第21話 空腹と真実
施設の一室。四角い窓の外には、因課の職員たちが無言で控えている。
「水……飲めるか」
差し出された紙コップ。
澪はしばらく黙って見つめ、やがて視線を逸らす。
「……ありがと」
水を一口だけ飲む。
そのままカップを置くと、息を吐き出すように呟いた。
「俺……全部、思い出した」
言真の目が僅かに揺れる。
澪は笑おうとしたが、うまく口角は上がらなかった。
「八年前……俺が暴走して。街、壊して。人を傷つけて。……で、お前が――」
言葉は続かない。
喉の奥がひりつき、声が出なかった。
「……澪」
低く響く声。
それは八年前と同じ……必死に守ろうとする兄の声だった。
「……あんなによくしてくれたのは担当官だからってだけじゃないよな。兄貴だから? 可哀想な弟のため?」
「違う。それは――」
「助けてくれてありがとう。でも、今さら兄貴なんて……」
澪は顔を歪め、拳を握りしめて怒鳴った。
「……最初から言えよ! 言ってくれてたら、まだマシだったんだよ!!」
聞いたことのない、澪の悲痛な怒鳴り声が響く。
「俺、お前になら何でも話せた! なのに、お前はこんな大事なこと隠して!! そんなの……!」
捲し立てるように叫んだ、その時。
グウゥゥゥ……。
静まり返った部屋に、澪の腹の虫が間の悪いタイミングで鳴り響く。
バイトが終わったと思ったら拉致され、監禁され、事件に巻き込まれ……。
空腹にならない方がおかしい。
「……空気読め、俺の腹……」
がくりと項垂れる澪に、場の緊張が一瞬だけほどけた。
「……飯、持ってくる」
言真が低くそう告げ、踵を返そうとした瞬間。
澪は反射的にその腕を掴んだ。
「……一緒に食え」
その声は弱々しく、けれど確かな意志を帯びていた。
言真は振り返り、黙って頷いた。
***
簡易テーブルの上に並べられたのは、とんかつ定食。
施設の中で許された唯一の日常の匂いだった。
「いただきます!」
箸を手にした澪は、ソースのかかったとんかつにかぶりついた。
「うまっ! やっぱり肉は裏切らない!!」
大袈裟に叫ぶ声が、無機質な白い部屋に響く。
さっきまで泣きそうに怒鳴っていた人物とは思えないほどに。
「……そうだな」
呆れ顔の言真も、箸を取る。
けれど澪の反応に、口元が少しだけ緩んでいた。
「ご飯が進む、米が止まらん!」
「……お前は本当に、飯で全部解決するな」
「そりゃそうだろ! 人生、飯!!」
胸を張って堂々と言い切る澪。
頬いっぱいに白米を詰め込みながら、感極まったように叫んだ。
「うめぇぇぇぇー!!」
そのバカみたいな声に、言真は思わず吹き出す。
緊張で張り詰めていた空気が、ようやくほどけていった。
***
とんかつ定食を半分平らげた頃。
澪の勢いは少しずつ落ち着き、ようやく箸を置いた。
「……はぁ。やっぱ、飯はすげぇな」
「落ち着いたか」
「うん。……なんか、さっきまで頭に血上ってたけど、腹いっぱいになったらどうでもよくなった」
自嘲気味に笑って、湯気の立つ味噌汁を啜る。
それを見て、言真も箸を休め、静かに澪の言葉を待った。
「でも……本当はどうでもよくないんだよな」
澪は、箸で茶碗の端をつつきながら呟いた。
「最初から兄弟だって知ってたら、俺……もっとお前に頼れたのかな、とか思う。でも言われなかったから、今こうしてめちゃくちゃ拗れてんじゃん」
言真は黙って聞いていた。
視線を逸らさず、ただ受け止めるように。
「……でも、助けてもらったのも事実で。正直、どうすりゃいいか分かんない」
そこで澪は顔を上げた。
困ったような、泣きそうな、でも少しだけ笑った顔。
「だから今は……飯食って生きてるだけで、もう十分ってことにしとく」
言真は一瞬目を伏せ、次に静かに頷いた。
「……それでいい」
二人の間に流れる空気は、重苦しさの中に、かすかな温もりを含んでいた。
箸を再び手に取り、澪は残りのとんかつを口に放り込む。
「……肉、最高」
「はいはい」
言真の小さな笑い声が、白い部屋の中で静かに響いた。
***
翌日。白い観察室。
ガラス越しに見守る職員たちの中から、ひょいと一人が前に出た。
「澪くん。はいはーい、説明タイムです!」
明るく手を挙げたのは、日菜だった。
澪は眉をひそめ、じろりと睨む。
「……なんでそんなノリ軽いんだよ。てか、誰だよ」
「篠原日菜。因課で主に情報整理やってる人だよー」
自己紹介も調子っぱずれで、にっこりと笑う。
澪は目を細めて、深いため息を吐いた。
「それにしたって軽すぎだろ」
「だって、重い顔されて“お前は危険だ”なんて言われたら、余計落ち込むでしょ? だから説明は、太陽のように明るい私が担当!」
胸を張って言い切る日菜に、澪は言葉を失う。
