第27話 凍える夏
因課・洛陽支部、資料室。
澪は箒を肩に担いで中へ入ってきた。
「地味でも立派な労働だ……!」
誰もいない部屋に空元気を投げる。
外でのバイトが許可されないため、今は支部内で働く日々。
今日の任務は資料室の掃除。
紙と埃の海。生産性ゼロ。でも働けるだけで嬉しい。
「こういうの職員がやった方よくない? 書類台無しにしたら俺、訴えられるよな……」
ぼやきながら箒を動かす。
ふわりと埃が舞い、光がその粒を包む。
静かで、白くて、息が詰まりそうなほど整然としている。
「……静かすぎて逆に落ち着かねぇな」
その瞬間だった。
手のひらが、微かに熱を帯びた。
棚の中のファイルが一斉に向きを揃え、散らばっていた紙束が空中でふわりと重なり合う。
整う。秩序が戻る。
まるで、世界が自分の動きに合わせて整理されていくようだった。
「……え、なにこれ。勝手に片付いた……? これが今回の職輪転化?」
澪が目を丸くした瞬間、棚の奥でカチリと音が鳴った。
鍵がかかっていたはずの引き出しが、静かに開いている。
「おいおい、マジで勝手に開くのか。これ、やばくない?」
引き出しを覗き込んだその中に、白い封筒が数枚、几帳面に並んでいた。
「……やべ。これ触っていいやつ?」
迷いながらも、好奇心を抑えられず、ひとつを手に取ってしまう。
封の部分に指をかけた瞬間、紙が勝手に裂けた。
ぱら、と。
封筒の中身が、まるで呼吸するように滑り出してくる。
澪は反射的に受け止め、視線を落とした。
そこには――。
【処分決定報告書】
【対象者:綾瀬 澪】
【執行予定:未定(特災観監査後)】
活字の羅列。
機械のような文章が、無感情に“死”を記していた。
血が、さっと引いた。
紙の端を握る指が、震える。
「……は?」
意味がわからなかった。
頭の中で単語を並べても、何ひとつ繋がらない。
ただ、“処分”という二文字だけが浮かんで離れない。
「……なに、これ」
呟いた声は、息にもならなかった。
その時、ちょうどドアが開く音がした。
「おーい、澪。上手くやれてる? どんな異能出た?」
いつもの気の抜けた声。
言真が資料室に入ってくる。
澪は顔を上げた。
手にはまだ、紙を握ったまま。
「……言真。これ、何?」
その声は震えていた。
感情を抑え、確認するような静かな問いを向ける。
言真の笑みが、凍る。
「……それ、どこで……」
低く、押し殺した声。
その焦りの色が、すべての答えだった。
澪は一歩、言真の方へ歩く。
手にした紙を、彼の胸の前に突き出した。
「なぁ。……何で、俺が“処分対象”なんだよ」
空気が止まった。
言真の指先が僅かに動く。掴みかけた言葉は、喉で止まる。
「違う、俺たちは――」
「また隠してたんだ」
小さく、乾いた声。
それは怒鳴りでも泣きでもなく、ただ痛いほど真っ直ぐだった。
資料室の中、整えられた棚と静謐な空気だけが残る。
秩序が戻った空間の中で、澪の中だけが、めちゃくちゃに崩れていった。
「……何で普通に生きたいだけなのに、殺されなきゃいけないんだよ!!」
叫びは壁にぶつかり、反響して消えた。
痛いほど静かな余韻だけが残る。
白い紙が、ひらりと床に落ちる。
印字された自分の名前を見つめながら、
澪はかすかに笑った。
「結局、俺って“人間以下”なんだな」
そう言って、澪は資料室を出て駆け出した。
「澪! 待て!!」
言真が慌てて追いかけようとした、その刹那――
べちんっ。
情けない音とともに、澪の身体が前のめりに崩れた。
呼び止める間もなく、顔面から床に突っ込んでいる。
「……いや、転ぶなよ!? 今の流れで!?」
言真が駆け寄る頃には、澪は頭を押さえてうずくまっていた。
涙と怒りと痛みが全部混ざって、顔がぐしゃぐしゃだ。
「……くそっ……なんで、俺こんな時にまで!」
澪の叫びに、言真は息を吐いて歩み寄る。
胸の奥がずっと締めつけられていた。
怒りも、恐怖も、澪の叫びも全て本当だ。
「……澪、大丈夫か」
