涎を垂らして今にも廃人になりそうな表情を浮かべていた。
「食べ放題がいい。腹減りすぎて内臓千切れる」
言真は一瞬、言葉を失った。
その表情は深刻どころか、もはや人としての尊厳ギリギリだ。
「食べ放題できる顔じゃないけどな。現実見ようか」
「現実見てる。腹減って死ぬ現実」
「威勢だけは元気、と」
言真は小さく笑い、ポケットを探る。
指先に触れたのは、常に持ち歩いている非常食。
小さなチョコバー。
「ほら、これ。今はこれで我慢」
「……神」
澪は奪うように受け取ると、包装を噛みちぎってかじりついた。
小さな音を立てながら、ゆっくり咀嚼する。
そのたびに頬の筋肉が動き、目の焦点が少しずつ戻っていく。
「……うま……生き返る……」
「ほらな。死ぬほど美味いだろ」
「生き返ったけど、胃が仕事再開した。飯寄越せ」
「はいはい。焼肉とビュッフェどっちがいい?」
「焼肉!」
目を輝かせて即答する澪に、言真はふっと吹き出した。
あれほど死にそうな顔をしていたくせに、もうこの調子だ。
「お前ほんと、生命力だけは異常だな」
「腹が減ったら死ぬんだよ、人間は」
「それはそうだな」
言真は肩をすくめ、それでも心の奥では、どうしようもないほど安堵していた。
***
特災観・洛陽監察局
窓の外、夏の陽が沈みかけていた。
洛陽の空は濃い朱色に染まり、ビルの隙間から蝉の声がこぼれている。
庁舎内の空調が低く唸り、薄い紙の束が机上で揺れた。
【対象者:綾瀬 澪】
【異能:オーバーライド】
【危険区分:特災級・監察指定】
【処分決定:因課本部提起】
その報告書の末尾には、黒いスタンプが押されている。
《特災観 審議中》
報告書を手に取った城戸廉は、短く息を吐いた。
特災観・洛陽監察局局長。
異能という言葉が行政文書に登場して以来、最も冷静に人間を見てきた官僚の一人である。
「……やれやれ。本部は、本当に処分という言葉が好きだな」
彼の低い声に、室内の誰もが口を閉ざした。
重役用の会議室には、紙と電子の二重記録が整然と並び、
壁際のスクリーンには、氷炎事件当時の映像が静止したまま映っている。
焼けた街。白く凍った道路。そして中心で崩れ落ちる建物。
「八年前の事故以来、あの青年の本来の異能、オーバーライドは封印状態だ。だが封印とは、消滅ではない。彼の心が折れれば、また発動する可能性はある」
若い監察官が頷き、問いかける。
「……だからこそ、本部は“再発前に処分”と。“国家の安定のため”という文言で上げてきています」
「それを理屈と呼ぶのなら、国はとっくに盲目だよ」
城戸は視線を落とし、報告書の余白にさらさらと文字を走らせた。
「オーバーライドは確かに危険だ。しかし危険なのは、力そのものではない。それを扱う人間の心の状態だ。もし再び暴発したなら、それは監督者の怠慢。彼の罪ではない」
静まり返る室内。
紙をめくる音すら、息をひそめたように響く。
「九重言真が保護下に置いたとの報告を受けている。特災観としても、その判断を承認する。彼の安定が確認されるまで、因課本部の命令は一時凍結だ」
沈黙ののち、秘書官が慎重に口を開いた。
「……つまり、処分決定は無効化、という解釈でよろしいですか?」
「そうだ。正式文書にはこう記せ」
《本異能・オーバーライドは国家危険級に該当するが、対象の精神的安定が最大の抑止要因であるため、現場判断による保護・監察を継続する》
署名を終え、城戸は静かにペンを置いた。
その仕草ひとつで、会議室の緊張がほどける。
ただ一人、彼だけは窓の向こうを見つめていた。
「処分とは、誰かを切り捨てる言葉じゃない。本来は“生かす手段を探る”ための最終手段だ。我々は、まだそこに立っていない」
夕陽が庁舎を赤く染める。
蝉の声が遠のき、冷たい空気が流れ込んできた。
その光の中で、城戸の声が静かに落ちた。
「特災観は、命を恐れてはいけない。たとえその命が、かつて街を壊したとしても。」
会議室の灯が消え、窓の外で街が夜の色に変わっていく。
報告書の上に残されたペンの跡が、朱色の光を淡く反射していた。
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