第18話 お疲れ様の言葉と共に
夜。
澪はスマホを掲げ、元気いっぱいに腕を突き上げた。
「バイト解禁だぁー!!」
叫んだ瞬間、胸の傷がズキリと痛む。
だが、それすらも喜びの勢いにかき消された。
「でも、あんまり身体動かすのはNGね。傷がヤッホーするから」
「分かってるって! ……どれどれ」
言真の忠告を聞き流しつつ、澪は求人アプリをスクロールする。
「おっ、道路工事。え、意外とよくね?」
「こら鳥頭。だから“身体動かすのはダメ”って言ったでしょうに」
「じゃあ何ならいいんだよ! 俺に出来る仕事は……」
スマホをスクロールしながら澪の目がキラリと光る。
「……よし、ホスト! え、これ俺出来る?」
「無理」
「じゃあ、えっ!? 地下アイドルのバイト?」
「もっと無理でしょ」
「えー!? じゃあ……スイーツバイキングの試食モニター!」
「それバイトじゃなくてただの食い逃げ予備軍。求人にないでしょ、それ」
「ぐぬぬ……。じゃあ、じゃあ……!」
澪が必死に画面をスクロールしている横で、言真はゼリーを食べながらぼそっと言った。
「……図書館のバイトとかにしときなよ」
「おおっ、神!! エアコン効いてて座れる! 最高じゃん!」
「……でも本棚整理で腰やられるからね」
「じゃあダメじゃねぇか!!」
夜のアパートに、澪の情けない叫びが響き渡った。
***
翌朝。
首から下げたスタッフ証を掲げ、澪は意気揚々と建物の裏口から足を踏み入れた。
「どうもー! バイトに来ました綾瀬でーす!」
声がやたら大きい。
そのテンションに、すでに準備を始めていたスタッフ達が一斉に振り向いた。
「あ、君が綾瀬くん? 始めましてー。井川です」
責任者らしき穏やかそうな中年男性が笑顔でバックヤードに案内してくれる。
(結局選んだのは、イベント会場の物販スタッフ! 物販スタッフとかなら傷も痛くないだろうし、井川さんも優しそうだし、異能だって――)
気合十分。
だがその直後、
「よいしょ」
とダンボールを抱えた井川にそれを渡される。
「はいこれ、Tシャツ百枚。全部サイズ別に仕分けてね」
「……え、百!?」
澪は思わず声を裏返らせた。
傷が痛むとか以前に、単純に量が多すぎる。
「だ、大丈夫かな俺……」
「若いんだから平気平気」
井川はにこやかに返す。
その笑顔がやけに余裕たっぷりで、澪は逆にプレッシャーを覚えた。
ダンボールの山に囲まれ、澪はしばし呆然とした。
「えっと……S、M、L……XLって……なんで服のサイズってこんなにあるんだろ」
仕分けしようと広げた瞬間、山がドサッと崩れてTシャツが雪崩のように床を埋める。
「ぎゃああ! 井川さーん!! 早くも遭難しました!!」
情けない叫びに、井川は苦笑しながら近寄ってきた。
「ははは、大丈夫大丈夫。こういうのは慣れだから」
「慣れる前に心折れそうなんですけど!?」
慌てて拾い集めていた澪は、不意に頭の中に数字が浮かんだ。
(……S:38、M:42、L:16、XL:3)
思わず口をついて出る。
「Sが38、Mが42、Lが16、XLが3!」
その場にいたスタッフ達が一斉に振り向く。
「え、今のって在庫数だよな……」
「まだ数えてないのに、なんで分かるんだ?」
澪はキョトンと瞬きをした。
「あれ? なんか勝手に頭に浮かんだだけっす。……俺、ついに在庫管理の神に覚醒した!?」
胸を張る澪を、井川は柔らかく笑って受け流す。
「ははは、頼もしいねぇ」
その笑顔の奥に、どこか底知れない影がちらりと見えたことに――澪は気付かない。
***
午前中の仕分けが終わり、いよいよ物販ブースが開場した。
客の波に押され、スタッフ達が右往左往する。
「すみませーん! このキーホルダーって、まだ残ってますか?」
女性客の声に、澪は反射的に返した。
「残り7個ありますよー! 倉庫に4個、ここに3個!」