場の空気をさらりと変えながら、彼女は本題を切り出した。
「じゃ、説明するね。澪くんの本当の異能は“オーバーライド”。名前、かっこよくない?」
「いや、かっこいいか? 何だよそれ」
「簡単に言うと、他人の異能に干渉して、“止める・奪う・混ぜる”の三段活用!」
「三段活用て」
思わず突っ込む澪をよそに、日菜は指を折って説明を続ける。
「ほら、八年前に炎と氷がドッカーンって暴走したでしょ? 無効化で発動基盤をぶっ壊して、他人の異能吸い取って、合成して……結果、大惨事」
軽い調子に似合わず、その内容はあまりに重かった。
澪の顔色が一気に青ざめる。
「おい待て、それ俺のせい確定みたいに言うな!」
「まぁ、事実なので」
さらりと言い切る日菜。
澪は頭を抱え、呻くように声を漏らす。
だが日菜はすかさずパンと手を叩いた。
「でもね!」
その声は、まっすぐに澪を射抜く。
「だからって、澪くんが危険人物だって意味じゃないんだよ。そういう力を持ってるだけ。だから罰するんじゃなくて、守りたいの」
「……守る?」
思わず反芻した問いに、日菜は力強く頷いた。
「うん。だって一人で抱え込んだら、またバーン! ドカーン! でしょ? だから、私たち因課が一緒にいるんです」
澪はぽかんと口を開けた。
「いや、軽っ! 人生かかってんだぞ!」
「だからこそ! 軽く説明して、ちゃんと支えるんです!」
無邪気に笑うその表情は、強引さよりも安心感を残す。
そして、最後だけは真顔で優しい声で言葉を重ねた。
「安心して。澪くんは、独りじゃないから」
その声に、澪は返す言葉を失った。
視線を逸らし、唇を噛むしかなかった。
***
説明が終わり、日菜を含む職員が退室すると、扉が開いた。
中へ入ってきたのは、言真だった。
澪は視線を逸らし、わざと拗ねたようにベッドの端に腰をずらす。
言真はそんな態度を気にする様子もなく、隣に腰を下ろした。体重がかかり、ベッドがギィと微かに軋む。
「……今後、引き続き俺がお前の担当になった」
淡々と告げられた言葉に、澪は横目で睨みつける。
「身内だから? 一番分かってるからとか言うつもりないよな」
刺のある声音。しかし言真は静かに首を横に振った。
「俺がゴリ押した。お前の傍にいたいから」
その一言に澪の喉がひくりと動く。
すぐに言い返すが、声には微かな揺らぎが混じっていた。
「また守るとか言うのか。……無理だろ」
「そうだな。八年前も今回も無理だった」
言真は自嘲気味に笑い、しかし視線は真っ直ぐに澪へ向けられる。
「どんな異能者でも、お前のオーバーライドには勝てない」
「……聞いた。チートすぎんだろ、その異能」
澪は抱きしめていた枕に顎を乗せながら呟いた。
半ば本気で拗ねているが、その奥に怯えが透けて見える。
「でも、そのチートすぎる異能をコントロール出来れば、日常に帰れる。普通に戻れるはずだ」
言真の声は揺るがない。
「その手伝いはしたいって思ってる」
「無理だろ。あんなの……コントロールなんて」
弱音のように零れる声。だが言真は頷いて否定はしなかった。
「そうだな。簡単じゃない」
それでも、と言葉を強くする。
「コントロール出来たら好きなことも出来るし、食いたいもんも食える」
澪はしばし黙り込み、枕をぎゅっと強く抱きしめた。
そして、小さく息を吐き出すように言う。
「……バイトしたい」
ぽつりと零れた本音に、言真は思わず苦笑した。
「……わざわざ新しく異能取らなくても大丈夫なのに?」
「そうだけど」
澪は小さく笑い、視線を伏せる。
「職輪転化のためじゃない。俺にとっては……バイトが“普通”なんだ。誰かと並んで、汗かいて、金もらって……そういうの、当たり前みたいで一番特別なんだよ」
言真はしばらく黙って澪を見つめた。
その言葉には、異能や因課の管理の外にある、澪の日常への強い願いが滲んでいた。
「……そうか。じゃあ、それを取り戻すために頑張ろうな」
澪は視線を伏せたまま、小さく肩をすくめる。
それ以上は何も言わなかったが、先ほどまでの刺々しさは和らいでいた。
静かな沈黙。
けれどその沈黙は、以前のような断絶ではなく、どこか落ち着きを孕んでいた。
「……腹、減ってんだろ」
言真が立ち上がりかけてそう言うと、澪は一瞬だけ顔を上げ、そしてふいと横を向いた。
「……一緒に食うなら、いい」
小さな声。
その言葉に、言真は微かに笑って頷いた。
白い灯りの下、二人の間に漂う空気は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
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