第22話 牛丼プロトコル
因課、洛陽支部の会議室。
資料とコーヒーの匂いが混ざる中、プロジェクターには事件の映像が映し出されていた。
赤と青と黒の嵐、街を呑み込む氷炎。
そして、その中心にいたのは――綾瀬澪。
「……まぁ、派手にやらかしたねぇ」
皆上遼が苦笑交じりに漏らす。
眼鏡を押し上げる仕草は真面目だが、口調は肩の力が抜けている。
外見は二十代後半だが、不老の異能を持つ彼は四十を過ぎても変わらぬ若さを保っていた。
「八年前の再来、なんて言われても仕方ない。でもさ」
指先で紙コップを転がしながら、遼は言葉を続ける。
「今回は薬物と記憶刺激。本人が望んで暴れたわけじゃない。処分だの危険人物だの、軽々しく言うのは筋違いだと思うんだよ」
職員たちは頷き合う。
別の若手が遠慮がちに口を挟む。
「ただ……都市規模の被害を出しかけたのも事実です。二度目はもう、言い訳できません」
「そりゃそうだ」
遼はあっさりと認め、両手を広げて見せた。
「だからこそ、保護するんだよ。放っといて暴発させたら誰も得しない。だったら僕らで囲って、ちゃんとケアしてやる方が現実的だろ」
年配の女性職員が微笑みながら頷く。
「同感です。彼はただ普通に暮らしたい子ですものね」
「そういうこと」
遼はプロジェクターの映像を消し、場を見回した。
「処分は最終手段。経過観察と制御支援を優先。これが洛陽支部の方針ってことで、いいね?」
会議室に安堵の空気が広がる。
「上からなんか言われたら、僕が責任取るから、安心して業務に取り掛かろうね」
誰も処分を望んではいない。
ただ一人の少年をどう守るか、その答えが、因課の総意だった。
***
午前中。
訓練室の中央、澪はぎこちなく右手を前に突き出す。
対面する職員が火花を散らすと、空気がビリ、と震えた。
「――止まれッ」
声と同時に、職員の異能がぷつりと途切れる。
「おおっ、成功!」
ガラス越しに日菜が両手を叩いて跳ね上がりそうなほど喜ぶ。
「すごいじゃん澪くん! 今の“無効化”はバッチリ!」
澪は肩で息をしながらも、口元を引きつらせた。
「……マジで? 俺、ほんとに出来た?」
「できたできた! ね、言真さんも見てたでしょー!」
日菜がガラスの外を指差す。
言真は腕を組んだまま、小さく頷いてみせた。
(……俺でも、やれるじゃん……!)
胸の奥で熱が弾ける。
けれど次の瞬間、視界に赤と青の残光がチラついた。
「っ……!」
握った拳が熱を帯び、背筋を凍らせる冷気が這い上がる。
「澪くん!? そのまま深呼吸して! 落ち着いて!」
日菜の声がスピーカーから響く。
「だ、駄目だ……また……!」
澪の手のひらから炎と氷の気配が同時に噴き出す。
床のパネルが軋み、訓練室全体が震え始める。
「澪ッ!」
ドアを乱暴に開け、言真が飛び込んだ。
炎の熱波と氷の刃が入り混じる訓練室。
職員たちが息を呑む中、言真は叫ぶ。
「――昼飯は、牛丼だ!!」
その一言に、渦巻いていた熱と冷気がぴたりと止まった。
赤と青に染まった空気が霧のように消えていく。
「……牛丼マジ?」
しん、と室内が静まり返る。
「ああ、そうだ。つゆだくびちゃびちゃの牛丼だ」
「やったー!!」
澪がキラキラした目で叫ぶと、オーバーライドの気配は跡形もなく消え去っていた。
職員も唖然と立ち尽くし、日菜がガラス越しに頭を抱える。
「……何この治め方」
呆れる声の中、言真だけは小さく笑った。
「やっぱり、お前は飯で全部解決するんだな」
***
昼食の時間。
言真はトレイを持って澪の収容部屋へ入ってきた。牛丼定食が二人分。
