第19話 否定の叫び
言真は澪の部屋で、コンビニ弁当を冷蔵庫にしまいながらスマホを開いた。
数時間前に《今日はチキン南蛮弁当だよ。真っ直ぐ帰ってきなさい》と送ったメッセージ。
母親じみた内容にいつもなら「オカンかよ」とか、「やったー!」と賑やかな返事が返ってくる。
少なくとも既読だけは必ずつくはずだった。
だが、画面は沈黙したまま。
既読のマークすら灯らない。
(……なんだ、これ)
胸の奥に、冷たいざわめきが広がる。
ただの偶然かもしれない。
けれど、今まで一度もなかった沈黙は、不吉の影にしか見えなかった。
言真は迷わず発信ボタンを押した。
呼び出し音が数回鳴り、やがて虚しく留守電に切り替わる。
「……澪。何やってんの」
眉間に皺を寄せ、もう一度かけ直す。
だが、結果は同じ。
(出ない……? こんなこと、今までなかった)
心臓が嫌なリズムを刻む。
メッセージアプリに《どこにいる》と打ち込み送信するが、画面は沈黙したまま。
冷蔵庫の中に入れた弁当のパッケージが、やけに場違いに明るく見えた。
(……まずいな)
胸の奥で膨らむ不安が、確信めいた重みに変わっていく。
言真は、澪が「今日のバイト」と言っていたイベント会場に電話をかけた。
呼び出し音が数回鳴ったあと、無機質な自動音声が流れる。
『本日の業務は終了しました。ご用件のある方は、発信音のあとに――』
「……」
舌打ちを飲み込み、言真は短く息を吐く。
発信音が鳴り、仕方なくメッセージを吹き込んだ。
「国家異能者登録管理課、洛陽支部の九重です。……本日、そちらでアルバイトをしていた綾瀬澪。まだ残ってないか、至急折り返して下さい」
通話を切る。
冷蔵庫に収まるチキン南蛮弁当が、静かに冷えていく音がやけに耳に残った。
(連絡なし。既読もつかない。バイト先も閉まってる。……全部、普通じゃない)
胸の奥がざわざわと波立つ。
その予感は、ただの心配ではなく――確信に近いものへ変わりつつあった。
***
――冷たい。
目を開ければ、薄暗い部屋。
コンクリートの壁と、裸電球が一つ。
両手首には金属製の拘束具が嵌められ、後ろ手に椅子へ縛り付けられていた。
「……お約束すぎるだろ……」
思わず情けない声が漏れる。
頬に冷たい汗が伝い、喉はカラカラに乾いている。
視線を動かせば、テーブルの上に置かれた試験管や薬品、見慣れない機械。
その隣には、見覚えのある紙コップ。
「……これ絶対、あのジュースだよな。脳とろ即効、マジふざけんな」
悪態を吐き、無駄な抵抗と知ってても身を捩る。
ギィ、と扉が開いた。
白衣を着た数人の影がゆっくりと入ってくる。
「目を覚ましたか」
「やはり“氷炎の子”だな。反応速度が素晴らしい」
声は優しいが、温度がなかった。
澪は喉を震わせ、かすれ声で叫ぶ。
「……氷炎氷炎って! 勝手に中二ネームつけんな! 恥ずかしいわ!」
研究員たちは顔を見合わせ、含み笑いを漏らす。
「自覚がないのか。やはり、記憶が欠落しているみたいだな」
「だが、それもすぐに覆る」
「……“再現”の準備を進めよう。時間をかけないように」
背筋に冷たいものが走る。
「再現……? なんの話だよ」
答えは返ってこない。
ただ、金属トレーの上で光る注射器や機械が、無言で答えていた。
(……やっば。これ絶対、人体実験コースじゃん!? マジで逃げないとやばいやつ)
心臓がドクドク鳴る。
けれど澪は必死に声を張り上げた。
「おい、せめて説明くらいしろよ! 氷炎の子ってなんなんだよ!!」
情けない叫びが狭い部屋に反響する。
その横で、注射器を手にした研究員が澪の頭をそっと撫でた。
「大丈夫。痛いことはない……まずは、記憶を取り戻してもらう」
「記憶……? や、やめろ……ほんとにやめろって! 俺の脳、容量カツカツなんだよ! 毎日の生活考えるので必死なの!」
必死の抵抗も空しく、首筋に針が突き立つ。
冷たい薬液が流れ込む感覚に、澪の全身がびくりと震えた。
「っ……だ、駄目だ……これ絶対、脳とろ直通だ……」
声が、途中で掠れる。
視界の端に、赤と青の光が滲み出した。
「……な、んだ……これ……?」
耳の奥で轟音が響く。
熱いのに凍える。
相反する感覚が胸を突き上げる。
気を失う直前、脳裏に誰かの声が割り込んだ。
『……澪!! 起きろ!!』
必死に叫ぶ少年の声。
泣きそうで、それでも諦めない声。
伸ばされた腕に抱きかかえられる感覚が蘇る。
(……これ……夢で見た……あの時と……同じ……?)