「え、すご……! 即答!?」
客が感心している間に、澪は棚から商品をスッと取り出し、にこっと差し出す。
「ラスト3個、確保しときますね!」
次の瞬間。
「すみません、TシャツのMサイズは?」
「残り21枚です! あ、黒は12枚、白は9枚っす!」
「……まさかもう全部数えたの?」
「いや、なんか浮かぶんすよね〜。俺、在庫管理で生きるべくして生まれてきたのかもしれない!」
スタッフ仲間がどよめく中、澪は淡々と次の客に対応していく。
「限定タオルは?」
「あと5本! ただ今後ろの列に並んでる人で売り切れます!」
「おおおっ! 神対応!」
井川は少し離れた場所からその光景を見つめ、口元に笑みを浮かべた。
それは仕事ぶりを褒める笑顔に見えたが、どこか別の意味を含んでいるようにも見えた。
***
夕方になれば、片付けも終わりスタッフが次々と帰っていく。
澪もスマホで入金された金額をアプリで確認して、にやにや笑顔で帰ろうとしていた。
「あ、綾瀬くん。ちょっといい?」
「井川さん?」
井川が紙コップに入ったジュースを差し出す。
「今日はよく頑張ってくれたからね。お疲れ様。差し入れ」
「マジっすか! 優しいな〜! ありがとうございます!」
澪は躊躇なく一口。
――甘い。けど、妙に舌に残る苦み。
「ん? なんか……変な味?」
「そう? 気のせいじゃないかな」
だがその声が遠く、耳鳴り混じりに聞こえる。
澪は舌の上で、さっきのジュースにわずかに苦みが残っていたことを思い出す。
苦みは、すぐに波のように広がり、頭がふわりと軽くなる。
(何だ……この脳とろ直前みたいな感覚)
手を伸ばしてスマホを掴もうとするが、指先が思うように動かない。
まるで誰かがケーブルで手首を引っ張っているみたいだ。
言真に連絡したくて画面に触れようとするが、文字は指先から滑り落ちる砂みたいに掠れていく。
視界が揺れ、床のタイルが波を打つように歪む。
井川の顔が近づく。微笑みは変わらない。
だがその目の奥が、さっきとは違って静かに研ぎ澄まされているのを、曖昧な頭で何となく感じた。
「よかった。効き目、早かったね」
声は甘いが、澪の身体は言うことをきかない。
言葉が口をついて出ようとするのに、舌が重い。
息が浅くなり、肩が落ちる。
背後から、もう一人、二人とスタッフが近づく足音がした。
何か得体のしれない気配を纏う人物。雰囲気が明らかに此処のスタッフじゃない。
音ははっきり聞こえるのに、身体はその場にへばりつくように動かない。
「ちょっと手伝ってもらえるかな?」
井川の合図で、彼らが澪の両腕を優しく、しかし確実に掴む。
掴まれる感触はある。
だが抵抗の力が湧いてこない。
筋肉が鉛のように重く、声も絞り出せない。
澪は必死に顔を上げ、周囲を見渡す。
物販のテーブル、残されたダンボール、遠くで帰り支度をしている従業員の背中。
誰かに助けを求めようと視線を探すが、世界がスローモーションになっていく。
「行きますよ。大人しくね」
言葉の最後は子供のように優しく、澪はその
「行きますよ」
に身体を委ねるしかなかった。
両腕を押さえられ、誰かが腰に手を回して抱き上げる。
浮くような感覚のあと、胸のあたりに冷たい金属の輪っかが触れた気がした。
ベルトか、何かの拘束具かもしれない。
かすかな力を振り絞って、澪は声を振り絞る。
「ぐっ……たす……けて……!」
声は掠れ、ほとんど出ない。
数メートル先で井川が振り返り、澪の目をじっと見て、にっこり笑った。
「お疲れ様。良いデータ、ありがとうね」
その言葉が最後に耳に入った瞬間、世界が黒いカーテンで覆われるように沈んでいった。
肩越しに見えたバックヤードの明かりが、遠ざかっていく。
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