「はい。澪のは、つゆだくびちゃびちゃ」
箸とレンゲを添えると、澪は子供みたいに目を輝かせた。
「お、待ってた!」
勢いよく「いただきます!」と手を合わせ、そのまま丼ごとかっ込む。
「……本当に食いしん坊だねぇ」
「飯は世界を救うって言ってんだろ」
「世界はどうか分からないけど、命くらいは救えるかもね」
軽口を叩き合う空気は一見日常的だが、漂う消毒液の匂いと監視カメラの視線が“ここ”が収容施設だと突きつける。
箸を動かす言真の丼は、紅生姜が山のように積まれていた。
「紅生姜、多くね?」
「かさ増しにいいからね」
紅生姜に埋もれた丼は、もはや肉が隠れて紅生姜丼になっている。
その滑稽さに一瞬笑いかけた澪だったが、ふいに視線を落とした。
「……外って、どうなってんの? 俺、あの時……ぶっ壊したじゃん」
空気が一瞬だけ重くなる。
言真は箸を止め、真剣な目で澪を見た。
「死者ゼロ。あれだけのことをして、今回も八年前も死者を出さなかった。それは、お前の中の衝動がそれを許さなかったのかもしれない」
澪はレンゲを握ったまま黙り込む。
言真の言葉が、じわじわと頭の奥で反芻された。
「……衝動、か」
低く呟く声に、言真が頷く。
「八年前も今回も、人だけは不思議なくらい避けてた。建物は壊れても、進路は空いてた」
「……確かに、道が開いてた」
思い出す。
赤と青の渦の中で、確かに“誰も傷つけない”道が開けていた感覚。
「それが初期反応だ。守りたいって衝動が先に出る。でも出力が上がると器ごと割れる。ラボの天井まで抜いたみたいにな」
「……だから制御」
澪は眉をひそめ、レンゲの柄を指でカチカチと鳴らす。
「そう。二段階に行く前に止める。そのためにアンカーを作る」
言真は静かに指を立てた。
「合図、感覚、呼吸。俺が、“昼飯は牛丼だ!”って叫んだら止まったろ」
「効いたね。脳が米を優先してた」
澪は苦笑しつつ、紅生姜をつまんで鼻先に近づける。
つんとした匂いに、小さく息が抜けた。
「……確かに、ちょっと落ち着いた」
「だろ? こういう戻れる合図を作っていくのが訓練の第一歩だ」
言真が肩をすくめると、澪はふっと視線を逸らす。
「名付けるなら“牛丼プロトコル”とか」
「だっさ…….。でも、覚えやすい」
二人は同時に吹き出し、短い笑いで張り詰めた空気がほどける。
笑いが収まると、言真の顔は再び真剣なものに戻っていた。
「……ただ、もう一つ。オーバーライドには副作用がある」
その声の調子に、澪の背筋が強張る。
「副作用?」
「フルで使った後、必ず二十四時間“脳とろ”状態になる。思考も判断も人間以下。バイト中に発動すれば即アウト。今までの脳とろは三十分程度だったけど、オーバーライドは二十四時間固定」
澪は顔を引きつらせ、頭を抱え込む。
「……マジかよ。俺の脳、ただでさえ容量少ないのに」
情けない声に、言真は苦笑しながらも視線を逸らさない。
「だからコントロールだけじゃなく、使うタイミングも重要。暴走を防ぐ仕組みと、終わった後に安全に過ごせる環境。両方整えないとね」
「……なるほど。つまり牛丼とベッドのセットか」
「そういうこと」
澪は長く息を吐き、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「飯と睡眠で世界を救うってか」
「悪くないじゃん。澪らしくて」
軽口を交わした直後、言真は少し真顔に戻った。
「……で、もう一つ。お前のオーバーライドが厄介なのは、“衝動型”と“記録型”を両方持ってることだ」