混乱する思考は、暗闇に飲まれかけていた。
しかし声だけは、耳に焼きついて離れない。
『澪は……澪は、俺の――!』
夢と違ったのは、その顔がはっきり見えたこと。
若い日の、必死に泣き叫ぶ――九重言真。
『俺の弟だ!!』
胸の奥が、衝撃で凍りついた。
言真の顔が、弟と呼ぶ声と共に、心臓に深く刻み込まれる。
「……こと……ま……」
掠れる声がこぼれた瞬間、澪の意識はぷつりと途切れた。
***
――八年前。
空は透き通るような青で、夏の日差しが容赦なく照りつけていた。
だが、その日二人の胸に広がっていたのは爽やかさとは程遠い、張り詰めた緊張感だった。
澪と言真。
二人は血の繋がった兄弟でありながら、一緒に暮らすことすら許されていなかった。
理由は単純だ。
父親の過ちによって生まれた、母の違う子供同士。
大人たちは「互いに関わるな」「顔も合わせるな」と口を酸っぱくして命じていた。
それは、子供にとって何の責任もないのに、理不尽な“線引き”だった。
だからこそ、二人はこっそりと会った。
秘密の待ち合わせ場所は、住宅街から少し外れた川沿いの小さな公園。
古びたブランコが二つ並び、草の匂いとセミの声が充満している。
「……ほんとに大丈夫か? もし、親に見つかったら」
十八歳の言真は、眉をひそめる。
「平気! お兄ちゃんに会う方が大事だし、ばれたら謝る!」
幼い澪は胸を張って笑った。
無邪気に「お兄ちゃん」と呼ぶ澪の声に、言真の胸は締め付けられる。
兄であることを禁じられたまま生きるより、この一瞬でも兄弟でありたかった。
「絶対、ばれないようにな」
そう言いながら、言真は澪の頭を乱暴に撫でた。
澪は嬉しそうに笑い、靴を脱ぎ捨ててブランコをこぎ出す。
夕方までの、わずかな時間。
秘密の兄弟は、親に隠れるように会話し、笑い合った。
――だが、その夜。
道の途中まで澪と言真が歩いていた時だった。
「澪!!」
鋭い声とともに、澪の母親が駆け寄り、その肩を強く掴む。
「会っちゃダメって言ったでしょ!」
「で、でも僕……お兄ちゃんと遊びたくて……」
「お兄ちゃんなんかじゃないの!!」
母親は、涙目で言葉を詰まらせる澪をよそに、憎しみの視線を言真へ向ける。
「向こうでも会わないようにって言われてるわよね? あんたと関わって、澪が歪んだらどうすんの? 責任取れる!? 取れないわよね! あの女の息子なんだから!!」
捲し立てられ、言真は拳を握りしめる。
けれど、反論する声は震えて喉の奥に詰まってしまった。
「……俺は、ただ……」
ぽつりと呟いたが、その続きを言えない。
「…………やめて」
小さな声。
澪の瞳から涙が零れ落ちる。
母親は気付かず、言真もその声を最後まで聞き取れなかった。
けれど次の瞬間、澪の叫びが空気を裂いた。
「お兄ちゃんをいじめないで!!」
その瞬間、赤と青の光が同時に弾けた。
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