言真が声をかけた瞬間、空気が変わった。
ピキッ――。
白い床の表面に、冷気が広がる。
周囲の温度が一気に落ち、息が白くにじんだ。
「殺されて……たまるか!!」
澪の叫びが、異能を呼ぶ。
手のひらに青白い光が灯り、氷の刃が形を取る。
それは理性より速く、反射のように言真へ向かって放たれた。
「逸らせ」
ただ、それだけ。
言真が静かに言葉を放つ。
声は大きくも荒くもない。
次の瞬間、氷の刃が軌道を逸らした。
刃は壁際でただの氷片となって落ちた。
「あ……」
澪の顔色がみるみる青ざめていく。
その手が震えた。
「……俺、今……言真を……」
言葉が続かない。
頭の中で何度も映像が再生される。
自分が殺そうとした瞬間だけが、焼き付いて離れない。
「澪、違う」
言真の声は低く、柔らかい。
責めるでも、慰めるでもなく、ただ現実を整えるように。
「お前は、俺を傷つけたかったんじゃない。殺される未来を拒んだだけだ」
「……制御できたはずなのに。俺……!」
澪は両手を握り締め、唇を噛む。
理性の端で理解している。
怒りではなく、恐怖と自己嫌悪が暴走を呼んだのだと。
「……そっか。やっぱり、俺って危ないんだ」
「違う。お前の力が危ないんじゃない」
言真は一歩近づき、静かに言葉を置く。
「ひとりで抱え込むことが危ないんだ」
澪の瞳がわずかに揺れる。
床に広がった氷が、じわりと溶けていった。
静かに、まるで謝るように。
「……ごめん、言真」
その言葉だけを残して、澪は駆け出した。
「澪!?」
叫んだ瞬間、熱気が肌を焼いた。
支部の廊下にこもった夏の空気が、二人の間を押し分ける。
思考より先に、足が動いた。
「待て、澪っ! 行くな!!」
白い廊下に、靴音が鳴り響く。
空調の風も重く、生ぬるい。
遠くの蝉の声が、密閉された空間の外から微かに届いていた。
角を曲がるたび、澪の影が伸びては消える。
汗が首筋を伝う。息が荒い。
喉が焼けるほどに熱いのに、心臓の奥だけが凍るようだった。
「澪――!!」
叫んでも、振り返らない。
その背中は、逃げているというより離れようとしていた。
(くそっ……止めないと……!)
理性が焦りに押し潰されていく。
冷静さなんて、どこにも残っていなかった。
警備シャッターが作動し、廊下の先で低い警告音が鳴り始める。
赤い非常灯がゆらゆらと光を揺らし、廊下全体が真夏の幻のように歪んで見えた。
言真は全力で駆け抜け、シャッターの隙間に滑り込む。
床に手をついた拍子に、汗が指先から落ちて、床に散った。
立ち上がったときに、澪の背中が見えていた。
支部の出口。
開け放たれた扉の向こうから、真夏の光と熱風が吹き込む。
「澪!!」
声が喉を裂く。
けれど、その叫びは熱に飲まれて消えた。
風が唸り、カーテンがばさりと膨らむ。
廊下の空気が、一瞬だけ吸い込まれるように動いた。
次の瞬間――
扉の向こうの世界に、澪の影は消えていた。
言真は立ち尽くした。
熱気と蝉の声だけが、そこに残っていた。
「……嘘、だろ」
掠れた声がこぼれる。
胸の奥が、痛いほど熱い。
その熱がどこから来ているのか、自分でもわからなかった。
拳を握り、壁に叩きつける。
乾いた衝撃音が響き、手に微かな痛み。
だが、それすら現実を留めるには足りなかった。
『九重くん、すぐ戻れ。支部全域に警戒が出てる』
通信端末から遼の声が響く。
「……戻れって、冗談だろ」
額の汗を拭う間もなく、言真は走り出した。
白い廊下を抜け、真夏の光の中へ。
夜とは違う熱の奔流が、容赦なく肌を叩く。
セミの声が爆音のように響いた。
世界がうるさいのに、心の中だけが静かだった。
「悪い、遼さん。冷静になんて無理だ」
言真は呟き、照り返すアスファルトを蹴った。
遠く、街のざわめきと蝉の鳴き声の中へ――
逃げた澪の気配を追って、彼は真夏の空気を裂いていった。
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