「は?」
「普通の異能は大体どっちかに偏る。感情や反射で暴発する“衝動型”か、一度覚えた動きを再現したり力を蓄積する“記録型”か。でもお前は両方フルで走らせてる」
言真は指を折りながら言う。
「感情で爆発的に発動する。これが衝動型。で、その瞬間に他人の異能を吸って保存する。これが記録型。同時処理だから、脳にかかる負荷は倍どころじゃない」
「……だから、脳とろ二十四時間固定?」
「そういうこと。起動するたびに頭を焼かれてるようなもんだし、二十四時間で済むのが救いなくらい」
澪は丼を抱え直し、苦い顔をした。
「チート異能ってより、バグ異能じゃん」
「だから、なるべく使わないほうがいい」
「じゃあ、職輪転化も?」
沈黙が訪れる。
「……ん?」
「いや、職輪転化もなるべく抑えた方がいい? でも、バイトやりたいしな……。異能二つあるのって面倒だよな」
更に沈黙。
言真は、ため息ひとつ吐いた。
「お前、ちょっと勘違いしてるみたいだから教えとくよ」
「何が?」
言真は腕を組み、わざと間を置いてから口を開いた。
「……澪。お前、二つ持ちじゃないよ」
「は?」
「職輪転化もオーバーライドも、根っこは一緒なんだ。枝分かれしてるだけで、元は一つの異能」
澪は目を瞬かせる。
「どゆこと? 俺、てっきりレアケースの二刀流かと」
「違う。オーバーライドが“本体”。職輪転化はその“日常用モード”みたいなもんだ」
「……え、日常用?」
「そう。お前の衝動は“人を傷つけたくない”。それが無意識に働いて、オーバーライドを暴走させないために作られた安全回路が職輪転化。バイトで能力を切り替えるのも、記録型の変形みたいなもんだ」
澪はぽかんと口を開け、頭を抱えた。
「……じゃあ俺、バイト異能で無邪気にドヤってたの、完全に保護者の子供用ナイフ握ってただけってこと!?」
「そういう言い方も出来る」
「はぁぁぁぁ!? チートだと思ったらバグだし! バグだと思ったら今度は幼児用モード!? 俺のアイデンティティどこだよ!」
頭を抱えて喚く澪に、言真は苦笑しつつも真顔に戻る。
「でもな、日常を守るために職輪転化があるのは事実だ。だから俺は、その安全装置をもっと強化する。オーバーライドが“核”なら、職輪転化は“外殻”だ。二つ揃えば……お前は人を守りながら生きられる」
澪は口を尖らせて睨みながらも、ほんの少しだけ息を吐き、呟いた。
「……最初から言えよな、そういう大事なこと」
「悪い。でも、今言えてよかっただろ」
「……牛丼プロトコルなかったら許してなかった」
「はいはい」
澪は、ふっと力が抜けたように肩を落とす。
「……結局さ。俺、オーバーライドでも職輪転化でも、どっちでも普通に生きたいだけなんだよな」
声は弱々しかったが、その奥に確かな願いがあった。
言真は静かに頷き、真っ直ぐに見つめ返す。
「だから支える。お前が日常を取り戻すまで、何度でも」
その真剣さに、澪は思わず視線を逸らした。
それでも口元には、わずかな苦笑が浮かんでいる。
「……牛丼プロトコルと、バイト代プロトコルがあれば……なんとかなるかもな」
「お前は本当に、それでいいんだな」
「いいんだよ。飯とバイトがある世界なら、俺は生きていける」
短い沈黙のあと、二人は同時に笑った。
張りつめていた空気が、ようやくほどける。
――澪にとっての“普通”は、まだ遠い。
けれどそのための道筋は、確かにここから始まっていた。
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